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ひとつ

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“ドンドン! ドン!”

「ババァ! 金返せ!」

「オヨヨ~」

 男の罵声に女性の悲鳴に似た声が応えた。

“ドン!”

 アパートのドアを激しく叩く音と男のダミ声が部屋中に鳴り響く。
 それはアパートの全室、それよりもっと広く辺り一帯のご近所にまで響き渡った。

“ドンドン!”

 また男は激しくドアを叩く。

「ババァ! 居るのは分かってるんだからな!」

 このドアは何度も叩かれたのか、あちこちに凹みや傷、汚れがついて痛々しい。
 アパート自体かなり古い建物でトタンを張り巡らせた屋根や、階段や柱の鉄骨の所々の赤錆びが長い年月を感じさせる年季の入った木造建築だ。
 それは、ここに住んでいる住民も同じようなものなのかも知れない。

“ドンドン!”

「居留守とは、いい度胸じゃねぇか」

 時代はもう少しで平成になろうとしていた昭和後期。

“ドンドンドン!”

 ドアの前に立っている男は落ち着きがなく、かなり焦っているらしいひたいからは汗が滝のように流れ落ちていた。
 風貌はいかにもチンピラ風で前髪を剃り込みと呼ばれるM字に剃り上げたひたいがいさぎよい、いかにもそちら関係(DQN)の人物だとひと目で分かる若造であった。
 男は俗にいう借金取りである。

「ふーっ」

 男はそちら系と分かる背広のポケットをまさぐった。
 ポケットにはタバコの箱が入っており、手を付けようとしたが辞めた。
 人前では吸っていたが実はあまり好きではなかった。
 見た目を意識して吸っていただけだった。
 今は周りに誰もいなくカッコ付ける必要がないので、暇な手はブラブラと揺らして気をまぎわらした。

「あぁぁ~~あっ」

 大きくあくびをした。
 男は緊張していた。
 あくびは緊張をほぐしてくれるとテレビで見たことがあったので、それを意識をしておこなった。
 男の仕事、借金取りとは文字通り貸した金を取り立てに来る人達である。

 当時はサラ金やヤミ金などという金融業が猛威を振るっていた。
 お金を借り易い代わりに金利をめちゃくちゃ高く取る仕組み、それはまさに高利貸しという名前の通りであった。

 そして借りた金を返さない人の所に、この男のようなチンピラ風の人達がやって来るのだ。
 取り立て屋と呼ばれている人達だ。

 彼らのやり方は今で言うストーカーのようなやり方で、追いかけ、問い詰め、脅し、それらを激しくネチネチおこなう、それはそれは怖い怖い人達なのである。
 今と違って警察の取締りや法律が曖昧なので、みなは見て見ぬフリをするのがこの時代だった。

「くそーっ」

 ブラブラ遊ばせていた手でひたいの汗を拭った。
 今日は粘れるだけ粘るつもりでいた。
 返済期限がとっくに過ぎた借金を返してもらわないと、自分が怒鳴られるからである。
 アニキと呼ぶ上司や先輩になにをされるか分からない恐怖が男を焦らせた。
 それになにかしらの返事をもらわないと、他の奴らに担当を変えられてしまう。

 それだけはイヤだった。
 自分の箔が落ちるし、仲間にバカにされるのは我慢出来るはずがない。

 だが、それだけではない……もっと複雑な思いが男にはあった。

「けっ! 本当にいねぇのか?」

 仕方なく帰ろうとした瞬間。

“ガタッ!”

「おい! やっぱ、いるじゃねぇか!」

“ドンドン! ドンドン!”

「開けろや、オラぁ! クソババァ!」

「オヨヨヨ~」

 部屋の奥で息を潜めてひっそりとやり過ごそうとしていたが、痺れを切らして衝動的に動いて音を立ててしまったのだ。
 部屋の奥に潜んでいる女性は五十代前半であったがそれよりも老けて見え、かなり痩せていた。
 長い髪は長いこと美容室に通ってない感じでボサボサだし、服装もまた長いことお世話になった感じでヨレヨレだった。

“ドンドン!”

「ヒィ~!」

“ガッタガタッ!”
 
 またもや女性はなにかに当たって音を立ててしまったようだ。

「とにかくドアを開けんかっつうの!」

「オヨヨヨ」

 この不可解な喋り方は女性の口癖になっていた。
 長い借金生活で引きこもり気味になり、人との会話も減りうまく話せなくなったのだろう。
 このような状態に陥った人は的確な行動も出来なくなっていた。
 それで無駄に音を立ててしまったのだ。
 人は虐げられると心が萎縮して会話や行動のパターンが限定的になるのかも知れない。

「ドアぁ、打ち破るぞ!」

 功を焦った男は我慢出来ずに実力行使の行動に出る宣言をした。
 だが小心者なのか行動する素振りすら出来なかった。
 有言実行が出来ない男は、ひたすら汗をかくだけだ。

「ヒィ!」

 女性は『それだけは堪忍な』と思うが声が出なかった。
 ただ『早くいなくなれ』との思いで、ひたすら祈りのポーズを決め、しまいには体が上下左右に動き始めた。

 ひょろぅりぃ……

 どこかで騙された新興宗教の祈りだろうか、奇妙な動きで踊り始めた。

 ひょろぅりぃ~ひょろり……

“ドンドン! ドンドン!”

「オヨヒッ!」

 結局なにもアイデアが思い付かなく、ただドアを叩く行動を繰り返すだけの男であった。
 でも女性の滑稽な踊りを止めさせる効果はあった。
 しかし今日はこれでは帰れない。

 あせあせ!(なにか持って帰らないとアニキにドヤされるぞ、どうするオレ)
 ふぅ!(やるだけの事はやらなくっちゃ、な)
 ……
 むっ!(ガキはいいよなぁ~)

 時間は午後三時を過ぎ、小学生の集団下校にガンを付けながら見送った男はそのまま視線を上に向けた。
 空を見上げていた……ただ、ぼ~っと見上げていた。
 それは昔からの、いつものただの癖だった。
 奇妙な性癖と言うヤツである。

 雲は流れて行く……我に返った男はふたたび顔の汗を背広の袖で拭き取った。

 ふきふき!(しかし暑いなぁ)
 やれやれ!(空ぁ曇ってんのになぁ)

 暑いのは衣替えが過ぎたが、まだ夏の暑さが残っていたせいだけでもなかった。

“ドンドン! ドン!”

「ババァッ! 金返せ!」

「オヨヨ~」

 ふりだしに戻った。

「くそ!」

 男はドアを叩き続ける。

“ドン!”

「オヨ!」

“ドン! ドン!”

「……!」

“ドドドン! ドドドン! ドドドンドン!”

「オヨ?」

 男は少しリズミカルになった。

“ドドン! ガッ! ドン!”

「オヨヨヨ?」

 男は調子に乗り始めた。

“ドンドンドン! ドンドンドン!”

「オッ!」

“ドンドンドン! ドンドンドン! ドンドンドンドン! ドンドンドン!”

「ヨォーッ!」

「ふざけるな、てめぇ!」

「ヒィオヨッ!」

 ふざけているのはドチラなのかは置いといて、このままではラチがあかない。
 男の連続ドア叩きは分かる人には分かるリズムで叩いたが、音感もリズム感もないイマイチな仕上がりなのが残念な一連の行為であった。

 だが女性はこのリズムがなんなのか理解出来たようだ。
 このリズムに反応して合いの手を入れたのだが、それが男を余計に怒らせる結果となった。

「オヨヨヨ~」

 男は拳に力を入れ、目を閉じ閉じたと思ったらパッと目を開けた。
 なにかを決意したような目の開け方だった。
 男はドアにもたれ掛かって女性だけに聞こえるような小声で話しかけた。

「なあっ……おふくろ……」

「オヨ?」
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