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みっつ
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「オヨヨヨ~」
これには母親も慌ててしまう個人情報漏洩であった。
近所にもアパートの住民にさえ知らない話であり知られたくない話だ。
世間は狭いもので誰が聴いているか分かったものではない。
まさに壁に耳あり障子に目あり、だ。
母親は思わず目を閉じ両手で自分の耳を塞いだが、まったく意味のない行為だ。
「もう浮気はしないって言ったのに、その口が乾かぬ内にまた違う男の所に行きやがって!」
「オヨヨヨ~」
どうやら母親は浮気の常習者だったようだ。
だが、それとは関連のない言葉を息子は我慢出来ずに顔を赤らげながら小声で漏らした。
「下の口も乾かぬ内に……」
ぼそっ……
思わず下ネタに走ってしまったのは、そういうお年頃だからだ。
母親への怒りや妬みなのではなく、ただ頭に不意に思い浮かんでしまったのだ。
頭に浮かんだ以上、口に出さざるを得なかった。
まさに、そういうお年頃だ。
「オヨ?」
母親もなにかを感じ取ったようだ。
「オッヨッヨッ」
母親は息子のしょうもない下ネタにふくみ笑いをした。
息子は母親の反応に勘づいて動揺した。
さらに顔が赤くなりモジモジしたが、こちらが見えないことに気付いて気にせず話を続けることにした。
話を続けるといっても借金の事ではなく、家族がバラバラになった経緯の事である。
「離婚しやがって……」
やっと現時点での二人の関係性が分かって来た。
話をまとめると元々二人は家族で、母親の浮気で離婚して生活が苦しくなった彼女はサラ金から借金をした。
そして、なかなか借金を返さない母親の所に派遣されたのがこの若造だった。
この若造が実の息子であったという話だ。
「オヨ~」
「な、なんだよ、あの時は大変だったんだからな!
だいたい離婚する! って出て行ったのに慰謝料請求するってなんなんだよ!」
「オッ!」
「裁判までしようとして……おめぇが悪いのに慰謝料が出る訳ねぇだろ!」
「オヨヨ!」
息子は思い出しながら怒鳴ったが、すぐに抑えた。
とにかく母親との会話を続けたかった。
「あれから大変だったんだからな、あのあと……」
息子は昔の事を次から次へと思い出した。
誰にも経験があると思われるが、昔の話をすると過去の出来事が走馬灯のように次から次へと頭に甦って来るのだ。
「オレ、野球やってたんだ……知ってるよな?
オレ、野球やってたんだ!」
過去の出来事が甦って来るのはいいが、息子の話はビックリするくらい唐突に変わった。
しかも同じ事を二回言ったのだ。
大事な事だから、ではなく感情に任せて喋ったからである。
「三年の時! 高校の三年な!
三年の時! 試合に出たんだ!
三年の時! 夏の大会に出たんだ!」
三年を連続四回使ったのは気にしないで。
「オレは……九回の表ツーアウト満塁の時……初戦の試合な。
打席に立ったんだ……公式戦の試合にだ!
オレ……代打で出たんだ!
オレ!」
話の組み立てが変なのは感情だけで喋っているからだ。
頭に浮かんだ順番に喋っているから文章がおかしくなっているのだ。
自分の輝かしい瞬間がフラッシュバックして、とにかく喋らずにはいられない状態に陥ってしまった。
「オレさぁ、バッターボックスに立ったら、もう体が震えるはカッチンコッチンになるわで……」
カチコチでいいのでは。
「二点差でさぁ……あっ、こっちが二点差で負けててさぁ。
ここでイッパツ逆転しないと、この夏が終わっちゃうんだぜぇ」
息子はなぜか片目を閉じてウインクをしようとした。
今までウインクが出来た試しがなかったのに……
そこは誰も居なかったので人目を気にせず何度も目をパチパチして頑張った。
しかし出来ないものは出来ない、無駄な努力と時間であった。
「オレが運命を決めるんだぜぇ!」
またもや誰も見ていないのに親指を立ててサムズアップのポーズを披露した。
手汗びっしょりのサムズアップだ。
当時の記憶が鮮明に甦り、感情がたかぶって拳に力が入りまくりだからだ。
……手汗が気持ち悪そう。
ただ、お喋りの時間が止まる気配は皆無だった。
本能のまま頭に浮かんだことを喋り続けた。
こんな状態に陥ったら口が止まらなくなるのは、みなさんにも経験があるのではないだろうか。
まさにあるあるの状態だ。
「相手のピッチャーがさぁ……球が切れっ切れでさぁ……評判のいいピッチャーだったんだよね!
・・・」
息子は盛り上げる為に間を開けた。
溜めのテクニックは知っているようだ。
「・・・
打っちまったよ!
しょ、初球は真っ直ぐが多いっていうから初球打ちを狙ったんだ!
まっ、サインも出てたし……この一球にオレのすべてを賭けたぜ!
で、どうなったと思う⁉︎」
打ったという結果を先に喋ってしまったが質問せずにはいられなかった。
息子もその事に気付いたが止められなかった。
感情が先走って我慢出来ない状態に陥ってしまったからだ。
案外、誰にもある事かも知れない。
まさに神のイタズラというしかない、仕方のない症状だ。
「う、打っちまったぜ……」
答えを先に言ってしまったのに答えを言ったので声が後半うわずいてしまった。
だが、めげずに続けた。
「三塁打だせ! 三塁打!
一、二塁の間をスコーンと抜けて行ったよ。
芯に当たった感触は人生イチバンの当たりだったぜ!
そう芯に当たったんだ!」
口角は上がりメラメラと燃え上がった彼の目には、当時の光景が鮮明に映し出されていた。
それは突如として目の前に野球場のグランドが出現し、バッターボックスにはユニフォームを着てバットを構えるあの時の自分の姿が現れた。
妄想した自分の姿がカッコよ過ぎて気分が高揚した。
そして息子は遠く空を見上げて笑顔のまま動かなくなった。
よくする癖だった。
はたから見たら不審者だ。
「満塁で三塁打だ! 三点取ったんだ! 大逆転だ! 一点でも二点でもなく、三点取ったんだぜ、このオレが!」
息子の目はメラメラから、真っ赤に血走る充血状態に可変した。
興奮度MAXだ。
「試合で初めて打ったんだ! 初めて打ったんだよぉ!」
彼の興奮の絶頂期はまだ終わらない。
「向こうのピッチャーも満塁だからなぁ、本気の球ぁ投げたよなぁ。
コッチも本気で打ったからなぁ、目一杯練習したし……あはっ」
照れ笑いしながらも、まだまだこの自慢話を続けるつもりだ。
「練習頑張ったからなぁ……うんうん! オレ凄いなぁ」
彼のまぶたには、あのシーンが様々なカメラアングルで何度も甦って来るのであった。
体がうずき始めた息子はバッティングポーズを取った。
なぜなら目の前のボロアパートが脳内補正で野球場に変換されて見えているのだから。
そして今、切れっ切れのピッチャーの投げたボールが真っ直ぐに来て……
「かっきーん!」
自分にしか見えないボールを、自分にしか見えないバットで打った。
そして飛んで行った自分にしか見えない白球を目で追いかけた。
ついに彼は再現をやっちまった。
だがそのあと息子の顔色が曇り始めた。
空高く遠く見つめていた目を、さらにずっとずっと遠くに再設定して見つめ続けた。
「あのあと、九回裏の相手の攻撃で……」
息子はすべてを悟ったかのような笑みを浮かべた。
「逆転されたのさ、ふっ……」
足下にはなにもないのに石を蹴ったフリをして、さらに続けた。
「あの回からライトの守備に入ったオレの所にボールがバンバン飛んで来てさ。
ボール、弾いちゃてさ……エラーしちゃった。
すぐボール取ったんだよ。
でも投げる時に手からこぼれちゃって……また、すぐ拾って投げたんだぜ、バックホームに。
でも暴投して……二点取られて逆転負けさ、ハハハハ」
散々である。
「いい思い出さ」
そうは思わないが、それで良いのなら良いのだろう。
息子の笑顔はさわやかであった。
「ふーっ」
手を口元にやって吸っていないのにタバコを吸うフリをして、また空を見上げた。
目を細めたが曇りで眩しくない。
ただカッコ付けたかっただけなのかも知れない。
しかし息子の目の焦点は合ってなかった。
彼が見ているのはあの瞬間の、捕手の自分ではなく打者の自分だ。
エラーの事は瞬時に忘れてしまっていた。
都合の良い脳構造の持ち主と言えよう。
「ぶおぅん! ぶおぅん!」
もうなにも臆せず声を出しながら持っていないバットを豪快に何度も振り続けた。(エアバットでシャドーバッティング)
「気持ちいいなぁ」
続けていた素振りが、いつの間にか腰を回す柔軟運動へと変わったのは見逃せない。
それは手ぶらの素振りに限界が来たからだ。
「ぶおぅん……(なにか手に馴染む物があればもっと続けられるのに……太くて硬い棒、そうバットがあれば……三塁打を打った……あのバット……)」
「あのバット……新品の金属バット、良かったなぁ。
あのバットで三塁打を打ったんだよな。
あのバット……いつの間にか、家にあったんだよなぁ。
おやじも妹も知らないって……」
息子は低い知能で少しだけ考えを巡らせた。
ひょっとしたら、あの嬉しさといとおしさとファンタジー(不思議)が入り混じった出来事の真実が今日、暴かれるかも知れないのだ。
「試合前おふくろ、妹と電話してたよな。
野球の試合がある事、知ってたはずだよな」
次に一番そうであって欲しい事を言い出した。
心の声がそのまま口から出た。
「ひょっとして、おふくろが? おふくろが用意してくれたのか?」
きっと、そうに違いない。
確信があった訳ではないが、そうであって欲しいという想いがもう止まらない。
いつの間にか玄関に立て掛けてあった、新品の金属バット。
おやじも妹も誰が購入したか知らない、新品の金属バット。
まさか、サンタさんが……まずないな、新品の金属バット。
消去法でおふくろがくれたのであろう、新品の金属バット。
「おふくろ……ありがとな……」
息子は、それが真実の物語だと脳内補完してしまった。
ちなみに脳内補完とはオタク用語である。
本当はあの頃から心の中でうずまいていた想いであった。
それに、このセリフを言ってみたかったので都合良く補完したのだ。
気持ちがスッキリしたのか、息子はどこからか涼しい風を感じて自分にまた酔い出した。
だがそのあとの記憶が、そのあとの疑惑が湧いて来た。
「試合が終わったあと、その新品の金属バットがなくなったんだよな……」
その頃、家の物がなくなる事が多かった。
決まって留守の時で、一見何事もない感じに整えてあるが、家族しか知り得ない場所に置いてある少し高価な物がなくなっていたりした。
母親が勝手に家に忍び込んで盗んだのでは? と家族で話し合ったものだ。
だから新品の金属バットも母親が?
「いやいや!」
ぶるぶる!
息子は大きく首を振った。
はたから見たら、水浸しの大型犬が身体を『ブワァン、ブワァン』と振っているように見えた。
それぐらい大袈裟でみすぼらしさが彼にはあった。
(なんてヤツだ! 自分の母親を疑るなんて! オレってヤツは……)
息子は自分を恥いた。
本来もっと恥じる事のある人生を過ごしたはずだが……
その時、そろばん塾から帰って来た男子小学生達が自分を見ているのに気付いた。
「目を合わせたら負けだぞ」
ひそひそ……
小学生の話し声に『はっ!』と我に返った。
(もう夕方じゃないか、けっこう時間がたったみたいだ)
大事な仕事を忘れるところだった。
いい加減、借金のカタを付けてもらわないといけない。
時間の余裕がなくなって来たんだから焦らなくてはと自分に言い聞かせた。
例え親子であっても、これだけは守ってもらわないと。
「おい! 聞いてたのか⁉︎」
部屋からの反応が再びない。
「またオレの独り言っつぅのか! また眠ってましたってか!
けっ、ふざけやがって!」
息子は一人盛り上がったところで覚悟を決めた。
途中から母親の反応がなかったのに気付いていたし、以前から会話にならないのは知っていたからドンドン話を進めることにした。
“ドンドン!”
「どうせ、すみっこでちっちゃく固まってんだろ!」
“ドンドン! ドンドン!”
「今日はトコトン付き合ってもらうからな!」
母親はこの間、なにもしなかった訳ではなかった。
行動を起こす準備をしていた。
なぜなら彼女にも時間が差し迫っていたからだ。
まもなく大事なミッションが始まる時間が来るのだ。
服装を整え、筋肉を揉みほぐしながら気合を入れた。
「オーヨッ!」
完全に別人と思えるほどの気合を、彼女は自分に注入したのだ。
さっきまでは自堕落な雰囲気があったが、今の彼女は闘志みなぎる兵士、アマゾネスの如くオーラをたずさえていた。
そして力強い足取りで玄関のドアの前に立った。
行動を始める準備が整った。
部屋から出る準備が。
「オヨー!(ミッションスタート!)」
これには母親も慌ててしまう個人情報漏洩であった。
近所にもアパートの住民にさえ知らない話であり知られたくない話だ。
世間は狭いもので誰が聴いているか分かったものではない。
まさに壁に耳あり障子に目あり、だ。
母親は思わず目を閉じ両手で自分の耳を塞いだが、まったく意味のない行為だ。
「もう浮気はしないって言ったのに、その口が乾かぬ内にまた違う男の所に行きやがって!」
「オヨヨヨ~」
どうやら母親は浮気の常習者だったようだ。
だが、それとは関連のない言葉を息子は我慢出来ずに顔を赤らげながら小声で漏らした。
「下の口も乾かぬ内に……」
ぼそっ……
思わず下ネタに走ってしまったのは、そういうお年頃だからだ。
母親への怒りや妬みなのではなく、ただ頭に不意に思い浮かんでしまったのだ。
頭に浮かんだ以上、口に出さざるを得なかった。
まさに、そういうお年頃だ。
「オヨ?」
母親もなにかを感じ取ったようだ。
「オッヨッヨッ」
母親は息子のしょうもない下ネタにふくみ笑いをした。
息子は母親の反応に勘づいて動揺した。
さらに顔が赤くなりモジモジしたが、こちらが見えないことに気付いて気にせず話を続けることにした。
話を続けるといっても借金の事ではなく、家族がバラバラになった経緯の事である。
「離婚しやがって……」
やっと現時点での二人の関係性が分かって来た。
話をまとめると元々二人は家族で、母親の浮気で離婚して生活が苦しくなった彼女はサラ金から借金をした。
そして、なかなか借金を返さない母親の所に派遣されたのがこの若造だった。
この若造が実の息子であったという話だ。
「オヨ~」
「な、なんだよ、あの時は大変だったんだからな!
だいたい離婚する! って出て行ったのに慰謝料請求するってなんなんだよ!」
「オッ!」
「裁判までしようとして……おめぇが悪いのに慰謝料が出る訳ねぇだろ!」
「オヨヨ!」
息子は思い出しながら怒鳴ったが、すぐに抑えた。
とにかく母親との会話を続けたかった。
「あれから大変だったんだからな、あのあと……」
息子は昔の事を次から次へと思い出した。
誰にも経験があると思われるが、昔の話をすると過去の出来事が走馬灯のように次から次へと頭に甦って来るのだ。
「オレ、野球やってたんだ……知ってるよな?
オレ、野球やってたんだ!」
過去の出来事が甦って来るのはいいが、息子の話はビックリするくらい唐突に変わった。
しかも同じ事を二回言ったのだ。
大事な事だから、ではなく感情に任せて喋ったからである。
「三年の時! 高校の三年な!
三年の時! 試合に出たんだ!
三年の時! 夏の大会に出たんだ!」
三年を連続四回使ったのは気にしないで。
「オレは……九回の表ツーアウト満塁の時……初戦の試合な。
打席に立ったんだ……公式戦の試合にだ!
オレ……代打で出たんだ!
オレ!」
話の組み立てが変なのは感情だけで喋っているからだ。
頭に浮かんだ順番に喋っているから文章がおかしくなっているのだ。
自分の輝かしい瞬間がフラッシュバックして、とにかく喋らずにはいられない状態に陥ってしまった。
「オレさぁ、バッターボックスに立ったら、もう体が震えるはカッチンコッチンになるわで……」
カチコチでいいのでは。
「二点差でさぁ……あっ、こっちが二点差で負けててさぁ。
ここでイッパツ逆転しないと、この夏が終わっちゃうんだぜぇ」
息子はなぜか片目を閉じてウインクをしようとした。
今までウインクが出来た試しがなかったのに……
そこは誰も居なかったので人目を気にせず何度も目をパチパチして頑張った。
しかし出来ないものは出来ない、無駄な努力と時間であった。
「オレが運命を決めるんだぜぇ!」
またもや誰も見ていないのに親指を立ててサムズアップのポーズを披露した。
手汗びっしょりのサムズアップだ。
当時の記憶が鮮明に甦り、感情がたかぶって拳に力が入りまくりだからだ。
……手汗が気持ち悪そう。
ただ、お喋りの時間が止まる気配は皆無だった。
本能のまま頭に浮かんだことを喋り続けた。
こんな状態に陥ったら口が止まらなくなるのは、みなさんにも経験があるのではないだろうか。
まさにあるあるの状態だ。
「相手のピッチャーがさぁ……球が切れっ切れでさぁ……評判のいいピッチャーだったんだよね!
・・・」
息子は盛り上げる為に間を開けた。
溜めのテクニックは知っているようだ。
「・・・
打っちまったよ!
しょ、初球は真っ直ぐが多いっていうから初球打ちを狙ったんだ!
まっ、サインも出てたし……この一球にオレのすべてを賭けたぜ!
で、どうなったと思う⁉︎」
打ったという結果を先に喋ってしまったが質問せずにはいられなかった。
息子もその事に気付いたが止められなかった。
感情が先走って我慢出来ない状態に陥ってしまったからだ。
案外、誰にもある事かも知れない。
まさに神のイタズラというしかない、仕方のない症状だ。
「う、打っちまったぜ……」
答えを先に言ってしまったのに答えを言ったので声が後半うわずいてしまった。
だが、めげずに続けた。
「三塁打だせ! 三塁打!
一、二塁の間をスコーンと抜けて行ったよ。
芯に当たった感触は人生イチバンの当たりだったぜ!
そう芯に当たったんだ!」
口角は上がりメラメラと燃え上がった彼の目には、当時の光景が鮮明に映し出されていた。
それは突如として目の前に野球場のグランドが出現し、バッターボックスにはユニフォームを着てバットを構えるあの時の自分の姿が現れた。
妄想した自分の姿がカッコよ過ぎて気分が高揚した。
そして息子は遠く空を見上げて笑顔のまま動かなくなった。
よくする癖だった。
はたから見たら不審者だ。
「満塁で三塁打だ! 三点取ったんだ! 大逆転だ! 一点でも二点でもなく、三点取ったんだぜ、このオレが!」
息子の目はメラメラから、真っ赤に血走る充血状態に可変した。
興奮度MAXだ。
「試合で初めて打ったんだ! 初めて打ったんだよぉ!」
彼の興奮の絶頂期はまだ終わらない。
「向こうのピッチャーも満塁だからなぁ、本気の球ぁ投げたよなぁ。
コッチも本気で打ったからなぁ、目一杯練習したし……あはっ」
照れ笑いしながらも、まだまだこの自慢話を続けるつもりだ。
「練習頑張ったからなぁ……うんうん! オレ凄いなぁ」
彼のまぶたには、あのシーンが様々なカメラアングルで何度も甦って来るのであった。
体がうずき始めた息子はバッティングポーズを取った。
なぜなら目の前のボロアパートが脳内補正で野球場に変換されて見えているのだから。
そして今、切れっ切れのピッチャーの投げたボールが真っ直ぐに来て……
「かっきーん!」
自分にしか見えないボールを、自分にしか見えないバットで打った。
そして飛んで行った自分にしか見えない白球を目で追いかけた。
ついに彼は再現をやっちまった。
だがそのあと息子の顔色が曇り始めた。
空高く遠く見つめていた目を、さらにずっとずっと遠くに再設定して見つめ続けた。
「あのあと、九回裏の相手の攻撃で……」
息子はすべてを悟ったかのような笑みを浮かべた。
「逆転されたのさ、ふっ……」
足下にはなにもないのに石を蹴ったフリをして、さらに続けた。
「あの回からライトの守備に入ったオレの所にボールがバンバン飛んで来てさ。
ボール、弾いちゃてさ……エラーしちゃった。
すぐボール取ったんだよ。
でも投げる時に手からこぼれちゃって……また、すぐ拾って投げたんだぜ、バックホームに。
でも暴投して……二点取られて逆転負けさ、ハハハハ」
散々である。
「いい思い出さ」
そうは思わないが、それで良いのなら良いのだろう。
息子の笑顔はさわやかであった。
「ふーっ」
手を口元にやって吸っていないのにタバコを吸うフリをして、また空を見上げた。
目を細めたが曇りで眩しくない。
ただカッコ付けたかっただけなのかも知れない。
しかし息子の目の焦点は合ってなかった。
彼が見ているのはあの瞬間の、捕手の自分ではなく打者の自分だ。
エラーの事は瞬時に忘れてしまっていた。
都合の良い脳構造の持ち主と言えよう。
「ぶおぅん! ぶおぅん!」
もうなにも臆せず声を出しながら持っていないバットを豪快に何度も振り続けた。(エアバットでシャドーバッティング)
「気持ちいいなぁ」
続けていた素振りが、いつの間にか腰を回す柔軟運動へと変わったのは見逃せない。
それは手ぶらの素振りに限界が来たからだ。
「ぶおぅん……(なにか手に馴染む物があればもっと続けられるのに……太くて硬い棒、そうバットがあれば……三塁打を打った……あのバット……)」
「あのバット……新品の金属バット、良かったなぁ。
あのバットで三塁打を打ったんだよな。
あのバット……いつの間にか、家にあったんだよなぁ。
おやじも妹も知らないって……」
息子は低い知能で少しだけ考えを巡らせた。
ひょっとしたら、あの嬉しさといとおしさとファンタジー(不思議)が入り混じった出来事の真実が今日、暴かれるかも知れないのだ。
「試合前おふくろ、妹と電話してたよな。
野球の試合がある事、知ってたはずだよな」
次に一番そうであって欲しい事を言い出した。
心の声がそのまま口から出た。
「ひょっとして、おふくろが? おふくろが用意してくれたのか?」
きっと、そうに違いない。
確信があった訳ではないが、そうであって欲しいという想いがもう止まらない。
いつの間にか玄関に立て掛けてあった、新品の金属バット。
おやじも妹も誰が購入したか知らない、新品の金属バット。
まさか、サンタさんが……まずないな、新品の金属バット。
消去法でおふくろがくれたのであろう、新品の金属バット。
「おふくろ……ありがとな……」
息子は、それが真実の物語だと脳内補完してしまった。
ちなみに脳内補完とはオタク用語である。
本当はあの頃から心の中でうずまいていた想いであった。
それに、このセリフを言ってみたかったので都合良く補完したのだ。
気持ちがスッキリしたのか、息子はどこからか涼しい風を感じて自分にまた酔い出した。
だがそのあとの記憶が、そのあとの疑惑が湧いて来た。
「試合が終わったあと、その新品の金属バットがなくなったんだよな……」
その頃、家の物がなくなる事が多かった。
決まって留守の時で、一見何事もない感じに整えてあるが、家族しか知り得ない場所に置いてある少し高価な物がなくなっていたりした。
母親が勝手に家に忍び込んで盗んだのでは? と家族で話し合ったものだ。
だから新品の金属バットも母親が?
「いやいや!」
ぶるぶる!
息子は大きく首を振った。
はたから見たら、水浸しの大型犬が身体を『ブワァン、ブワァン』と振っているように見えた。
それぐらい大袈裟でみすぼらしさが彼にはあった。
(なんてヤツだ! 自分の母親を疑るなんて! オレってヤツは……)
息子は自分を恥いた。
本来もっと恥じる事のある人生を過ごしたはずだが……
その時、そろばん塾から帰って来た男子小学生達が自分を見ているのに気付いた。
「目を合わせたら負けだぞ」
ひそひそ……
小学生の話し声に『はっ!』と我に返った。
(もう夕方じゃないか、けっこう時間がたったみたいだ)
大事な仕事を忘れるところだった。
いい加減、借金のカタを付けてもらわないといけない。
時間の余裕がなくなって来たんだから焦らなくてはと自分に言い聞かせた。
例え親子であっても、これだけは守ってもらわないと。
「おい! 聞いてたのか⁉︎」
部屋からの反応が再びない。
「またオレの独り言っつぅのか! また眠ってましたってか!
けっ、ふざけやがって!」
息子は一人盛り上がったところで覚悟を決めた。
途中から母親の反応がなかったのに気付いていたし、以前から会話にならないのは知っていたからドンドン話を進めることにした。
“ドンドン!”
「どうせ、すみっこでちっちゃく固まってんだろ!」
“ドンドン! ドンドン!”
「今日はトコトン付き合ってもらうからな!」
母親はこの間、なにもしなかった訳ではなかった。
行動を起こす準備をしていた。
なぜなら彼女にも時間が差し迫っていたからだ。
まもなく大事なミッションが始まる時間が来るのだ。
服装を整え、筋肉を揉みほぐしながら気合を入れた。
「オーヨッ!」
完全に別人と思えるほどの気合を、彼女は自分に注入したのだ。
さっきまでは自堕落な雰囲気があったが、今の彼女は闘志みなぎる兵士、アマゾネスの如くオーラをたずさえていた。
そして力強い足取りで玄関のドアの前に立った。
行動を始める準備が整った。
部屋から出る準備が。
「オヨー!(ミッションスタート!)」
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