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本編
第二十九話 月の翳りを取り払って①
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「! アリーチェちゃん……!」
吹き抜けの広い玄関ホールに一歩足を踏み入れた直後。アリーチェの顔立ちによく似た女性が、慌ただしい様子で姿を現した。
「心配していたのよ!? おかえりなさい……!」
「……お母様」
とても公爵夫人らしからぬ落ち着きのなさでアリーチェに駆け寄ってきたのは、アリーチェの母親だ。
外ではしっかりと淑女の振る舞いをする一方で、家の中では途端貴族らしさを失う母親の言動は今さらで、周りに控える使用人たちも全く気にした様子はない。
アリーチェの父親は、母親のこういった自由奔放な姿にべた惚れし、アリーチェはそんな母親を見て育ったからこそしっかりとした性格になっていた。
「貴女ってば、気づけば家を飛び出していたのだから……!」
その件に関しては、さすがに申し訳なかったと思っている。ろくな相談もしないまま、馴染みの女性騎士一人だけを連れて家を飛び出した。だから素直に謝ろうとアリーチェが口を開きかけた時。
「さすがお母様の子ね!」
「……あ……、いえ……、はい……」
むしろキラキラとした瞳で称賛され、アリーチェはその勢いに押し負けた。
(そうよ……。この母親はこういう人だったわ……)
昔から、アリーチェの母親は貴族らしからぬ振る舞いばかりをしている。無理矢理教え込まれた料理に関してもその一つだ。
普通、貴族のご令嬢は台所に立ったりはしない。だが、この母親はアリーチェが物心ついた時には自ら焼き菓子を作って父親を喜ばせていた。
男を堕とすには胃袋からよ、なんて。そんな母親の言葉、ずっと呆れた目で見つめていたというのに。
「だから王太子と婚約なんて反対していたのよ……っ。婚約解消だなんて、そんな悪役令嬢みたいなこと!」
「……あ、あの……、お母様……? その節は本当に心配をかけてごめんな……」
「筆頭公爵家の令嬢で王太子の婚約者だなんて! アリーチェちゃんが悪役令嬢にならないように、昔から頑張って育てていたのにこんなことになって!」
「…………」
一人で憤慨している理解不能な母親の言動に、アリーチェは沈黙するしかすべはない。
昔から時々、アリーチェの母親はよくわからないことを一人で主張していることがある。
「あぁ、でもいいわ! これも王道パターンだものねっ。アリーチェちゃんは悪役令嬢ではないのだし!」
今日も今日とて自分の世界に入っている母親を見つめ、隣に立つクロムがこっそりと顔を寄せてくる。
「……あの……、アリーチェさん……?」
「……ごめんなさい。うちの母、ちょっと変わっているの」
天才・クロムの頭脳をもってしても、アリーチェの母親の思考回路を分析することはきっと不可能だ。
放っておくのが一番だと申し訳なさそうに眉を下げれば、そこでやっと現実に帰ってきた母親が、クロムの姿を目に留めてぱちぱちと瞼を開閉させていた。
「……あら?」
「……」
じー……、と不躾な視線を向けられて、さすがのクロムも若干逃げ腰な空気でアリーチェの母親と対峙する。
「……もしかして、貴方が噂のクロムくん?」
我が子であるアリーチェに対してならばいいけれど、すでにいい大人であるクロムに向かって“くん”付けはどうなのか。
「まぁぁ……! まぁ、まぁ、まぁ……!」
口元に手を添えたアリーチェの母親は、なぜかうきうきとした様子でクロムの全身を上から下まで眺め遣り、歓喜に満ちた瞳を向ける。
「これからもアリーチェちゃんをよろしくお願いしますね!」
「……え? あ、はい……」
手を取って挨拶してくるアリーチェの母親の勢いに完全に押されたクロムは、半ば強制的に首を縦に振る。
「アリーチェちゃんが遠くにお嫁に行っちゃうのはお母様寂しいわぁ……」
「……な……っ? お母様!?」
どうしたら突然話がそこまで飛ぶのだろう。
目を見開き、思わず裏返った声を上げたアリーチェへ、アリーチェの母親はきょとん、と無邪気に首を傾ける。
「あら? 違うの? だって、よくよく見れば凄くイケメンさんだし。実力を隠した“天才研究家”がヒーローだなんて、このパターンの王道中の王道じゃないの!」
“実力を隠した”とは、この母親はなぜそんなことを知っているのだろう。その瞬間、隣に立つクロムが微妙にぎくりと肩を震わせたような気もするが、アリーチェの母親の独壇場は止まらない。
「実はなにか秘密を抱えているとか! あぁ、もう、どうしてこの世界にはそういった恋愛小説がないのかしら……!」
なにやら本気で悔しがっているらしき母親は、完全に周りには理解不能な自分の世界に入っている。
さらには。
「クロムくんにはアリーチェちゃんの部屋の近くの客室を用意させましたからね」
「……え……」
邪気なくにこにこと告げられて、クロムはもちろんアリーチェも固まった。
「監視なんて野暮なことはしないから、好きに行き来してちょうだい」
「!? お母様……っ!」
ふふふ、と意味深な笑みを零す母親は、嫁入り前の娘を前にして、一体なにを考えているのだろう。
「……あら? 同じお部屋の方がよかったかしら?」
きょとん、と不思議そうに丸くなる瞳は、本当に意味がわからない。
「違……っ、だから、私とクロムはそんなんじゃ……っ」
「お父様は渋いお顔をするかもしれないけれど、気にしなくていいわ。お父様だって人のことは言えないんだから」
昔から、両親の惚気話は聞き飽きている。
「だからっ、お母様……っ」
「すぐに荷物を運ばせますからね。疲れたでしょう? 夕食の準備が整ったら呼びに行かせるから、それまではゆっくり休んでいてちょうだい」
楽しげに笑うアリーチェの母親は、もはや人の話など全く聞いていない。
当然会話は噛み合わず、アリーチェの母親の完全なる一方通行だ。
「お茶の用意くらいはさせるから、アリーチェちゃんはクロムくんを部屋に案内して差し上げてなさい」
“野暮なことはしない”という言葉通り、アリーチェを部屋へ促した母親は、ひらひらと手を振って邸の奥へと消えていく。
それを、アリーチェとクロムは圧倒されたように見送って。
「……なかなか凄いお母様ですね……」
クロムから苦笑と共に至極真っ当な感想を向けられて、アリーチェは乾いた笑みを零す。
「……変わっているの」
そんなふうに破天荒で自由奔放な母親に、父親は惹かれたのだという。
「父が、べた惚れで甘やかすから」
そんな恋愛を、自分もしてみたい、と思ったことがないわけではないけれど。
「……? アリーチェさん?」
「……なんでもないわ……っ」
なぜかじ、とクロムを見つめてしまい、アリーチェは慌てて目を逸らしていた。
吹き抜けの広い玄関ホールに一歩足を踏み入れた直後。アリーチェの顔立ちによく似た女性が、慌ただしい様子で姿を現した。
「心配していたのよ!? おかえりなさい……!」
「……お母様」
とても公爵夫人らしからぬ落ち着きのなさでアリーチェに駆け寄ってきたのは、アリーチェの母親だ。
外ではしっかりと淑女の振る舞いをする一方で、家の中では途端貴族らしさを失う母親の言動は今さらで、周りに控える使用人たちも全く気にした様子はない。
アリーチェの父親は、母親のこういった自由奔放な姿にべた惚れし、アリーチェはそんな母親を見て育ったからこそしっかりとした性格になっていた。
「貴女ってば、気づけば家を飛び出していたのだから……!」
その件に関しては、さすがに申し訳なかったと思っている。ろくな相談もしないまま、馴染みの女性騎士一人だけを連れて家を飛び出した。だから素直に謝ろうとアリーチェが口を開きかけた時。
「さすがお母様の子ね!」
「……あ……、いえ……、はい……」
むしろキラキラとした瞳で称賛され、アリーチェはその勢いに押し負けた。
(そうよ……。この母親はこういう人だったわ……)
昔から、アリーチェの母親は貴族らしからぬ振る舞いばかりをしている。無理矢理教え込まれた料理に関してもその一つだ。
普通、貴族のご令嬢は台所に立ったりはしない。だが、この母親はアリーチェが物心ついた時には自ら焼き菓子を作って父親を喜ばせていた。
男を堕とすには胃袋からよ、なんて。そんな母親の言葉、ずっと呆れた目で見つめていたというのに。
「だから王太子と婚約なんて反対していたのよ……っ。婚約解消だなんて、そんな悪役令嬢みたいなこと!」
「……あ、あの……、お母様……? その節は本当に心配をかけてごめんな……」
「筆頭公爵家の令嬢で王太子の婚約者だなんて! アリーチェちゃんが悪役令嬢にならないように、昔から頑張って育てていたのにこんなことになって!」
「…………」
一人で憤慨している理解不能な母親の言動に、アリーチェは沈黙するしかすべはない。
昔から時々、アリーチェの母親はよくわからないことを一人で主張していることがある。
「あぁ、でもいいわ! これも王道パターンだものねっ。アリーチェちゃんは悪役令嬢ではないのだし!」
今日も今日とて自分の世界に入っている母親を見つめ、隣に立つクロムがこっそりと顔を寄せてくる。
「……あの……、アリーチェさん……?」
「……ごめんなさい。うちの母、ちょっと変わっているの」
天才・クロムの頭脳をもってしても、アリーチェの母親の思考回路を分析することはきっと不可能だ。
放っておくのが一番だと申し訳なさそうに眉を下げれば、そこでやっと現実に帰ってきた母親が、クロムの姿を目に留めてぱちぱちと瞼を開閉させていた。
「……あら?」
「……」
じー……、と不躾な視線を向けられて、さすがのクロムも若干逃げ腰な空気でアリーチェの母親と対峙する。
「……もしかして、貴方が噂のクロムくん?」
我が子であるアリーチェに対してならばいいけれど、すでにいい大人であるクロムに向かって“くん”付けはどうなのか。
「まぁぁ……! まぁ、まぁ、まぁ……!」
口元に手を添えたアリーチェの母親は、なぜかうきうきとした様子でクロムの全身を上から下まで眺め遣り、歓喜に満ちた瞳を向ける。
「これからもアリーチェちゃんをよろしくお願いしますね!」
「……え? あ、はい……」
手を取って挨拶してくるアリーチェの母親の勢いに完全に押されたクロムは、半ば強制的に首を縦に振る。
「アリーチェちゃんが遠くにお嫁に行っちゃうのはお母様寂しいわぁ……」
「……な……っ? お母様!?」
どうしたら突然話がそこまで飛ぶのだろう。
目を見開き、思わず裏返った声を上げたアリーチェへ、アリーチェの母親はきょとん、と無邪気に首を傾ける。
「あら? 違うの? だって、よくよく見れば凄くイケメンさんだし。実力を隠した“天才研究家”がヒーローだなんて、このパターンの王道中の王道じゃないの!」
“実力を隠した”とは、この母親はなぜそんなことを知っているのだろう。その瞬間、隣に立つクロムが微妙にぎくりと肩を震わせたような気もするが、アリーチェの母親の独壇場は止まらない。
「実はなにか秘密を抱えているとか! あぁ、もう、どうしてこの世界にはそういった恋愛小説がないのかしら……!」
なにやら本気で悔しがっているらしき母親は、完全に周りには理解不能な自分の世界に入っている。
さらには。
「クロムくんにはアリーチェちゃんの部屋の近くの客室を用意させましたからね」
「……え……」
邪気なくにこにこと告げられて、クロムはもちろんアリーチェも固まった。
「監視なんて野暮なことはしないから、好きに行き来してちょうだい」
「!? お母様……っ!」
ふふふ、と意味深な笑みを零す母親は、嫁入り前の娘を前にして、一体なにを考えているのだろう。
「……あら? 同じお部屋の方がよかったかしら?」
きょとん、と不思議そうに丸くなる瞳は、本当に意味がわからない。
「違……っ、だから、私とクロムはそんなんじゃ……っ」
「お父様は渋いお顔をするかもしれないけれど、気にしなくていいわ。お父様だって人のことは言えないんだから」
昔から、両親の惚気話は聞き飽きている。
「だからっ、お母様……っ」
「すぐに荷物を運ばせますからね。疲れたでしょう? 夕食の準備が整ったら呼びに行かせるから、それまではゆっくり休んでいてちょうだい」
楽しげに笑うアリーチェの母親は、もはや人の話など全く聞いていない。
当然会話は噛み合わず、アリーチェの母親の完全なる一方通行だ。
「お茶の用意くらいはさせるから、アリーチェちゃんはクロムくんを部屋に案内して差し上げてなさい」
“野暮なことはしない”という言葉通り、アリーチェを部屋へ促した母親は、ひらひらと手を振って邸の奥へと消えていく。
それを、アリーチェとクロムは圧倒されたように見送って。
「……なかなか凄いお母様ですね……」
クロムから苦笑と共に至極真っ当な感想を向けられて、アリーチェは乾いた笑みを零す。
「……変わっているの」
そんなふうに破天荒で自由奔放な母親に、父親は惹かれたのだという。
「父が、べた惚れで甘やかすから」
そんな恋愛を、自分もしてみたい、と思ったことがないわけではないけれど。
「……? アリーチェさん?」
「……なんでもないわ……っ」
なぜかじ、とクロムを見つめてしまい、アリーチェは慌てて目を逸らしていた。
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