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偽りの家族 1
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蝉の鳴き声がまだ賑やかしい八月もそろそろ終わる頃。藍時は斜め掛けのボディバッグとエコバッグを片手に、テクテクと緩やかな坂道を上っていた。その中腹に見える施設からは、元気な子どもたちの声が聞こえてくる。
NPO法人「わっくわく保育園」。藍時の用はそこにある。入館証のICカードをカードリーダーに翳してから園の中に入り、二階へ向かう。足を止めたのは年中クラス「すずめ」組の前だ。そこまで行くと、専用のエプロンを纏う女性が藍時の存在に気づき、中にいる子どもの一人に大きな声をかけた。
「純くーん。お母さんがお迎えにいらしたわよー」
名前を呼ばれてバッと立ち上がる少年は、すでに用意していた荷物を持つと、屈託のない笑顔とともに藍時の下へ駆けつけた。
「ママ!」
少年こと扇純は藍時の膝に抱きつくと、自身のマシュマロのような頬を擦りつける。
そんな甘えたな様子の純に、藍時は微笑を浮かべると、彼に向かって口を開いた。
「おまたせ、純。今日も楽しかった?」
高く透明感のある声がそうして純に優しく尋ねかけると、彼はぴょこっと顔を上げて元気よく頷いた。
「うん! ぼくね、今日お絵描きしたの! わんちゃんとね、ねこちゃんとね、それからぼくの大好きな……」
「純君、お楽しみは帰ってからよ? お家でお母さんに、ゆっくり見てもらいなさいな」
「そっか! ママ、帰ってからぼくの描いた絵を見てね!」
「わかった。楽しみにしてるよ」
はやる気持ちが抑えきれないことがよくわかる。手にする丸めた画用紙に、自身の描いた見せたい絵があるのだろう。微笑む藍時はさらに口角を持ち上げた。
保育士もまた同じように笑い、
「最近は純君の楽しそうな笑顔をたくさん見られて安心です。ずっと須中さんのことをお話しされているんですよ」
と、園内での純の様子を語った。
藍時が家事代行ならぬママ代行を始めてから、一か月が経とうとしていた。初めて会った時から、純の藍時に対する懐きようは凄まじかったが、ママ代行業務を始めてからはなおいっそう、純は藍時にべったりになった。美人は三日で飽きるというが、ママは一か月でも飽きないらしい。
現に今も、純は藍時の手を取って自慢気にこう言うのだ。
「だってぼく、ママが大好きだもん」
邪気など一切ない素直な「好き」の感情に、藍時の頬には仄かに朱が浮かぶ。
「そうね。また明日もお話を聞かせてね。それでは純君、さようなら」
「さようなら!」
純が藍時の手を取ると、藍時は保育士に軽く頭を下げてから、一緒に保育園を後にした。
今しがた登ってきた坂道を、今度は純の歩く速さでゆっくりと下りていく。日差しに浴びる時間はその分長くなるが、一人で歩く時よりも、過ぎる時間は不思議と短く感じられる。
ここ最近の純は特に機嫌がいい。それは藍時がママとして傍にいるからというだけではない。彼の楽しみは二日後にあった。
「明日の明日は~、ぼくのお誕生日~♪ えへへ! 楽しみだな~♪」
明後日、九月一日は純の誕生日。その誕生日まで一週間を切ったところから待ちきれないらしく、家の日めくりカレンダーを捲っては閉じ、捲っては閉じを嬉々として繰り返している。
「じゃあ、明後日までお利口さんにしていないとな。昨日みたいに歯磨きをした後で、ジュースを飲んじゃいけないよ?」
「はーい」
藍時がクスクスと笑うと、純はビシッと手を上げた。
今の藍時は手話を使っていない。完全に手が塞がった状態でありながらも、自分の声を介して純と話している。声量は小さいものの、たどたどしさはすっかりなくなり、声を失う前と変わらない調子で会話を行っていた。
「ママ、今日の夜ご飯は何?」
ふと、純が今夜の献立について藍時へ尋ねる。藍時は「えっと……」と目線を空へ上げながら、純にクイズを出した。
「にんじんさんと、じゃがいも君、たまねぎちゃんに、ころころお肉。みんな仲良く、お鍋でコトコト煮込まれます。さて、このお料理は何でしょう?」
「お鍋でコトコト……カレーライス!?」
「正解。よくわかったな」
「お鍋でコトコトだもん! やった! ぼく、ママの作るカレーライス大好き!」
「俺も好きだよ。純の大好きな甘口ね」
やった、やったと藍時の握る手を大きく振り回す純。藍時の作るカレーライスは、市販のカレールウを使った至って普通のカレーライスだ。包装裏に記載のレシピ通りにすれば、誰が調理しても同じ味になる。それがこうも喜ばれると、そんなカレーライスでも作り甲斐があるというものだ。
そして純には、他にも嬉しいことがあった。
「今日ね~、パパも帰ってくるのが早いんだって言ってたよ。カレーライス、一緒に食べられるかな?」
パパという単語に、藍時の胸がドキン、と鳴った。
刹那の間、藍時は言葉を詰まらせるも、すぐに「そうだな」と純へ返した。
「パパも……一緒に食べられたら、いいね」
「えへへ~」
蝉の鳴き声がまだ賑やかしい八月もそろそろ終わる頃。藍時は斜め掛けのボディバッグとエコバッグを片手に、テクテクと緩やかな坂道を上っていた。その中腹に見える施設からは、元気な子どもたちの声が聞こえてくる。
NPO法人「わっくわく保育園」。藍時の用はそこにある。入館証のICカードをカードリーダーに翳してから園の中に入り、二階へ向かう。足を止めたのは年中クラス「すずめ」組の前だ。そこまで行くと、専用のエプロンを纏う女性が藍時の存在に気づき、中にいる子どもの一人に大きな声をかけた。
「純くーん。お母さんがお迎えにいらしたわよー」
名前を呼ばれてバッと立ち上がる少年は、すでに用意していた荷物を持つと、屈託のない笑顔とともに藍時の下へ駆けつけた。
「ママ!」
少年こと扇純は藍時の膝に抱きつくと、自身のマシュマロのような頬を擦りつける。
そんな甘えたな様子の純に、藍時は微笑を浮かべると、彼に向かって口を開いた。
「おまたせ、純。今日も楽しかった?」
高く透明感のある声がそうして純に優しく尋ねかけると、彼はぴょこっと顔を上げて元気よく頷いた。
「うん! ぼくね、今日お絵描きしたの! わんちゃんとね、ねこちゃんとね、それからぼくの大好きな……」
「純君、お楽しみは帰ってからよ? お家でお母さんに、ゆっくり見てもらいなさいな」
「そっか! ママ、帰ってからぼくの描いた絵を見てね!」
「わかった。楽しみにしてるよ」
はやる気持ちが抑えきれないことがよくわかる。手にする丸めた画用紙に、自身の描いた見せたい絵があるのだろう。微笑む藍時はさらに口角を持ち上げた。
保育士もまた同じように笑い、
「最近は純君の楽しそうな笑顔をたくさん見られて安心です。ずっと須中さんのことをお話しされているんですよ」
と、園内での純の様子を語った。
藍時が家事代行ならぬママ代行を始めてから、一か月が経とうとしていた。初めて会った時から、純の藍時に対する懐きようは凄まじかったが、ママ代行業務を始めてからはなおいっそう、純は藍時にべったりになった。美人は三日で飽きるというが、ママは一か月でも飽きないらしい。
現に今も、純は藍時の手を取って自慢気にこう言うのだ。
「だってぼく、ママが大好きだもん」
邪気など一切ない素直な「好き」の感情に、藍時の頬には仄かに朱が浮かぶ。
「そうね。また明日もお話を聞かせてね。それでは純君、さようなら」
「さようなら!」
純が藍時の手を取ると、藍時は保育士に軽く頭を下げてから、一緒に保育園を後にした。
今しがた登ってきた坂道を、今度は純の歩く速さでゆっくりと下りていく。日差しに浴びる時間はその分長くなるが、一人で歩く時よりも、過ぎる時間は不思議と短く感じられる。
ここ最近の純は特に機嫌がいい。それは藍時がママとして傍にいるからというだけではない。彼の楽しみは二日後にあった。
「明日の明日は~、ぼくのお誕生日~♪ えへへ! 楽しみだな~♪」
明後日、九月一日は純の誕生日。その誕生日まで一週間を切ったところから待ちきれないらしく、家の日めくりカレンダーを捲っては閉じ、捲っては閉じを嬉々として繰り返している。
「じゃあ、明後日までお利口さんにしていないとな。昨日みたいに歯磨きをした後で、ジュースを飲んじゃいけないよ?」
「はーい」
藍時がクスクスと笑うと、純はビシッと手を上げた。
今の藍時は手話を使っていない。完全に手が塞がった状態でありながらも、自分の声を介して純と話している。声量は小さいものの、たどたどしさはすっかりなくなり、声を失う前と変わらない調子で会話を行っていた。
「ママ、今日の夜ご飯は何?」
ふと、純が今夜の献立について藍時へ尋ねる。藍時は「えっと……」と目線を空へ上げながら、純にクイズを出した。
「にんじんさんと、じゃがいも君、たまねぎちゃんに、ころころお肉。みんな仲良く、お鍋でコトコト煮込まれます。さて、このお料理は何でしょう?」
「お鍋でコトコト……カレーライス!?」
「正解。よくわかったな」
「お鍋でコトコトだもん! やった! ぼく、ママの作るカレーライス大好き!」
「俺も好きだよ。純の大好きな甘口ね」
やった、やったと藍時の握る手を大きく振り回す純。藍時の作るカレーライスは、市販のカレールウを使った至って普通のカレーライスだ。包装裏に記載のレシピ通りにすれば、誰が調理しても同じ味になる。それがこうも喜ばれると、そんなカレーライスでも作り甲斐があるというものだ。
そして純には、他にも嬉しいことがあった。
「今日ね~、パパも帰ってくるのが早いんだって言ってたよ。カレーライス、一緒に食べられるかな?」
パパという単語に、藍時の胸がドキン、と鳴った。
刹那の間、藍時は言葉を詰まらせるも、すぐに「そうだな」と純へ返した。
「パパも……一緒に食べられたら、いいね」
「えへへ~」
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