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第二話

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 夫婦の契りは月に一度と決めたのか、その日以降、ゼノンはシャーロットの妊娠しやすい頃合いを見計らっては、「今日はいいか」と声をかけ、一度だけ精を放って自室へと戻っていた。
 半年がたち、一年がたち……。その頃になるともう、シャーロットも夫婦の寝室ではなく、与えられた自室のベッドで休むようになっていた。
 出窓では白いレースのカーテンが揺れる広い部屋。全体的に木目調の、木の温もりを感じられる調度品。自分の好きなものばかりが揃った部屋はとても過ごしやすいが、それと同時にシャーロットの胸には切なさも湧いてくる。
 思い返してみれば、シャーロットはゼノンの部屋に足を踏み入れたことはない。それは、向こうも同じだ。
 互いの部屋は夫婦の寝室から扉一枚で繋がっている構造で、少なくともシャーロットは、一度もその扉に鍵をかけたことはなかった。だが、その扉が開かれたことも、叩かれたこともない。
『…………』
 時刻は夜も深まって、そろそろ眠ろうかと読んでいた本を閉じたシャーロットは、照明を落とそうと顔を上げ、ふとなにを思ってかベッドから抜け出すと、そのままそっとその扉を開けていた。
 月に一度しか使われない寝室は明かりを灯されることもないまま静まり返っていて、暗闇の中を歩いていくと、ゼノンの部屋へと繋がる扉からは細い明かりが洩れていた。
『…………』
 恐らくは、この扉を一枚隔てた先にはゼノンがいるのだろう。
 そう思えばなんとなく人のいる気配も感じられるような気もして、まだ起きていることを考えるとなぜかドキドキとしてしまう。
 シャーロットは、そっと指先でドアノブに触れ――……。
 ――そのノブを、回すことはできなかった。
 鍵がかけられていたら……、と思うと怖くなる。
 ――それは、シャーロットのことを拒絶されているようで。
 ノブが回ってしまっても……、どうしたらいいのかわからない。
 おやすみなさい。と、ただ一言。それだけを言えばいいのかもしれないけれど、今さらどんな顔をしたらいいのかわからない。
 ノックなど、さらにできるはずがない。
 返事があれば困ってしまうし、なければきっと傷つくのだろう。
 ――どうして月に一度しか抱いてくださらないのですか……?
 なんて。
 絶対に、聞けるはずもなくて。
『…………おやすみなさいませ。いい夢を……』
 それだけを扉の向こうのゼノンへ祈り、シャーロットはそっと自室のベッドへ戻っていた。


『……シャーロット……?』
 その時、まだ自室の机に向かって書類仕事をしていたゼノンがふと顔を上げたことも。
 それからしばらくして仕事に一区切りをつけたゼノンが、鍵のかかっていないその扉を開けたことにも。
 さらには、静かにシャーロットの部屋のドアノブが捻られたことにも。

 すでに夢の世界にいたシャーロットが気づくことはなかった。




 ◈◈✼◈◈┈┈┈┈◈◈✼◈◈




 婚姻関係を結んで約二年。もうすぐ、シャーロットの二十歳の誕生日だった。
 十八の成人のお祝いほどではないものの、それでも一つの区切りとなる二十歳の誕生日はそれはそれでとてもおめでたいことには違いなく、盛大な誕生パーティーが催されることになっている。
 けれど、その前に、シャーロットにとっては少しばかり憂鬱なイベントが待っていた。
 それは、王宮で行われる、末の王子の成人祝賀会パーティーだ。
 将軍職に就いているゼノンも、その妻であり、国王と懇意にしている公爵家当主の娘でもあるシャーロットも、招待を受けて断るなどということができるはずもない。
 婚姻前は姉たちと共にそれなりに華やかなパーティーへ参加していたシャーロットだが、嫁いでからはこういったやむを得ない事情を除いては自らそういった場に足を運んだことはなかった。
 元々は好きでも嫌いでもなかった社交パーティーだが、ここ最近は苦手意識が強くなっている。
 ……なぜならば。
『……ゼノン様も身を固められて、ご両親も安心でしょう。これであとはお世継さえ生まれればボルドー家も安泰ですな』
『どちらに似ても、きっと才能溢れるお子様がお生まれになりますわね』
『将来が楽しみですね』
 結婚して初めて夫婦で参加したパーティーでかけられた言葉の数々。それは、跡継ぎを望むものばかり。
 ずっと独り身でいたゼノンがやっと妻を娶ったとなればめでたいことだが、長く独りでいた分、すぐにでも世継ぎを望む声は大きかった。
 嫁いだ女性に求められることは、一人でも多く子供を産み、育てること。それくらいのことはシャーロットにもわかっている。そして、ゼノンの子供を身籠ることに、シャーロットは抵抗感は一つもない。
 周りからは武勲による褒賞の婚姻と言われようが、シャーロットは年上の夫のことを愛していた。
 愛していれば、その人の子供を授かりたいと思うことは当然だ。
 ……だけれども。
『……そうですね』
 寡黙な夫が返したその一言に込められた真実を、シャーロットは未だに見つけられずにいる。
 それは、本音だったのか、それとも社交辞令に過ぎなかったのか……。
 的確な日だけに交わるその意味は、もちろん世継ぎを望んでいるからなのだろうと思う。けれど、本気で子供を望むならば、もっと求めていいはずなのだ。
 それがないということは。必要最低限以外に求められることのないその意味は。
 ――できる限り、シャーロットを抱きたくはないという意思の現れなのではないだろうか……。
 そして、そこから導き出される答えなんて、一つだけ。
 ――シャーロットは、望まれてやってきた妻ではなかった……、ということ。
 それでも貴族の婚姻など、政略結婚が当たり前だ。つまりは、そう割り切れないほどに。
 褒賞で得た妻とはいえ、歩み寄りたいとは思えないほどに。
 ――ゼノンは、シャーロットのことを疎ましく思っている……。
 形だけの妻だと。自分はお飾りでしかないのだと。そう、シャーロットも割り切れれば楽だったのかもしれない。
 けれど、シャーロットは、引き合わされたゼノンのことを好きになってしまっていた。
 愛する人に想いを返して貰えないことほど苦しいものはない。
 心がないことをわかっていて傍にいることなど辛すぎる。
 ならば、どうするか……。
 この頃から、シャーロットの頭の中には、“ゼノンと距離を置く”という選択肢がちらついていた。
 そして、その思いは、数日後に夫婦で参加したパーティーで、決定的なものとなる。




 ◈◈✼◈◈┈┈┈┈◈◈✼◈◈




 この国には“軍”と呼ばれる部隊が二つあり、主に宮廷警護や貴人の護衛を担う近衛軍と、国の防衛を目的とする国軍に別れている。そのうち、後者の国軍の統率者――、俗に“将軍”と呼ばれている地位にいるのがゼノンだった。
 そのため、こういったパーティーが催される時は近衛兵が警護と護衛の役目を負うことになり、ゼノンが駆り出されるようなことはない。だから、ゆっくりとパーティーを楽しむ余裕があるはずなのだけれども……。
『そろそろおめでたい報告が聞けるかと思っているのですけれど』
『そうだな。私も楽しみにしている一人だ』
 他意のない、にこにことした王妃の言葉に深く頷いて、そう笑いかけてきたのは、シャーロットへとこの婚姻を命じたこの国の王だった。
 パーティーが始まって、貴族たちが順々に国王夫妻と言葉を交わす中、ゼノンとシャーロットにかけられた言葉は、やはり跡継ぎのことだった。
『……そのうちそんなご報告もできるかと』
 顔色一つ変えることなく答えを返していたゼノンは、その時なにを思っていたのだろうか。
『まぁ、それはそれは』
『仲睦まじくあれば、私もこの婚姻を薦めた甲斐があるというものだ』
 ころころと笑う妻の楽しげな声色に、王もまた笑みを深め、自分が縁を繋げた夫婦を満足気に眺めていた。
『……はい。このような良縁をありがとうございました』
 綺麗に微笑み、礼を執り。滑り出た言葉はただの定型文に他ならない。
 そうして王宮の広すぎるホールに流れ始めた音楽を耳にして、パートナーであるゼノンと一曲だけダンスを踊ったその後は。声をかけてくる人々へ、ただ夫の隣で静かな微笑みを浮かべながらそつのない対応をして、そのまま時間は流れていた。
 けれど、そこで、ゼノンへ話しかけてくる女性がいた。
『閣下。お久しぶりにございます』
『……貴女は……』
 無言で顔のみを向けるゼノンの隣で、シャーロットの大きな瞳が僅かに見開かれる。
 公式なパーティーの参加者としては浮いている、袖までひらひらとした衣を纏っているその女性は、先ほど余興で美しい舞を披露した踊り子だった。
『わたくし、慰労で各地を回っているのですが、その際、閣下には何度かお世話・・・になっておりまして』
 そう言ってにっこりと微笑む女性からは、どこか余裕のようなものが感じられていた。
 後になって、その女性がかなり有名な舞の名手であることや、元々はそれなりの名家の娘であったことなどを知るのだが、その時のシャーロットには、もちろんそんなことなど知る由もない。
 そして、その女性は、ゼノンの隣にいるシャーロットの存在などまるで気にしたふうもなく、衝撃的な一言を放っていた。
『是非また・・御寝所に呼んで下さいませ』
『っ』
『……!?』
 にこりと微笑む女性にゼノンのこめかみがピクリと反応し、シャーロットは思わず息を呑む。
 それが、いつのことを指しているのかはわからない。
 ゼノンは健全なる男性で、三十路になるまでずっと独り身だった。シャーロットとの婚姻前に、そういった関係を持つ女性の一人や二人……、否、ゼノンの立場を考えれば、十人や二十人いたところでおかしなことではない。
 自分と出会う前の、若かりし頃のゼノンがどんな女性と関係を持っていたとしても、シャーロットはその点についてとやかく言うつもりはない。ただ……、それは、自分が彼の“本当の妻”であれば、の話。
 現状シャーロットは、“お飾りの妻”に近かった。
『……過去の話だ。今はもう……』
 反射的に真っ青になったシャーロットへ、こんな時でさえ顔色一つ変えることのない淡々とした声が落ちてくる。
『……気にしていませんから大丈夫です』
 なんとか作り上げた微笑みは、きちんとできていただろうか。
『っ』
 返ることのない言葉は、一応は言い訳の一つや二つを考えていたのだろうか。
 それとも、本当に過去の話だと。形だけでもきちんと“妻”の体裁を取っているシャーロットには、話す必要も関係もないことだと。そう思っているのだろうか。
 今にも溢れそうになる涙を必死に押し殺し、シャーロットはその後も“将軍閣下の妻”として、ゼノンの横で完璧な微笑みを作り続けていた。
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