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本編

第二十二話 キスしてほしい?

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 もはや慣れ切ってしまったクロムの腕の中。どうしても寝付けずに、アリーチェはごそごそとクロムの顔を見上げていた。
 クロムの部屋のベッドは狭く、一緒に寝るとなると密着せざるを得なくなる。とはいえ抱き枕のような扱いをされなくてもいいはずなのに、拒否をできない自分がいる。――否。むしろ、こうして密着して眠ることに安堵さえ覚えてしまって。
 それはきっと、無意識にある死への恐怖からだろうと自分へ言い訳をする。
(……意外と睫毛、長いのよね……)
 今は眼鏡の外されている、閉じられた瞳を見つめ、アリーチェの眉は思わず寄ってしまう。
(……この顔、なんだか腹立たしいわ)
 近くで見れば見るほど整っている顔立ちに、むかむかとした気持ちが湧いてくる。
 今までずっと不摂生で不規則な生活を送ってきただろうに、艶々として見えるその肌はなんなのか。しっかり手入れをしているアリーチェよりも綺麗なのではないかと思うと、その頬をぺちぺち叩いてやりたくなる。
 すっかり熟睡しているクロムからは規則正しい呼吸が聞こえてきて、僅かに上下する胸元に包まれていることを実感すると、なんだかくすぐったい気持ちにさせられる。
(……あ……)
 意外にも柔らかな髪に、閉じられた瞳。
 長い睫毛に、すっと通った鼻筋。
 クロムを構成するパーツを一つ一つ眺めていたアリーチェは、薄く開いた唇を目に留めて、思わずドキリとしてしまう。
(……クロムの、くちびる……)
 無意識に、指先が伸びた。
(……)
 そっと触れ、その形を辿ってみても、クロムはぴくりとも動かない。
 指先に感じる柔らかな感触。
 ソレに触れられるとくすぐったくて。
 そっと重ねられると蕩けるような甘さを感じて。
「……」
(……)
 完全に寝入っていることを確認し、アリーチェはごそごそと伸び上がると静かな呼吸を繰り返すその唇へ自分のそれを押し当てていた。
「……」
(……気持ち、いい……)
 こうしてほんの少し触れ合うだけで蕩けそうになってしまって。もっと、と。つい欲が出てしまう。
 最初のあの夜以来、深い口づけはしていないけれど、軽いものであれば何度もしている。
 時々戯れるように重ねられる唇は、クロムもアリーチェと同じように心地よいものだと思ってくれている証拠なのだろうと思うのに。
(……なんだか……)
 お腹の奥にほんのりとした熱が湧き、アリーチェは落ち着かなさを覚えて身体をそわそわさせてしまう。
 その時。
「……アリーチェさん……?」
「!」
 掠れた疑問符が耳を掠め、アリーチェの心臓はどきりと跳ね上がった。
「どうしたんですか?」
 眠れないんですか? と、寝ぼけ眼で見下ろされ、あまりの気まずさから赤くなった顔をぷいっと背ける。
「……べ、別になんでもないわ……っ」
 この感じは一体なんだろうか。
 なんとなく、泣きたくなってしまうような。
 わけもなく、「どうして」と詰め寄りたくなってしまうような。
 その理由がわからず、さらにアリーチェの情緒を不安定にさせてくる。
 触れるだけのキスならばよくしている。
 ただ、その先は。
 もっと、と思うのに、いつだってクロムは少しばかり困った顔をするばかりで。
「……私、魅力ないのかしら」
「――っ」
 その瞬間、ふと湧いた疑問符にクロムが大きく反応し、アリーチェの方が驚いてしまっていた。
「……え?」
 大きく見張られたクロムの瞳に、きょとん、と丸くなった目を向けて数秒後。
「――っ!?」
(口に出てた――……!?)
 どうやら心の声が洩れてしまっていたらしいことに気づいて、アリーチェは真っ赤になってしどろもどろと言い訳を考える。
「ち、違うわ……っ! 今のは……っ」
 どうしたら今の呟きを誤魔化せるだろうか。
 これでは、まるで。
「……襲ってほしいんですか?」
「っ! だから……っ、違……っ」
 驚いたように尋ねられ、目も思考回路もぐるぐるする。
 これではまるで、アリーチェが奔放ではしたない女性のようだ。
 クロムが手を出したくなるような魅力がない自分のことを、寂しいと思うなんて。
「だ、だって……」
 どんな言い訳をしたらいいのだろうかと、とにかく焦る気持ちが先走り、自分でもなにを言っているのかわからなくなってくる。
「……クロムに触られるの、気持ちがいいから……っ」
 決して誰でもいいわけじゃない。
 ただ、クロムに触れられると「もっと」という思いが湧き、離れていくと「寂しい」と感じてしまうから。
 この気持ちがなんなのかはわからないけれど、この感覚に素直になることは悪いことではない気がした。
 だからいつだって安心して身を任せてしまうし、クロムから与えられる甘さに酔ってしまう。
 こんなふうに思うのはクロムだけ。
 他の誰にもこんなことは思わない。
 それが全てで……。唯一の答えだ。
「っ、だから、そういう表情かおをしないでください……!」
 煽るなと言われても、なにを言われているのかよくわからない。
 ただ。
「……この文様が気持ち悪いから……?」
 ふと、禍々しい呪いの刻まれた肌に触れたくないのだろうかという疑念が湧いて、アリーチェはじわりと涙を浮かばせる。
 あの日はクロム曰く“最悪の副作用”である“魔力酔い”を起こしたからで。本当は嫌だったのではないかと、今さらながら“最悪”だと言われたことを思い出す。
 ――あの時、そんなことはないと。クロムも気持ちがいいと言ってくれたのに。
 アリーチェですら自分の肌を見て気持ち悪いと思ってしまうのだ。他人の目から見たならば、禍々しいこの文様はどれほどの嫌悪を抱くものだろうか。
「っ、そんなはずありません」
 だが、一瞬息を呑んだクロムはアリーチェの言葉を否定して、それから苦々しい表情を浮かばせる。
「……ただ、腹立たしくて堪りませんけど」
「?」
 腹立たしい、とは、なにに対してだろうか。
「いっそ、この呪い……。止めるでも消すでもなく、書き換えてしまいましょうか」
「……クロム?」
 服の上から呪いの中心部分に触れられて、理解不能なクロムの呟きにアリーチェの瞳はぱちぱちと瞬いた。
 古代魔道具にかけられた呪いを“書き換える”など、そんなことができるのだろうか。
 そしてもしできるとして、それは呪いを消すことよりも簡単なことなのだろか。
「……淫紋……、てわかります?」
「ん……っ」
 胸の谷間のすぐ上にある文様の中心を服の上から意味深に辿られて、アリーチェの身体はぴくりと反応した。
「いん、もん……?」
 そんな言葉、聞いたこともなければ意味を想像することもできない。
 けれど。
「よくわからないけど……。クロムがその方がいいと思うなら構わないけれど」
「っ」
 呪いを解くよりも簡単で、アリーチェの命が助かるというのなら。
 判断はクロムに委ねるとあっさり口にしたアリーチェへ、クロムは苦虫を嚙み潰したような表情で息を呑んだ。
「……あまり俺のことを信用しないでください」
「?」
 クロムのことを信用できなければ、他になにを信じればいいというのだろう。
「今の呪いより酷いことになったらどうするんです」
「……クロムが?」
 呆れたような諭すような瞳で見つめられ、アリーチェはことりと首を傾ける。
 ――アリーチェにかけられた呪いは死を誘う呪い。
 そもそもそれ以上酷い呪いがあるのかも疑問だが、よりによってクロムがそんなことをするとも思えない。
 ――クロムに、そんなことをする意味を見出せない。
 クロムは良くも悪くも本物の“研究オタク”だ。自分の好奇心を満たすためには善悪すら怪しくなってしまう部分はあるかもしれないが、不思議とクロムがアリーチェに害を成すことはないと信じられた。
「……もういいです」
 はぁ……、と大きな溜め息を吐き出して、クロムはなんとも複雑そうな表情でアリーチェを腕の中に抱き込んだ。
「早く寝てください」
 そうは言われても、妙に目が冴えてしまって眠れそうにない。
「……眠れないの」
「っ」
 だからどこか拗ねたような甘えた上目遣いを向ければクロムは小さく息を呑み、苦々しい表情を浮かばせた。
「眠くなくても寝てください」
「……はい……」
 そうしてアリーチェの誘惑を振り切るように目を閉じたクロムに、アリーチェは渋々と頷いた。
 けれど、やはり眠れるはずもなく。
 悶々とした気持ちに囚われながら、アリーチェはずっとクロムの顔を見つめ続けていた。
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