【完結】その家族は期間限定〜声なきΩは本物に憧れる〜

天白

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みんなでお風呂 1

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 ろうそくの火に息を吹きかけた後も、純は実に楽しそうだった。美味しいを連呼して手作りのケーキとご馳走を平らげると、待ちかねていたプレゼントを開けて、中に入っていたラジコンを目にして大いに喜んだ。今は膨らんだお腹を抱えて、秀一とともに遊んでいる。

(これが『普通』の家庭なんだ……)

 そんな彼らの様子を、キッチンにて空いた食器を洗う藍時は微笑ましく眺める反面、自分ではその本物が決して手に入らないことを痛感していた。

 食事をしている最中、口の周りをクリームだらけにした純が「この楽しいのがずっと続けばいいのに」と言った。藍時は「俺もだよ」と言いかけたのをぐっと堪えた。藍時をママと信じて疑わない純の口元を拭いながら、改めてこれが「本物の母親」がいないことで成り立っている、偽物の愛だということに気づかされたのだ。

(わかっていたはず……なのにな)

 母親が戻れば、純にとっての楽しい時間はこの先も変わらず続いていく。純の笑顔が保たれるなら、自分は自分を偽り続けよう。自分を救ってくれた小さな恩人のために、すべてを捧げよう。

 悔いはない。そのはずだった。

『これでヒナちゃんも、秀ちゃんの下へ戻ってくるわ』

 今日、改めてその日が近いことを知り、動揺した。

 わかっていても、日に日に増していく、仮初めの家族に対する愛しいという気持ち。覚悟はしていたはずなのに、その覚悟が揺らぐほど、藍時は扇家を好きになっていた。

 熊田の発言を耳にしてからというもの、笑顔で純を祝いつつ、自分がこの家を去る日はいつだろうと考えていた。それが一年後なのか、一週間後なのか、明日なのか。導火線の長さが見えない時限爆弾のようなものだからこそ、藍時はこれまでにない恐れを抱いていた。

(でも……これでよかったのかもしれない)

 長引けば長引くほど、情が湧く。その上、人様の夫だというのに、秀一に対して憧憬のような想いを抱きつつあった。彼に対していちいち心臓が跳ねてしまうのも、動悸ではなく胸の高鳴りなのだとすれば、一緒に過ごすことでそれ以上の感情を芽吹かせてしまうかもしれない。

 いくら自分がαに対して、声を出せなくなるほどの恐怖心を抱いているのだとしても、元来Ωの本能は彼らに惹かれるようにできている。番のいる相手と過ちを犯すことはないだろうが、ヒートが起こってしまうと厄介だ。住み込みを続けたいと言ったばかりではあるが、距離を置くため通いに戻してもらおうと思った。

(受診日じゃないけど、明日クリニックに行って、強めの抑制剤を処方してもらおう。備えあれば憂いなし、だ)

 藍時は抑制剤が効きやすいのか、幸いにも薬でヒートを抑えることができている。効果の強い抑制剤など所持したところで必要がないかもしれないが、杞憂に終わればそれでいい。そう自分自身に言い聞かせ、洗った食器を拭こうとする矢先のことだった。

「よーし、純。そろそろ風呂に行くぞ」

 壁掛けの時計を確認しながら、秀一が純に入浴の声掛けを行った。これが休日なら、多少の夜更かしも許してやりたいところだが、残念ながら今日はまだ水曜日。純には明日も保育園という名の仕事場が待っている。

 多少のぐずりは仕方ないと、秀一もわかっていただろう。だが、予想に反して純は、素直に「入る」と頷いた。

 ああ、よかったとほっと息を吐いたのも束の間、純はとんでもない要求を後に続けたのだ。

「ママ! ママも入ろ!」

「なんだよ、パパとは嫌だって~?」

「ううん! パパと入るよ! でもママも一緒に入るの!」

「……はい?」

「えっ……?」

 藍時は手にしたグラスをシンクの中へ落としそうになった。

 つまりこういうことだ。ぼくとパパとママ、三人で一緒にお風呂に入りましょう。

 その場にいる大人二人が、それぞれ困惑の色を顔に浮かべつつ、風呂に持っていく人形の用意をウキウキと始める純の背中を見つめた。

「ぼくね、ずっとパパとママと一緒に入りたかったの。お風呂でね、みんなで水でっぽーやるの。お歌も歌うの」

「えーと……」

 初めて語られる我が子の意外な夢に、なお困惑が続いている秀一は額に手を当てながら、その小さな背中に諭すように優しく語りかけた。

「純。風呂はお前とオレが入ったら、ママは入れないんだよ。家の風呂はそんなに大きくはないから、大人二人も入れないんだ。だからママと純が入るなら、オレは入れない。それだけは、できないんだよ」

 できない、と言われて純は手にした人形をぽとりと落とした。一か月という短い期間ではあるが、それまでの純はたいがい秀一から諭されると、「そっか」と悲しい表情を浮かべるものの、大人しく言うことを聞いてきた。

 しかし今日は違った。純はわなわなと身体を震わせた後、ドンドンと地団太を踏み、感情を爆発させた。

「やだ! 入りたい! 一緒に入りたい! みんな一緒! は・い・る・の!」

「純」

「や! やだやだやだ! やー!」

「純っ」

 秀一が強く、純の名前を呼んだ。驚いた純はビクッと肩を震わせると、その大きな瞳いっぱいに涙を溜めていく。つい感情的になってしまったことに気づいた秀一は、サッと自分の口元を手で覆い、「怒鳴って悪かった」と純に伝えると、純はボロボロと涙を零しながら一緒に入りたいと言った理由について吐露をした。

「だって……だって、ママっ……また……どこか、行っちゃうの……やだもん……!」

 ハッと気づかされたのは藍時だった。「この楽しいのがずっと続けばいいのに」と純が言った後、藍時は答えず、ただ微笑を浮かべただけだった。そこで不安になったのだろう。誕生日が終わった後、藍時が自分の下からいなくなってしまうのではないかと。本物の母親同様、行方を眩ませてしまうのではないかと。

 その後も明るく振る舞っていたのは、藍時を引き留めたいがための彼なりの精一杯だったのだ。

(こんな小さな子に気を遣わせてしまっていたなんて……ママ代行、失格だ……)

 純にとって、自分が偽物の母であることは関係ない。今、ここに「ママ」として立っているということ。それが彼にとっての本物だった。

 藍時は手にしていたグラスを水切りカゴの中に入れると、手を拭きながら純の下へと近寄った。

「ひっく……ママぁ……」

 嗚咽を混じりに自分を求める純の背中をそっと擦り、藍時は秀一と視線を合わせた。

『お邪魔でなければ、ご一緒させてもらえませんか?』

「それはっ……」

『大丈夫です。抑制剤は飲んでいますし、過去にも入浴中に発情したことはありません。秀一さんにご迷惑はかけないと誓います。ですから、純には今日一日、最後まで楽しく過ごしてもらいたいんです。お願いします。ご一緒させてください』

 秀一が制止しようとするのを、藍時はあくまで自分からの願いだと申し出た。妻が不在というだけで誰かの夫と一緒に入浴をすることは、いくら子どもの頼みであっても世間が許さないだろう。互いが意識しない相手、とりわけ性的感情を抱かない者同士であれば、気兼ねなく入浴をともにできたのだろうが、自分達はαとΩだ。それはたとえ同性同士であったとしても、行動の如何にとっては不貞行為とみなされてしまう。つまり藍時と秀一が互いに意識をしていようがしていまいが、一緒に入浴をするという行為自体が許されないことなのだ。

 だから藍時は、純が望んだからという理由ではなく、自分が一緒に入りたいからという理由にすり替えた。そうすれば、後で本物の母親が戻ってきた時に事実が露見されたとしても、責められるのは自分だけにすることができる。

 わかっている。これがただの屁理屈だということは。しかしそれを、妻子のある秀一の口から言わせるわけにはいかなかった。

「純」

 藍時は純に呼びかけた。

「ママも一緒に入るよ。大丈夫。どこにも行かないから」

「うっ……ほん、ほんと?」

「うん。本当。ママが二人と一緒に入りたいんだ」

 頷き、そう言うと、純は涙で腫らした顔をくしゃりとさせた。

「パジャマ持ってくる!」

 その後、機嫌を直し、自室へと駆け出していく純の背中を目で追うと、秀一が「申し訳ありません」と言って頭を下げた。

「明日、純にはよく言って聞かせます。本当に申し訳ない」

 藍時は緩やかに頭を振りながら、すっかり「仕事兼接客モード」となってしまった秀一の腕を突いて、顔を上げさせた。

『大丈夫です。これは俺の我が儘ですから。ただ……一つだけお願いがあります』

「ええ。何でも言ってください」

 藍時は秀一から視線を逸らしつつ、声なく口籠りながら手指を動かした。

『腰に……タオルを巻いて入浴することを、許してもらえますか?』

 浴室は裸になり、心身を洗い流す場所だ。本来ならばタオルを身に着けて入ることなどマナー違反。藍時は言ってから、顔を赤く染め上げた。

 秀一は予想の斜め上の「お願い」に、ポカンと口を開いた後、豪快に笑った。

「あはははっ! ……ええ。こちらもそうさせてもらいます」

 かくして、偽物の夫婦は一緒に浴室へと向かうことになったのだ。

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