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本編

第三十九話 手を取って①

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 それから、どれくらいの時間が経過しただろうか。
(ックロム……!)
 すっかり暗くなった小窓の向こうへ想いを馳せ、アリーチェはただただクロムのことだけを考えていた。
(……クロム……ッ!)
 夕食だと牢の内側に差し入れられた食事は手つかずのまま、すっかり冷めてしまっている。
 ただただ締め付けられるように胸が痛く、とてもなにかを口にしたいとは思えなかった。
(私のせいで……!)
 アリーチェがクロムを巻き込まなければ。
 アリーチェが解呪を頼まなければ、こんなことにはならなかったのに。
 こんなことになるのなら、足掻いたりせずそのまま呪い殺されていればよかった。
 そうすれば、少なくとも被害者はアリーチェ一人で済んだはずだ。
 アリーチェがクロムの元を訪れなければ、今もクロムはあの研究施設で自分の好きなことをして楽しく過ごしていただろうに。
(嫌よ、嫌……)
 このままクロムが、この世から消されてしまうなんて。
(どうして……!)
 アリーチェ一人がいなくなればいいはずだったのに。
「クロム……ッ!」
 とうとう涙が溢れ出し、顔を覆ったアリーチェが悲痛の声を上げた時。
「? はい。なんでしょう」
「――っ!?」
 ふいに聞こえた、もはや耳慣れてしまった独特な声色に、アリーチェは驚愕で目を見張っていた。
「……っクロム!?」
 空耳にしてはありえないほどはっきり聞こえた声に、アリーチェは瞬時に顔を上げると辺りを見回した。
 すると。
「助けに来ました」
「!」
 すとんっ、と目の前に影が落ち、黒いマントを纏ったクロムが姿を現し、アリーチェは絶句した。
「な……っ?」
 そこにいたのは、見間違えようがないほどクロムそのもの、その人だ。
 だが、どこかに囚われているはずのクロムが突然姿を見せたことに、アリーチェの思考は驚きのあまり停止する。
「? アリーチェさん?」
 どうしました? と、下から顔を覗き込まれ、今までの人生の中で一番近く見続けたに違いないその顔が涙でぼやけていく。
「ク、ロム……?」
「はい」
「……本、物……?」
 わざわざ確認しなくとも、本物であることは本能のようなものが察していた。
 けれど、どうしても確かめずにはいられなかったアリーチェへ、クロムは小さく苦笑する。
「はい。本物です」
 手を取られ、クロムの胸元に添えられれば、トクン、トクン、という確かな心音が響いて堪らない安堵に襲われる。
「ク、ロム……ッ!」
「!? ……っと……」
 ぶわりと涙を溢れさせたアリーチェが勢いのまま抱きつけば、危なげなく迎え入れてくれる胸があって、安心感に包まれる。
 けれど、一瞬驚いたように目を丸くしたクロムはすぐに困ったような笑みを浮かべ、アリーチェの背中を宥めるように撫でてくる。
「感動の再会をしたい気持ちもあるのですが、長居は危険なので」
「っ」
 耳元で静かに告げられた言葉にハッとする。
「とりあえず逃げましょう」
「……“逃げる”、って……」
 確かにクロムはアリーチェを“助けに来た”と言っていた。
 だが、“逃げる”と言われても、ここは高い塔の上にある、外から施錠された密室だ。
 こんなところから、一体どうやって逃げ出すというのだろう。
「ここの壁までは結界を張られていないので、今のうちです」
 ここまで結界を張られていたらこうはいかなかったと小さな溜め息を吐き出すクロムは、結界の解除に手こずったために囚われていた場所からなかなか逃げ出せなかったのだと苦笑した。
「?」
 クロムの言っていることの半分も理解できなかったが、とにかく今であれば逃げ出せるらしいということだけはわかった。
「壁をすり抜けて飛び降りるので、しっかり掴まっていてください」
「すり……? 飛び降り……? って……」
 言われるが早いが身体を抱き上げられ、アリーチェの瞳は驚愕に見開いた。
 しかも、その直後。
「っきゃぁぁぁ……――――っ!?」
 “壁をすり抜ける”という表現そのままに壁に突撃したクロムの行動に悲鳴が上がる。
「消音の魔術まで使っている余裕はないので声は我慢してくださいっ」
(そんなこと言われても……!)
 さらには。
「――――っ!?」
 高い場所にある部屋の壁を、まるでそんなものなど存在しないかのように突き抜けたとしたら。
「~~~~!?」
 完全に宙へと身体が舞い、刹那、内臓が置いていかれるのではないかと思うほどの勢いで落下していく感覚に、むしろ悲鳴など出なくなる。
「……ひ……っ」
 人間、本気で恐怖を体感した時には声を失うらしい。
 だが、長く感じた落下時間など本当は一瞬で、地に足をつけたクロムがアリーチェを抱え直してくる動作に、強くしがみついたままの腕が今さらながら震えてくる。
「とりあえず自宅まで送り届けますから、このまま大人しくしがみついていてください」
 ぎゅう……っ、と抱きつくアリーチェにくすりと微笑わらい、クロムは人一人抱えているとは思えない軽さで走り出す。
(……これも、魔術なのかしら……?)
 ふとそんなことを思い、空いた首元からちらりと覗いた打撲らしき痕跡に、アリーチェは途端ぎょっとなる。
「! 怪我を……!」
 そういえば、昼間、わざわざアリーチェの元に訪れたイザベラはなんと言っていただろう。
 ――『兵たちからだいぶ手厚い洗礼・・・・・を受けたような噂は耳にしましたけれど』
 思い出し、アリーチェの顔からは血の気が引いていく。
 そんな暴力を振るわれて。怪我をした身体でアリーチェを抱えて走るなど。
「見た目ほど酷くはないので大丈夫です」
「でも……っ」
「無理しているように見えます?」
 きょとん、という表情をして不思議そうに瞳を瞬かせたクロムは、確かに一見するとどこにもなにもなさそうではある。
「……いえ。見えない、けれど……」
「心配ご無用です」
 そう悪戯っぽく微笑わらったクロムは、受けた暴力はほとんど衝撃を吸収して緩めたのだと、やはり理解できない説明を口にした。
「……本当、に?」
「本当です」
 本当に大丈夫なのかとおずおずと窺えばくすりと笑われ、小さな安堵で肩の力が抜けていく。
 そうして緊張状態が溶けていけば、じわじわとクロムがすぐ傍にいる現実を実感し、なんだか身体がふわふわとした熱を持ってくる。
(クロムの、匂い……)
 いつもより強く感じる汗の匂いも体臭も全く気にならなかった。むしろ、存在を強く感じることで湧くものは安堵ばかりで。
 風を切ることで感じる夜の空気が心地よすぎて、きゅ、とクロムに抱きつきながら眠気にさえ誘われてしまいそうになる。
 暗闇に紛れるためだろう。遠回りだとわかっていても、木々が作る陰の中を選んで走っていくクロムの腕の中。アリーチェは妙に落ち着いた気持ちで辺りの様子に目を移す。
 今日は、三日月らしい。月の端がほんの少しだけ隠れているのは、ところどころに雲が浮かんでいるためだ。
 時折吹く風に木々がさわさわと葉音を鳴らし、どこからか梟の鳴き声まで聞こえてくる気がした。
「……家に行ってどうするの?」
 首の後ろに回した腕にきゅ、と力を込めて問いかければ、真っ直ぐ前を向いて走るクロムからは少しだけ上がった声が返ってくる。
「貴女の保護をしてもらわないと」
 実は秘密裏に連絡済ですのでご安心を。と告げられてむしろ不安になる。
「……クロムは?」
 その瞳が辺りを警戒するかのようにちらちらと左右に動くのは、なにかに追われている可能性が高いからだろうか。
「俺はすることがありますので」
 誤魔化すように苦笑され、アリーチェの瞳はますます不安そうに揺れ動く。
「すること、って……?」
「それは秘密です」
「っクロム……!」
 嫌な予感が胸に湧き、アリーチェは問い詰めるように声を上げる。
 だが。
「大丈夫ですよ。安心してください」
 申し訳なさそうに苦笑するクロムは、それ以上を話してくれそうな気配はない。
「万が一の時は、命に代えて貴女の呪いは解呪しますから」
 そうして緩く微笑わらわれて、アリーチェは一瞬停止する。
(……今……?)
 なにか言葉がおかしくなかっただろうか。
 ”命に代えて”という言葉ならば耳にするが、今、クロムは……。
「責任はきちんと取ります」
 責任とは、なにを示しているのだろう。
 アリーチェの依頼を受けたことへの責任か、それとも……?
「そんな……、クロムのせいじゃ……」
 胸が妙に早鐘を打ち、頭の奥は熱いのに、背筋は寒気を覚えるほどに冷たくなる。
 アリーチェが呪いにかけられたのも、呪いが解けないこともクロムのせいではない。
 それなのに。
「いえ。本当は、俺のせいなんです」
 真っ直ぐ前を見据えたまま、クロムははっきりと口にした。
「巻き込んでしまってすみません」
 クロム独特の単調な喋り方は、冷静さを保とうとしているからだろうか。
「貴女が俺を巻き込んだんじゃありません」
 クロムが、“責任”を口にする意味。
「本当は、逆なんです」
 一体なにを言っているのかと動揺するアリーチェへ、クロムの声が風に乗って届いた。

「貴女は、俺を殺すために利用されたんです」
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