【完結】檻の中の劣等種

天白

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 嘘だろ。確かに俺はシキを見つめて外れのグラスがどちらなのか念じたつもりだった。でも、はっきりとそう伝えたわけじゃない。

 ただシキを見つめただけ。それだけで公平ではないとルールを変えさせられてしまうのか?

 イカサマをしようと思ったから? シキに伝わって欲しいと願ったから?

 そんな一縷の望みさえも、この人は奪うというの?

「シキ……」

「ああ、わかった。気の済むまで入れ替えるといい」

 俺の呼びかけも虚しく、シキは馬野の提案を受け入れた。馬野は俺からテーブルを離すと、部屋の中央へそれを置いた。そして俺から見えないよう自分の身体でグラスを隠すように立ち、トントンと素早く入れ替え始めた。シキはその間、律儀に背を向けていた。

 これで誰にも、外れがどれかわからなくなってしまった。

「では、どうぞ」

 馬野がグラスから手を離し、テーブルからも離れつつシキに促した。シキはゆっくり振り向くと、持っていたコインを親指で弾いた。

「このコインが表なら右、裏なら左にしようか」

 パシリと左手の甲に乗せ、素早く反対の手を被せた。最後は運任せ。シキは右手を開いた。

「うん。では、私から向かって右のグラスを選ぼうか」

 シキはコインを胸ポケットに入れながらテーブルへ近づくと、宣言通り彼から向かって右側のグラスを手に取った。もし外れなのだとしたらグラスを持ち上げた今、臭いでわかるだろう。でもシキは表情を崩さない。ということは、これはただの水……?

 俺がハラハラと見守る中、ちらりと馬野へ視線を向けると彼は僅かに口端を持ち上げていた。どうしてほくそ笑むことができる? まさか馬野にはどちらが外れかわかっているとでも? いや、盗み見ることは誰にもできなかった。答えなんかわかる筈も……

 そう言えば、ミネラルウォーターの入ったあのペットボトル。馬野があれを開ける時、未開封の物が開かれる時に発する蓋の割れる音が聞こえなかった。

「ま、さか……」

 あのミネラルウォーター自体に既に薬品が混ぜてあったんじゃ……? だからペットボトルをずっと持ってて……

「だ、め……シキっ……!」

「コクン……」

 制止は遅かった。シキは躊躇うことなく、グラスの中の液体を嚥下した。

「コク、コク…………ゴクン」

 舌で液体を転がすようにゆっくりと味わい、一滴も残さないよう全てを飲み干すと、グラスから口を離してペロリと唇を一舐めする。感想はただ一言……

「美味しかった」

 濡れた唇が艶かしい。シキは服の袖口で口元を拭ってみせた。よく見れば、シキの格好は上下が黒のワイシャツとスラックス。いつもの部屋着だった。より俺に近づいたこともあってだけど、ようやくそれに気がつくなんて……

 緊張の糸が切れたのか、堰を切ったようにポロポロと涙が零れた。良かった。シキが飲んだのは水だったんだ。良かった。良かった……!

 しかし馬野は声を荒げた。

「……なっ、何故っ?」

「ん?」

「何故っ、飲み干せる!?」

 俺とシキが同時に馬野を見た。何を言っている? 俺は怪訝に思い眉を寄せた。しかしシキはけろりとしていた。

「何故って、水を選んだからだろう。やはり私は引きが良い」

 ふふっと小さく笑ってみせる。馬野が作った外れは苦味があり、尚且つ喉が焼けると言っていた。もしもそんなものを飲んだのだとしたら、いくらポーカーフェイスを作れる人間でも平然としていられないだろう。一口目で吐き出していてもおかしくはない。何より作った馬野自身が驚くほどの代物なんだ。しかしこんなに驚くということは……

「そんな筈は……!」

「まるで私が口にしたものが外れだと知っているかのような口振りだ。そんなに疑うなら、残ったこちらを味見すればいい」

「それは……」

「ん? 疑っているんだろう?」

 シキがもう一方のグラスを持ち上げ馬野へと差し出す。見た目はまるで水のそれが、凶器にも映った。にも関わらず、シキは淡々と馬野へ告げる。

「こちらが水なら、私が今飲んだものは水でないということになる。しかし私は『美味しく』頂いた。飲み干してしまったのだから、もはやこれを水でないと証明することは難しい。でも大丈夫。残っている方を確かめればいいだけの話だ」

「う……」

 たじろぐ馬野に、シキはさらに追い討ちをかけるように冷淡に命令した。

「ルールだ。飲め」

 気圧されたのか、一瞬だけ馬野は手を伸ばすもすぐにだらりと垂れてしまった。ついには床に膝を突き、首も落としてしまい、その様は無言の敗北を告げていた。

 シキはそれを冷ややかに見下ろし宣言した。

「私の勝ちだ。さ、滴。帰ろうね」

「シキ……」

 俺へ顔を向けるシキは普段と変わらぬ穏やかな表情だった。グラスをテーブルに置き、俺の前に来てくれる。

 帰れる。本当にシキと帰れるんだ。

 俺はシキへと手を伸ばした。その時……

「……そう、か。わかったぞ……味覚だ! 稀少種は能力の一部が欠落しているんだ! 雫っ! 貴方は味覚が無いんだろう!」

 項垂れていた筈の馬野が何かに気づいた様子で喚き始めた。味覚が無い? それについて、俺は前から気掛かりだったことを思い出した。

 俺が料理を失敗しても、シキはそれを必ず平らげてしまう。ずっと前には黒焦げにした目玉焼きをペロリと完食してしまった。いくら俺が手掛けたからといっても、普通は顔色一つ変えずに平らげることなど不可能だろう。しかしそれは味覚が無いの一言で済むことなのか?

 まさか、美味しいと言ってくれただし巻き玉子も、俺が作ったからそう表現をしてくれていた? 自分は味がわからないから、だから最後に羽柴さんに振ったの?

 するとシキはその顔から笑みを取り去ると、冷然とした態度でこう言った。

「だったら、何だ?」

「は……?」

 馬野が間抜けた声を出す。目を皿のようにさせ、口をぽかんと開きシキを見上げる。しかしシキは気にせず、冷淡に言ってのけた。

「私に味覚が無かったら何だと言うんだ。最初に言っただろう? 『不味い』方を飲んだ人間の負けだと。だが、私は『美味しく』頂いた。それだけのことだ」

 じゃあ、シキが飲んだ中身は水じゃなかった? 俺の危惧した通り、グラスの中身はどちらも外れだったということ?

 俺が思わず口元に手を当てるのと同時に、馬野の身体もわなわなと震えた。そして蟀谷に青い筋を走らせながら、シキに向かって怒鳴り散らかした。

「こんなのっ……こんなの無効だ! ルールに反している! 取り消せ!!」

「最初からルールに反しているお前に言われたくはないな」

 既にシキは相手にしていない。俺に向き直ると、その大きな手をこちらへ伸ばした。

「うっ、ぐ……しずくっ!」

 それはどちらの「シズク」を呼んだのだろう。馬野がゆらりと立ち上がり、俺の首に当てていただろうメスを胸元から取り出すと、俺達へ切りかかろうとした。

 だが……

「ぐぎゃっ!?」

 上から何かが降ってきた。バコン! という大きな音と共に。それは馬野に乗っかるように落ちて彼からメスを取り上げた。

 そしてベキッと何かが折れる音が鳴り響き、馬野が泡を吐いて気絶した。

「お前の負けだ、馬野」

「羽柴、さん……」

 それは俺が願っていたもう一人の人間だった。全身黒ずくめの服に防弾ベストのような物を着ている羽柴さんが、馬野に跨がる形で取り押さえていた。天井を見上げると通気口みたいな四角い枠があり、そこが破られていた。きっと古い建物なんだろう。

 今になってカタカタと震え出す身体。その身体をシキがふわりと包み込んだ。

「怖かっただろう。よく頑張ったね、滴」

 頭を撫でられ、これが夢でないことを実感する。シキの体温が冷えた俺の身体を温めた。

 けれど。

「すぐに、かえ……っ」

「シキ?」

 シキが俺の身体にもたれかかった。目元を手で覆い、頭をグラグラと揺らめかせている。それは必死で何かに耐えているようで……

「即効性というのは本当だな……なかなか強いらしい」

 黒い身体が地に沈む。それはゆっくりと。本当にゆっくりと、俺の目の前で起こった。

「シ、キ……?」

 倒れたシキ。青い目は瞼で覆われ、ピクリとも動かない。

「シキ……シキ……? やだ、起きて……やだ。嫌だよ……シキぃ……」

 それはまるで、壊れた人形のように動かなくなった。

「シキ……!」

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