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雫
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しおりを挟む「……辞めさせられた、が正しいんだけどね」
「え?」
ポツリと発せられた言葉が聞き取れなかった。馬野先生の顔を見ると、彼はニコッと俺に笑った。
「それより、体調はどう?」
「あ……変わらず、です」
「そのようだね。ドーナツがあるよ。食べるかい?」
俺の前にあるクッキーを見て、先生はスーツケースとは別の鞄からドーナツが入っている包み紙を取り出した。
チョコレートがコーティングされているドーナツ。しかしそれを見ても以前のような欲求はない。羽柴さんお手製のクッキーを食べているせいか、食欲は抑えられている。俺は首を横に振った。
「いえ、結構です。お菓子は食べないようにって、約束しているので」
「それはいいの? クッキーのようだけど」
「これは砂糖を使っていないから食べても大丈夫なんです」
シキと約束した。購買でお菓子は買わないし、他人からお菓子を貰わないと。先生の差し出すドーナツも美味そうだけれど、食べなくて済むのならそれに越したことはない。
しかし先生は、感心しないと頭を振った。
「摂取するならブドウ糖の方がいい。砂糖を使っていなくとも、甘味料は使っているんだろう?」
「……た、ぶん」
「ラムネ菓子は平気?」
「ラムネって?」
馬野先生は鞄の中から今度は筒状の透明の容器を取り出した。中には白い錠剤みたいなものがたくさん詰め込まれている。これがお菓子?
知らない俺に、馬野先生は容器を振ってカラカラと音を立てさせた。
「こういうラムネ菓子は駄菓子屋に行くとたくさんあるよ。私が持っているこれはブドウ糖の塊だからね。こちらにしなさい」
砂糖ではないから大丈夫、ということか。でも、シキから他の物をもらわないことって約束しているし……
俺が渋っていると、先生は語気を強めて言った。
「そのクッキーは医師から許可が下りたもの?」
「違います……」
「感心しないな。食べても大丈夫という根拠がない。私は医師だよ」
「……はい」
半ば推し進められる形で、俺は先生からラムネを受け取った。見た目がやっぱり薬みたいだ。食べ方とかあるのかな。
「これ、どうやって食べるんですか?」
「そのまま口の中に入れればいいよ。ちょっと変わった味がするかもしれないけれど」
菓子なのに甘くないのかな。俺は容器から一粒手の平に落とすと、それを口にした。
「……うぇ」
「あまり甘くないでしょう?」
俺は頷いた。甘くないどころか苦味さえ感じる。こんなものなのかな。
独特の味に堪えられなくなった俺はゴクンとそれを嚥下する。後味が舌に残っていてなんだか気持ち悪い。羽柴さんのクッキーを口直しに食べたい。
でも、馬野先生が見ている中でそれを口にすることが躊躇われる。今しがた注意をされたばかりだし。
「美味しくなかった?」
その問いかけに俺は三回頷いた。先生は苦笑すると、俺の向かいのソファへ腰を下ろす。
荷物を持って帰るのではないんだろうか? まだいるのであれば、先日の血糖値の結果を聞いてもいいだろうか。
「先日の結果だけど、低血糖ではなかったよ」
「あ……そう、なんですか」
俺が尋ねるよりも前に先生の方から答えが返ってきた。低血糖じゃなかったのか。じゃあ、何なんだろう? 今日は検査をするし、それでわかればいいけれど。
すると、先生は驚くことを平然と言ってのけた。
「そもそも血糖値の検査をしていないからね」
「…………は?」
血糖値の検査をしていない? どういうこと?
先生はニコニコと笑っている。顔立ちに良く合う柔和な笑み。
俺は自分の耳を疑った。あの時受けた検査は低血糖かどうかを調べる為に血糖値を測るものじゃなかったのか?
いや、それよりも……先生の、この笑み……
「それよりも、葛城君。酷いじゃないか」
「酷い? 何が、ですか?」
「私は言ったよね。『中瀬』という男を見つけたら何でもいい。教えてくれと」
「あ……」
そう言って馬野先生は立ち上がると窓際に近づき、グラウンドを眺めた。バスケを楽しむ生徒達。その中に混ざる武虎を見つめて、先生は言葉を続けた。
「羽柴君は中瀬の母方の姓だよね。安直だな。どうせ変えるのなら全く別の名前にすれば良かったのに」
馬野先生は武虎の母方の姓を知っていた? 二人は仲がいいわけではないのに?
俺は携帯電話を持つ手を僅かに動かした。馬野先生は窓の向こうを見つめたまま、語りを続ける。
「向こうは私のことなどよく知らないだろうね。それもそうか。彼はあの中で一番優秀だったから、他の者のことなどいちいち覚えちゃいないだろうね」
「あ、の……」
「ま。私の一番の探し物が見つかったから、もうどうでも良いけれどね」
音を立ててカーテンを閉める。一気に外界と閉ざされた気がした。この空間に、俺は彼と二人きりになった。
俺の中で警報が鳴る。これは駄目だ、と。
すぐに逃げなければいけない、と。
…………あ、れ?
「中瀬は正直、どうでもいいんだ。彼は私の欲するものを全て奪っていった。だから辿り着きたかった。だから彼を模倣した。それだけなんだよ」
頭が、重い……? グラグラする。何だ、これ……?
立ち上がろうと脚に力を込み入れるも、上手く踏ん張れない。ガクン、と膝から下に落ちてしまう。
俺はソファから床に跪き、先生を見上げた。
「ずっと『雫』を探していた。いつかは諦めてしまうのやもと思った時もあったけれど、何年経ってもこの気持ちが変わることはなかった。いつかは願いが叶うと信じて生きてきた。しかしまさか君に辿り着けるとはね。それも滴とは……」
なに……なにを、いっている?
わからない。ナカセをさがしていたんじゃないの?
シズク? でもこのくちぶりは、きっとおれのことじゃない……。
わからない。あたまがおもい。ぐらぐらする。
けいたい……しきに、いわなくちゃ……。
意識が朦朧とする中、俺は自分の携帯電話へと手を伸ばした。しかしそれはあっさりと取り上げられてしまう。
「美味しい血をありがとう。ようやく手に入れることができたよ…………私の『雫』」
ああ……なんで、だろ。まのせんせい……どうしてあなたは、あのろうじんとおなじかおをするの?
こわい。こわいよ……
たすけて、たけとら……。たすけて、しき……。
たすけて……
「これは私の物だよ」
たすけて……
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