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秘密 2
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手を伸ばしたまま、マグカップを取ろうとしない藍時に、鷹木が怪訝そうに声をかけるも、彼は答えない。タオルを被るように頭に乗せていることもあり、その表情も窺えない。
藍時はしばし石のように硬直していたが、やがてタオルを頭から取り去ると、ゆらりと立ち上がって鷹木の腕から抜け出した。そして先ほど開けられた窓の方に顔を向けると、その先へと誘われるように歩き出す。
「藍時君?」
名前を呼ばれると、藍時はくるりと振り返り、唇と手指を動かした。
『雨が止んだみたいなので。外の風に当たってもいいですか?』
「ああ、それなら……どうぞ」
尋ねると、どこかホッとしたように鷹木は右手を差し出した。
再び窓の方へ歩み、近づいた窓枠に手をかけて框を横に押しやると、ひやりと吹き抜ける風に乗ったペトリコールが、藍時の鼻孔を通り抜けた。
(もう、夏も終わるんだな……)
厚い雲から降り注ぐ陽光に目を細め、すうっと息を吸い込んだ後、鷹木に向き直った。
「藍時……君?」
『先生。俺、秀一さんのお店に行ったことがないんです。だから彼が本当に二重人格だとは、とても信じられなくて……。彼の中に別の人格があるというのなら、お店ではその違う一面を見せていたのでしょうか? 先生の目から見て、彼はどんな風に働いていましたか?』
「えーと、そうだね……」
藍時のその質問に、鷹木は軽く握った右手を頤に添えながら、視線を逸らしつつゆっくりと答え始めた。
「さすがはαだと感心せざるを得なかったよ。あの綺麗な容姿が人を惹きつけるのだろうけれど、何より口が上手い。指名される度に高いボトルが入り、お金が積まれていって、数多の女性が彼によって骨抜きにされていたよ」
『そうですか。さすが……ホストですね』
「ああ、本当にね」
その返答に、藍時は目を大きく見開いた後、その顔に苦笑を浮かべた。
(ああ、なんだ。そういうことだったのか……)
「藍時君……さっきから、いったいどうし……」
『おかしいです』
「……何が?」
おかしいと言われて、鷹木の蟀谷が痙攣する。彼のそんな些細な表情の変化を、藍時は見逃さなかった。
藍時は自然と、ボディバッグのストラップを握り締める。しかしそれでは、鷹木に答えることができない。
その様子に鷹木もまた、
「いったい何がおかしいって? 藍時君。私に教えてくれないか?」
と、藍時の塞がれた両手を指差した。
指摘された自分の両手が震えていることに気づいた藍時は、強く瞼を閉じた後、意を決したようにそれを解き、
『秀一さんは、ホストじゃありません』
と、唇と手指を動かしながら、睨むような目つきで鷹木を見つめた。
『働いているお店も、ホストクラブじゃなくて……ジャズバーです。お金が積まれるような場所ではないし、女性が骨抜きにされる場所でもありません』
(ピアニストだという秀一さんの演奏を聞いて、骨抜きにされるというのなら、言い分もわかるけれど……)
鷹木が本当に秀一の店に行ったのなら、客をわざわざ女性だと限定せずに答えていたことだろう。ではなぜ、藍時が「ホストですね」と言った時に鷹木は否定をしなかったのか。それは彼が、秀一の働く店に行っていないからに他ならない。
最後に受診をしたのは藍時がまだ秀一をホストだと勘違いしていた頃だ。秀一の働く店がホストクラブではなく、ジャズバーだとわかったのは、その後のこと。だから鷹木の話すホストクラブはどこにも存在しない。
藍時の言い分を聞いて、鷹木は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ああ、いや……勘違いをしていたんだ。しかし、酒を飲む店というのは間違ってな……」
『何より』
藍時は鷹木の言葉を、手話で遮った。今度は鷹木の口角がピクピクと痙攣した。
藍時は額から流れる冷たい水を拭うことなく、そのまま彼に扇家のある秘密を明かした。
『何より、秀一さんと純に……血の繋がりはありません』
「え……?」
それは鷹木も予想していなかったのか、間の抜けた声を出した。
藍時は「ああ、やっぱり」と、そんな鷹木の姿を見て残念な気持ちを抱えた。
(秀一さんの血液型はAB型。そして純は俺と同じO型。だからヒナさんがどんな血液型だとしても、二人の間にO型の子どもが誕生するわけがない)
この国は同性婚が可能で、最初から子どもを望めない夫婦も存在する。そんな夫婦が取る行動として最も多いのが養子縁組だ。血の繋がらない親子も少なくない。
熊田から秀一の血液型を聞いたあの日、違和感を覚えたもののすぐに忘れてしまった。それが保育園から帰った純の顔を見た瞬間、藍時はその真実に辿り着いたのだ。
(たとえ血が繋がらなくとも、親子は親子だ。秀一さんと純の絆は、血の繋がり以上に大きい。それは傍で見てきた俺がよく知っている)
藍時はさらに窓際へ後退しつつ、鷹木に尋ねた。
『先生、その話……本当にお店のスタッフから聞いたんですか?』
外からシャッ! と、濡れた路面を走るタイヤの音が、二人の間を切り裂くように入り込んだ。
藍時は早まる胸の鼓動を手で押さえるように当てながら、鷹木の様子を注視した。
「……まったく。なんだい、藍時君」
項垂れた鷹木が震えるような声で藍時を呼び、そして……
「私の話を疑うの?」
「……っ!?」
ゾッとするほどの恐ろしい目つきで彼を睨んだ。
(ああ……ああ、そうか。そうだったんだ……)
鷹木と初めて会った時、藍時の身体は硬直し、動けなくなった。それは鷹木の見た目、もしくは彼の性がαだからだと思っていたが、そうでなかった。
目の前のこの男が、かつて自分を支配していたあの恋人と、同一人物だったからだ。
だから今も、この男に肩を抱かれて震えていたのだ。藍時自身が気づいていなくとも、藍時の身体ははじめから、鷹木が危険な人物だと知っていたのだ。
藍時はしばし石のように硬直していたが、やがてタオルを頭から取り去ると、ゆらりと立ち上がって鷹木の腕から抜け出した。そして先ほど開けられた窓の方に顔を向けると、その先へと誘われるように歩き出す。
「藍時君?」
名前を呼ばれると、藍時はくるりと振り返り、唇と手指を動かした。
『雨が止んだみたいなので。外の風に当たってもいいですか?』
「ああ、それなら……どうぞ」
尋ねると、どこかホッとしたように鷹木は右手を差し出した。
再び窓の方へ歩み、近づいた窓枠に手をかけて框を横に押しやると、ひやりと吹き抜ける風に乗ったペトリコールが、藍時の鼻孔を通り抜けた。
(もう、夏も終わるんだな……)
厚い雲から降り注ぐ陽光に目を細め、すうっと息を吸い込んだ後、鷹木に向き直った。
「藍時……君?」
『先生。俺、秀一さんのお店に行ったことがないんです。だから彼が本当に二重人格だとは、とても信じられなくて……。彼の中に別の人格があるというのなら、お店ではその違う一面を見せていたのでしょうか? 先生の目から見て、彼はどんな風に働いていましたか?』
「えーと、そうだね……」
藍時のその質問に、鷹木は軽く握った右手を頤に添えながら、視線を逸らしつつゆっくりと答え始めた。
「さすがはαだと感心せざるを得なかったよ。あの綺麗な容姿が人を惹きつけるのだろうけれど、何より口が上手い。指名される度に高いボトルが入り、お金が積まれていって、数多の女性が彼によって骨抜きにされていたよ」
『そうですか。さすが……ホストですね』
「ああ、本当にね」
その返答に、藍時は目を大きく見開いた後、その顔に苦笑を浮かべた。
(ああ、なんだ。そういうことだったのか……)
「藍時君……さっきから、いったいどうし……」
『おかしいです』
「……何が?」
おかしいと言われて、鷹木の蟀谷が痙攣する。彼のそんな些細な表情の変化を、藍時は見逃さなかった。
藍時は自然と、ボディバッグのストラップを握り締める。しかしそれでは、鷹木に答えることができない。
その様子に鷹木もまた、
「いったい何がおかしいって? 藍時君。私に教えてくれないか?」
と、藍時の塞がれた両手を指差した。
指摘された自分の両手が震えていることに気づいた藍時は、強く瞼を閉じた後、意を決したようにそれを解き、
『秀一さんは、ホストじゃありません』
と、唇と手指を動かしながら、睨むような目つきで鷹木を見つめた。
『働いているお店も、ホストクラブじゃなくて……ジャズバーです。お金が積まれるような場所ではないし、女性が骨抜きにされる場所でもありません』
(ピアニストだという秀一さんの演奏を聞いて、骨抜きにされるというのなら、言い分もわかるけれど……)
鷹木が本当に秀一の店に行ったのなら、客をわざわざ女性だと限定せずに答えていたことだろう。ではなぜ、藍時が「ホストですね」と言った時に鷹木は否定をしなかったのか。それは彼が、秀一の働く店に行っていないからに他ならない。
最後に受診をしたのは藍時がまだ秀一をホストだと勘違いしていた頃だ。秀一の働く店がホストクラブではなく、ジャズバーだとわかったのは、その後のこと。だから鷹木の話すホストクラブはどこにも存在しない。
藍時の言い分を聞いて、鷹木は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ああ、いや……勘違いをしていたんだ。しかし、酒を飲む店というのは間違ってな……」
『何より』
藍時は鷹木の言葉を、手話で遮った。今度は鷹木の口角がピクピクと痙攣した。
藍時は額から流れる冷たい水を拭うことなく、そのまま彼に扇家のある秘密を明かした。
『何より、秀一さんと純に……血の繋がりはありません』
「え……?」
それは鷹木も予想していなかったのか、間の抜けた声を出した。
藍時は「ああ、やっぱり」と、そんな鷹木の姿を見て残念な気持ちを抱えた。
(秀一さんの血液型はAB型。そして純は俺と同じO型。だからヒナさんがどんな血液型だとしても、二人の間にO型の子どもが誕生するわけがない)
この国は同性婚が可能で、最初から子どもを望めない夫婦も存在する。そんな夫婦が取る行動として最も多いのが養子縁組だ。血の繋がらない親子も少なくない。
熊田から秀一の血液型を聞いたあの日、違和感を覚えたもののすぐに忘れてしまった。それが保育園から帰った純の顔を見た瞬間、藍時はその真実に辿り着いたのだ。
(たとえ血が繋がらなくとも、親子は親子だ。秀一さんと純の絆は、血の繋がり以上に大きい。それは傍で見てきた俺がよく知っている)
藍時はさらに窓際へ後退しつつ、鷹木に尋ねた。
『先生、その話……本当にお店のスタッフから聞いたんですか?』
外からシャッ! と、濡れた路面を走るタイヤの音が、二人の間を切り裂くように入り込んだ。
藍時は早まる胸の鼓動を手で押さえるように当てながら、鷹木の様子を注視した。
「……まったく。なんだい、藍時君」
項垂れた鷹木が震えるような声で藍時を呼び、そして……
「私の話を疑うの?」
「……っ!?」
ゾッとするほどの恐ろしい目つきで彼を睨んだ。
(ああ……ああ、そうか。そうだったんだ……)
鷹木と初めて会った時、藍時の身体は硬直し、動けなくなった。それは鷹木の見た目、もしくは彼の性がαだからだと思っていたが、そうでなかった。
目の前のこの男が、かつて自分を支配していたあの恋人と、同一人物だったからだ。
だから今も、この男に肩を抱かれて震えていたのだ。藍時自身が気づいていなくとも、藍時の身体ははじめから、鷹木が危険な人物だと知っていたのだ。
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