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第一章~王女の秘密~
12 ~アートの事情~
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ネイノーシュの部屋のドアがノックされ、侍女が自身の主人の名を告げる。
今日も来た。昨日も来た。明日も来ると告げて帰るのが、ここ数日のお決まりになっている。
アートは不敬にならない程度に顔を造り、ドアを開け、彼女を迎え入れた。
見ない様に努めても、頭を下げる一瞬、視界の端に捉えた彼女は美しく着飾り、自分の知らない誰かに思えた。
彼女が扉を潜り、ドアを支えるアートに
「ありがとう」
と声をかけた瞬間、アートはゾクリとして体が震えた。ギリリと奥歯を噛みしめる。
一方の彼女は、アートの事など気にも留めない様子で、ネイノーシュの後方に用意されたテーブルに着いた。
アートがお茶と茶菓子を用意しても、彼女がそれに手を付ける事は殆どない。
たとえそれが、丁寧に心を込めて入れられた紅茶であっても、彼女は退室前にほんの少し口付けるだったし、彼女の為に、アートが下町を走り回って用意した菓子であっても、彼女は目もくれずネイノーシュを見つめ続けた。
アートは彼女が庭で倒れて以降、どこかでその時の事を謝罪したいと思っていた。
だが、彼女はアートに謝る機会を与えなかった。
彼女が倒れた翌日、彼女がネイノーシュの部屋を訪れた際、彼女は開口一番
「迷惑をかけたわね、ごめんなさい」
と告げたが、アートが謝罪を口にする前に
「だからこの話はもうおしまいよ、良いわね?」
と話を打ち切ったのだ。
しかし、アートの中で、町で出会ったアイナのイメージが強く、またあの時のように話ができるのではないかと、どうしても希望を捨てられなかったのだ。
とはいえ、身分が上の者に言われては、下の立場の者は何も言えなくなってしまう。それ以来アートは彼女を見つめるだけになっている。
ネイノーシュを見つめる彼女を
ネイノーシュに微笑みかけられ、はにかむ彼女を
ネイノーシュと遠慮がちに、指先を絡め合う彼女を
互いの距離を縮め、愛を語らう二人を
アートは側仕えとして、ただただ見つめるだけだった。
その度に
森の中で手を繋ぎ歩いた時の、アイナの含みのある視線や
子供扱いされたと怒った表情
物珍しく町を眺める屈託のない笑顔や
時計塔を怖がるアイナが見せる強がり
両腕で抱きしめ、自身の胸で感じたアイナの鼓動が、温もりが、
涙を浮かべ、今が一番幸せだと語ったアイナが
鮮やかに蘇り、アートの胸を締め付けた。
苦しくて苦しくて、自分ではどうしようもなくなると、アートは手帳を開きネイノーシュのスケジュールを確認するフリをして、彼女から目を逸らした。
アートの中で、両親と兄に無理を言ってついて来た後悔は、日に日に強くなって行った。
初めはただ一目会いたいという、純粋な気持ちだった。
だがそれも、兄と彼女がいずれ結婚するのだと、まざまざと見せつけられると、次第に薄暗い感情へと変わっていった。
これからもずっと従者として、ひたすら見るだけなのか。アートはいつも自身に問いかけるが、未だ答えは出ない。
アートは答えられない自分を、最低だと罵る。
傍を離れないのは、決して兄を心配してではない。期待しているのだ。兄ではなく自分が選ばれる未来を。
滑稽で、浅ましくて、惨めだ。二人の幸せを思えば、自分はいない方が良いとも考える。
実際、何度も実家には手紙を書いた。しかし、手に力が入り、何度書いても文字が崩れた。その度アートは、こんな汚い字では出せないと、机の引き出しに手紙を仕舞ったのだった。
********************
昼食の時間が近づいても講師は、中々話を止めなかった。おそらくは講師自身の得意分野だったのだろう。彼は今日の中で一番生き生きとしている。
それでも、この場で何が一番大切かをわきまえていた。
アイナの視線に気が付き、彼女が意味ありげに微笑むと、それの意味するところにすぐ気が付いた。
自身の腕時計と部屋の時計を見比べる。
予定の時間はまだ残っている。続けるのが通りであろうが、講師はこれ以上の講義を諦め、にっこり微笑んだ。
「今日はこれまでにしましょう。続きはまた明日ですね」
「ありがとうございました」
講師が広げた資料を片づけているのを横目に、アイナが紅茶のカップを手に取った。
すっかり冷めてしまった物の代わりに、アートが飲むタイミングを見計らい、新しく入れ直した紅茶だ。温度も良い塩梅で、実に香り高い。
今日の紅茶は甘い花の香りがして、とても素敵だとアイナは思った。花はそれだけで心華やぐ。
アイナは花が本当に好きだった。
アイナは目を閉じ、一頻り香りを堪能すると、いつも通り紅茶を一口だけ飲んだ。
甘い香りが口いっぱいに広がり、それから温かい液体が舌の上を転がり、喉の奥へと落ちていく。
その刹那が堪らなく愛おしく、アイナは突如湧き上がる胸の痛みに、わずかに目を眇めた。
今日も来た。昨日も来た。明日も来ると告げて帰るのが、ここ数日のお決まりになっている。
アートは不敬にならない程度に顔を造り、ドアを開け、彼女を迎え入れた。
見ない様に努めても、頭を下げる一瞬、視界の端に捉えた彼女は美しく着飾り、自分の知らない誰かに思えた。
彼女が扉を潜り、ドアを支えるアートに
「ありがとう」
と声をかけた瞬間、アートはゾクリとして体が震えた。ギリリと奥歯を噛みしめる。
一方の彼女は、アートの事など気にも留めない様子で、ネイノーシュの後方に用意されたテーブルに着いた。
アートがお茶と茶菓子を用意しても、彼女がそれに手を付ける事は殆どない。
たとえそれが、丁寧に心を込めて入れられた紅茶であっても、彼女は退室前にほんの少し口付けるだったし、彼女の為に、アートが下町を走り回って用意した菓子であっても、彼女は目もくれずネイノーシュを見つめ続けた。
アートは彼女が庭で倒れて以降、どこかでその時の事を謝罪したいと思っていた。
だが、彼女はアートに謝る機会を与えなかった。
彼女が倒れた翌日、彼女がネイノーシュの部屋を訪れた際、彼女は開口一番
「迷惑をかけたわね、ごめんなさい」
と告げたが、アートが謝罪を口にする前に
「だからこの話はもうおしまいよ、良いわね?」
と話を打ち切ったのだ。
しかし、アートの中で、町で出会ったアイナのイメージが強く、またあの時のように話ができるのではないかと、どうしても希望を捨てられなかったのだ。
とはいえ、身分が上の者に言われては、下の立場の者は何も言えなくなってしまう。それ以来アートは彼女を見つめるだけになっている。
ネイノーシュを見つめる彼女を
ネイノーシュに微笑みかけられ、はにかむ彼女を
ネイノーシュと遠慮がちに、指先を絡め合う彼女を
互いの距離を縮め、愛を語らう二人を
アートは側仕えとして、ただただ見つめるだけだった。
その度に
森の中で手を繋ぎ歩いた時の、アイナの含みのある視線や
子供扱いされたと怒った表情
物珍しく町を眺める屈託のない笑顔や
時計塔を怖がるアイナが見せる強がり
両腕で抱きしめ、自身の胸で感じたアイナの鼓動が、温もりが、
涙を浮かべ、今が一番幸せだと語ったアイナが
鮮やかに蘇り、アートの胸を締め付けた。
苦しくて苦しくて、自分ではどうしようもなくなると、アートは手帳を開きネイノーシュのスケジュールを確認するフリをして、彼女から目を逸らした。
アートの中で、両親と兄に無理を言ってついて来た後悔は、日に日に強くなって行った。
初めはただ一目会いたいという、純粋な気持ちだった。
だがそれも、兄と彼女がいずれ結婚するのだと、まざまざと見せつけられると、次第に薄暗い感情へと変わっていった。
これからもずっと従者として、ひたすら見るだけなのか。アートはいつも自身に問いかけるが、未だ答えは出ない。
アートは答えられない自分を、最低だと罵る。
傍を離れないのは、決して兄を心配してではない。期待しているのだ。兄ではなく自分が選ばれる未来を。
滑稽で、浅ましくて、惨めだ。二人の幸せを思えば、自分はいない方が良いとも考える。
実際、何度も実家には手紙を書いた。しかし、手に力が入り、何度書いても文字が崩れた。その度アートは、こんな汚い字では出せないと、机の引き出しに手紙を仕舞ったのだった。
********************
昼食の時間が近づいても講師は、中々話を止めなかった。おそらくは講師自身の得意分野だったのだろう。彼は今日の中で一番生き生きとしている。
それでも、この場で何が一番大切かをわきまえていた。
アイナの視線に気が付き、彼女が意味ありげに微笑むと、それの意味するところにすぐ気が付いた。
自身の腕時計と部屋の時計を見比べる。
予定の時間はまだ残っている。続けるのが通りであろうが、講師はこれ以上の講義を諦め、にっこり微笑んだ。
「今日はこれまでにしましょう。続きはまた明日ですね」
「ありがとうございました」
講師が広げた資料を片づけているのを横目に、アイナが紅茶のカップを手に取った。
すっかり冷めてしまった物の代わりに、アートが飲むタイミングを見計らい、新しく入れ直した紅茶だ。温度も良い塩梅で、実に香り高い。
今日の紅茶は甘い花の香りがして、とても素敵だとアイナは思った。花はそれだけで心華やぐ。
アイナは花が本当に好きだった。
アイナは目を閉じ、一頻り香りを堪能すると、いつも通り紅茶を一口だけ飲んだ。
甘い香りが口いっぱいに広がり、それから温かい液体が舌の上を転がり、喉の奥へと落ちていく。
その刹那が堪らなく愛おしく、アイナは突如湧き上がる胸の痛みに、わずかに目を眇めた。
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