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生まれて初めての…
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一時間後――…
いったい俺に何が起きているのか。
「うん。ブルーもいいが、グリーンの方がより似合うな」
「お髪の色がはっきりされていますからね。よくお似合いです」
「ではこちらのグリーンでタイの方を」
「かしこまりました」
重厚そうな扉付きの小さな部屋で俺だけがポツンと佇む中、紳士な二人が流れるような早さで物事を決めていくその光景は、何処か他人事のように見えた。
並べられた上質なスーツの数々、それらが俺のサイズのものでなければ。
次に並べられるは木材のトレーに乗せられた色鮮やかなネクタイの数々。無地からストライプ、チェックに柄物まで、様々な種類のそれが俺の前へと静かに置かれた。
「先ほどのスーツに合わせた色馴染みの良いものをこちらでご用意致しました。田井中様、お好みの物をお選びください」
「圭介、選んでごらん」
「……っ!」
ちょっと待て! 待って。待って、待って、待って? いったい全体、これは何だ。置いてけぼりで頭が回らなかったが、ようやく回り出したぞ。でも、それがどうして俺のスーツを仕立てることになっている!?
遡ること約一時間前、宗佑に「デート」を誘われた俺は外食だと思い込み、すんなり頷いた。そして連れていかれた先は街中も街中、しかもブランド店ばかりが並ぶ一等地。こんなところに飲食店があるのかと感心していると、案内されたのはその一角にあるスーツ店だった。もちろんチェーンの安価スーツ店ではなく、他のブランド店に負けずとも劣らずの高級感漂うオーダーメイドのスーツ専門店だった。
恐る恐る踏み入れたそこで、宗佑が新しいスーツでも仕立てるのかと思いきや、まるで漫画に出てくる執事のような出で立ちの店員さんに、俺は奥の部屋へと案内されて身体のサイズを測られた。頭にたくさんの疑問符が浮かぶ中、宗佑はといえば別の店員さんと何かを話していた。そして計測が終わると、店員さんは再び宗佑の下まで行って何かを話し、さらに奥の部屋から大きな白い箱に入ったスーツを三着持ってきた。
何が何だかわからずに固まる俺に代わり、宗佑がその内の一着を手に取ると、俺に着るよう指示をした。俺は差し出されるがままスーツを受け取ると、扉を閉められ小部屋に一人取り残されてしまった。混乱しつつも着ていた私服を脱いでスーツを着ると、部屋の外にいる宗佑と店員さんに見てもらった。その行為を三回繰り返した後、このネクタイ達がずらりと並ぶ今の状況に至るというわけだ。
初めて着るスリーピースのそれは、不思議なくらいにジャストフィットしている。背筋も自然とピンと立ち、ダブルスーツの宗佑の横に並んでもおかしくない出で立ちになる。
でも待って。そうじゃない。どうして俺がスーツを仕立てることになっている?
こんな上等な物は持っていないけれど、今後着る機会なんてないだろうに。要るとしても春に買った大学入学用のスーツで充分だ。今後買わなければならないのは礼服くらいだろう。価格がわからないような高いものは必要ない。さっきから生地のあちこちを見ているのにタグが見つからないし、相場も見当がつかない。何より、俺には金がない。
「そ、宗佑……」
「まだ若いから無地よりも柄の入った物が似合うだろうね。少し派手なくらいが良さそうだ」
助けを求めるように名前を呼ぶも、宗佑は俺のスーツに合うネクタイ選びに夢中で聞いちゃいない。宗佑さん。俺、ここにいます。俺はここにいますよ!
叫びたいのをグッと堪え、俺の目は並ぶネクタイを右から左へと三往復させた後、比較的安価そうな水玉模様の物を選び、指差した。
「ドット柄でございますね。かしこまりました」
水玉と言わなくて良かったと、額の汗を手の甲で拭った。
店員さんがドット柄のネクタイを手に取ろうとするも何故か宗佑がそれを遮り、代わって彼がネクタイを手に取り俺に近づいた。
そして一旦、ジャケットを脱ぐよう俺に言い、そうした後で宗佑が自ら俺にネクタイを締めてくれた。
中学、高校と学ランで、ネクタイも一度しか締めたことのない俺はやり方を覚えていない。やや緊張しながら宗佑の手元を見ると、綺麗で大きな手はまるでピアノでも弾いているかのように卒がなかった。
グンと近くなる宗佑の顔。アンバーの瞳が綺麗だと改めて思うのは、セックスでもないのにこんなに近くにあるからだろうか。
トクトクと早くなる鼓動を抑えたくて視線を逸らしていると、間もなくして宗佑が俺から手を離した。
「うん。よく似合っている。圭介はセンスが良いね」
半歩下がった状態から満足そうに俺を褒める宗佑の口元が綻んだ。身内の贔屓目じゃないだろうか? そう思いつつも背後のミラーに映る俺は、「大人」に見えた。
素材は自分だから、何を着ても変わることはない。そう思っていた。それがこんな形で覆されるとは思いもしなかった。そうか。年齢は大人になったものの、心が追いつかないせいでそれに疑問を持っていた。大学へ進学した時もそう。スーツを着たのに、気持ちは何も変わらなかった。こんなものかと、呆気なかった。
それがどうだろう。鏡に映る自分は、まだ着せられている感じは残しつつも、周り同様に「大人」に見えるのだ。嬉しくて顔が緩んでしまう。こんなこと、絶対にないと思っていたのに。
「圭介?」
「ご、ごめん。ちょっと、嬉しくて……」
ちょっとじゃない。かなりだ。でも、本音を口にすればその場で泣いてしまいそうだった。感動を己の内に閉じ込めていると、宗佑はさらに驚くことを言った。
「そうだ。このまま髪の方もセットしてもらおう」
「えっ、髪?」
バッと自分の頭に手を置くと、宗佑は店員さんへ「長さはそのままで、セットを」と指示を出した。
「そ、宗佑っ?」
「いってらっしゃい」
宗佑に手をヒラヒラと振られながら、頭に手を置いたままの俺は店員さんに別の部屋へと案内された。
それから二十分程が経った後、俺と宗佑は店を出た。今度は何処へ連れていかれるのか、ぎこちない様子で宗佑の後をついていくと、彼は歩いてすぐの信号交差点の前で立ち止まった。信号機の色は赤だ。
結局、自分のものは何も仕立てなかった宗佑は、隣でグリーンのスリーピーススーツを着る俺に改めて向き直り、嬉しそうに「うん」と頷いた。
「綺麗だよ、圭介。本当によく似合っている」
「……そう、かな」
ワックスで髪型を綺麗にセットしてもらった俺は、目線を下にしながら呟くように言った。自分で言うのもなんだが、褒められて照れているのだ。少しだけ後ろに流された前髪が落ち着かない。
また、元々持っていた鞄が、スーツに合わず野暮ったく感じてしまった。それをわかってなのか、俺の着ていた私服と合わせて宗佑がスーツ店のブランドロゴの入った紙袋に入れてくれた。
今着ているスーツの他に着た二着も、後日マンションまで配送してくれるらしい。しかしどうして、オーダーメイドのスーツ店なのに俺の身体に合うものがすぐに用意できたのだろう。まるであらかじめ身体のサイズを知っていたかのようだ。でも、採寸はさっき行ったばかりだし、その他で採寸をした覚えもない。それこそ、寝ている間にでも行わなければ……まさか?
俺は宗佑の顔を見た。「ん?」と優しげに返される笑みを目にして、すぐに「何でもない」と頭を振った。
そうだ。それは聞くことじゃない。俺は今日、宗佑にスーツを仕立ててもらったのだ。手ぶらでこんな一等地を歩く日が来ようとは思いもしない。そんな幸せで落ち着かない日なのだ。
いったい俺に何が起きているのか。
「うん。ブルーもいいが、グリーンの方がより似合うな」
「お髪の色がはっきりされていますからね。よくお似合いです」
「ではこちらのグリーンでタイの方を」
「かしこまりました」
重厚そうな扉付きの小さな部屋で俺だけがポツンと佇む中、紳士な二人が流れるような早さで物事を決めていくその光景は、何処か他人事のように見えた。
並べられた上質なスーツの数々、それらが俺のサイズのものでなければ。
次に並べられるは木材のトレーに乗せられた色鮮やかなネクタイの数々。無地からストライプ、チェックに柄物まで、様々な種類のそれが俺の前へと静かに置かれた。
「先ほどのスーツに合わせた色馴染みの良いものをこちらでご用意致しました。田井中様、お好みの物をお選びください」
「圭介、選んでごらん」
「……っ!」
ちょっと待て! 待って。待って、待って、待って? いったい全体、これは何だ。置いてけぼりで頭が回らなかったが、ようやく回り出したぞ。でも、それがどうして俺のスーツを仕立てることになっている!?
遡ること約一時間前、宗佑に「デート」を誘われた俺は外食だと思い込み、すんなり頷いた。そして連れていかれた先は街中も街中、しかもブランド店ばかりが並ぶ一等地。こんなところに飲食店があるのかと感心していると、案内されたのはその一角にあるスーツ店だった。もちろんチェーンの安価スーツ店ではなく、他のブランド店に負けずとも劣らずの高級感漂うオーダーメイドのスーツ専門店だった。
恐る恐る踏み入れたそこで、宗佑が新しいスーツでも仕立てるのかと思いきや、まるで漫画に出てくる執事のような出で立ちの店員さんに、俺は奥の部屋へと案内されて身体のサイズを測られた。頭にたくさんの疑問符が浮かぶ中、宗佑はといえば別の店員さんと何かを話していた。そして計測が終わると、店員さんは再び宗佑の下まで行って何かを話し、さらに奥の部屋から大きな白い箱に入ったスーツを三着持ってきた。
何が何だかわからずに固まる俺に代わり、宗佑がその内の一着を手に取ると、俺に着るよう指示をした。俺は差し出されるがままスーツを受け取ると、扉を閉められ小部屋に一人取り残されてしまった。混乱しつつも着ていた私服を脱いでスーツを着ると、部屋の外にいる宗佑と店員さんに見てもらった。その行為を三回繰り返した後、このネクタイ達がずらりと並ぶ今の状況に至るというわけだ。
初めて着るスリーピースのそれは、不思議なくらいにジャストフィットしている。背筋も自然とピンと立ち、ダブルスーツの宗佑の横に並んでもおかしくない出で立ちになる。
でも待って。そうじゃない。どうして俺がスーツを仕立てることになっている?
こんな上等な物は持っていないけれど、今後着る機会なんてないだろうに。要るとしても春に買った大学入学用のスーツで充分だ。今後買わなければならないのは礼服くらいだろう。価格がわからないような高いものは必要ない。さっきから生地のあちこちを見ているのにタグが見つからないし、相場も見当がつかない。何より、俺には金がない。
「そ、宗佑……」
「まだ若いから無地よりも柄の入った物が似合うだろうね。少し派手なくらいが良さそうだ」
助けを求めるように名前を呼ぶも、宗佑は俺のスーツに合うネクタイ選びに夢中で聞いちゃいない。宗佑さん。俺、ここにいます。俺はここにいますよ!
叫びたいのをグッと堪え、俺の目は並ぶネクタイを右から左へと三往復させた後、比較的安価そうな水玉模様の物を選び、指差した。
「ドット柄でございますね。かしこまりました」
水玉と言わなくて良かったと、額の汗を手の甲で拭った。
店員さんがドット柄のネクタイを手に取ろうとするも何故か宗佑がそれを遮り、代わって彼がネクタイを手に取り俺に近づいた。
そして一旦、ジャケットを脱ぐよう俺に言い、そうした後で宗佑が自ら俺にネクタイを締めてくれた。
中学、高校と学ランで、ネクタイも一度しか締めたことのない俺はやり方を覚えていない。やや緊張しながら宗佑の手元を見ると、綺麗で大きな手はまるでピアノでも弾いているかのように卒がなかった。
グンと近くなる宗佑の顔。アンバーの瞳が綺麗だと改めて思うのは、セックスでもないのにこんなに近くにあるからだろうか。
トクトクと早くなる鼓動を抑えたくて視線を逸らしていると、間もなくして宗佑が俺から手を離した。
「うん。よく似合っている。圭介はセンスが良いね」
半歩下がった状態から満足そうに俺を褒める宗佑の口元が綻んだ。身内の贔屓目じゃないだろうか? そう思いつつも背後のミラーに映る俺は、「大人」に見えた。
素材は自分だから、何を着ても変わることはない。そう思っていた。それがこんな形で覆されるとは思いもしなかった。そうか。年齢は大人になったものの、心が追いつかないせいでそれに疑問を持っていた。大学へ進学した時もそう。スーツを着たのに、気持ちは何も変わらなかった。こんなものかと、呆気なかった。
それがどうだろう。鏡に映る自分は、まだ着せられている感じは残しつつも、周り同様に「大人」に見えるのだ。嬉しくて顔が緩んでしまう。こんなこと、絶対にないと思っていたのに。
「圭介?」
「ご、ごめん。ちょっと、嬉しくて……」
ちょっとじゃない。かなりだ。でも、本音を口にすればその場で泣いてしまいそうだった。感動を己の内に閉じ込めていると、宗佑はさらに驚くことを言った。
「そうだ。このまま髪の方もセットしてもらおう」
「えっ、髪?」
バッと自分の頭に手を置くと、宗佑は店員さんへ「長さはそのままで、セットを」と指示を出した。
「そ、宗佑っ?」
「いってらっしゃい」
宗佑に手をヒラヒラと振られながら、頭に手を置いたままの俺は店員さんに別の部屋へと案内された。
それから二十分程が経った後、俺と宗佑は店を出た。今度は何処へ連れていかれるのか、ぎこちない様子で宗佑の後をついていくと、彼は歩いてすぐの信号交差点の前で立ち止まった。信号機の色は赤だ。
結局、自分のものは何も仕立てなかった宗佑は、隣でグリーンのスリーピーススーツを着る俺に改めて向き直り、嬉しそうに「うん」と頷いた。
「綺麗だよ、圭介。本当によく似合っている」
「……そう、かな」
ワックスで髪型を綺麗にセットしてもらった俺は、目線を下にしながら呟くように言った。自分で言うのもなんだが、褒められて照れているのだ。少しだけ後ろに流された前髪が落ち着かない。
また、元々持っていた鞄が、スーツに合わず野暮ったく感じてしまった。それをわかってなのか、俺の着ていた私服と合わせて宗佑がスーツ店のブランドロゴの入った紙袋に入れてくれた。
今着ているスーツの他に着た二着も、後日マンションまで配送してくれるらしい。しかしどうして、オーダーメイドのスーツ店なのに俺の身体に合うものがすぐに用意できたのだろう。まるであらかじめ身体のサイズを知っていたかのようだ。でも、採寸はさっき行ったばかりだし、その他で採寸をした覚えもない。それこそ、寝ている間にでも行わなければ……まさか?
俺は宗佑の顔を見た。「ん?」と優しげに返される笑みを目にして、すぐに「何でもない」と頭を振った。
そうだ。それは聞くことじゃない。俺は今日、宗佑にスーツを仕立ててもらったのだ。手ぶらでこんな一等地を歩く日が来ようとは思いもしない。そんな幸せで落ち着かない日なのだ。
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