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夢に咲く花

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 印象深い場面であえてスローで表現する手法がアニメやドラマなどによくある。孝宏は今まさにそんな、奇妙な感覚を味わっていた。
 孝宏の腕を強く握るカダンの手が緩んだ一瞬の事だった。宙に浮く感覚と共に、見知った二つの影がゆっくり遠ざかっていく。


「ひっ」


 孝宏は身を縮こまらせながらも咄嗟に手を伸ばすが虚しく宙を掻く。見渡す限り広がる闇に既視感を覚え、孝宏は息を飲んだ。


(あ……あぁ……これは嫌だ……)


「助けて父さん!」


 どうしてこの場にいないはずの父親に助けを求めたのか、孝宏自身にもよく分かっていない。ただ親離れできていないとかそういう事ではない。
 助けを求めれば必ず答えてくれる強きヒーローが現実にいなくとも、ヒーローとはそういうもので、孝宏にとってそれは父親そのものだったのだ。

 落ちながら孝宏は、現れない父親にジレンマを感じつつ、己の情けなさを嘆き、今度こそ死ぬのだと漠然と考えてた。
 孝宏には見えていなかったが、この時真下の地上に生きている者はなく、巨大蜘蛛でさえもすべて切り刻まれ微動だにしていなかった。

 そんな中ただ一つだけ動く物がある。一見して人程の大きさの、しかし生き物の動きでなく、表面が波打ったかと思えば瞬きをする間に、建物の二階まで、道を塞ぐほどに大きく膨らんだ。
 孝宏はそれの上に落ちた。その何かは地面に叩きつけられるより遙かに優しく孝宏を受け止めただろうが、孝宏は衝突の衝撃で息を詰まらせた。

 その時だった。またもや頭の中に声が響いた。


──まだ決意は変わらないか?──


 決意とは何の事だろう。

 理解するよりも先に全身に鳥肌が立った。目を開くと、朱色の火の粉が舞い散り、まるで赤い花が舞うがごとく夜空を彩る。


(熱い……)


 火の粉がではない、己の体が熱いのだ。体中がドクドクと脈打ち、熱は次第に痛みへと変わる。意識ははっきりとし、視界が広がった。


「はぁはぁはぁはぁはぁはぁ…………」


 湧き上がる高揚感から息が荒がる。孝宏は鼻から思いっきり息を吸い込み、口からゆっくりと吐き出した。拳を握り、己を鼓舞すれは、呼吸も気分もいくらか落ち着いた。


「ダイジョーブ、俺はやればできる。できるできる、大丈夫。俺はできる子。頑張れ俺!」


 孝宏は全身全霊で祈った。


(頼む、魔法がかけられている蜘蛛の巣を焼きたい。町中にあるんだ。蜘蛛の巣だけを…………あと蜘蛛も、焼きたい)


 孝宏が両腕を広げたとたん、全身から炎があふれ出した。炎から蝶が生まれ、ヒラリヒラリと火の粉をまき散らしながら飛び回り、次々と蜘蛛の巣を焼いていく。道の上、壁の中、屋根の上。火の粉が降りかかったとたんに全体へ火が回り、あるいは巨大蜘蛛もろとも蜘蛛の巣が火の中に消えていく。


「スッゲー…………やった……」


 ある程度予想はしていたものの、想像していたより蜘蛛の巣はずっと多かった。それらの蜘蛛の巣が燃え、火が広がっていく様子は圧巻の一言だった。

 色とりどりに飾られた電飾の並木通りやクリスマスツリーにも負けない、溢れんばかりのオレンジ色の光が、儚く散る桜のように刹那の時を謳歌して消えていく。
 暗闇でしかなかった世界が火に照らされて露わになっていく光景を、始めは満足げに眺めていた孝宏だったが、次第にその表情を曇らせていった。
 巨大蜘蛛が降ってくる代わりに、今度は火の粉が舞うのだ。兵士たちは驚き、慌てふためいた。例えば火を消そうとしたり、火の粉をまき散らす蝶をやろうと得物を振り回したり。あるいは火から逃げたり。

 多くの者が混乱していたが、冷静な者もいくらかはいた。
 冷静な者たちは、火が巨大蜘蛛と蜘蛛の巣と思しき物以外に燃え移らないのを早い段階で見抜き、ある者は巨大蜘蛛を押さえ、ある者は仲間を落ち着かせようとしている。
 マリーも一瞬は敵の新手かと身構えたが、道路の向こうで火に包まれる孝宏に気が付き声を張り上げた。


「落ち着けぇぇぇぇぇぇ!!」


 この娘は何を言い出したのか。疑心に満ちた目がマリーに集まる。


「この火は人を焼かない!」


 頭上から降り注ぐ火の粉が、高々と突き上げられたマリーの剣に煽られ舞い上がる。


「神は我らを見捨てない!見ろ!蜘蛛の巣は焼き払われた!最早我らの勝利だ!」


 この機を逃すな。マリーに呼応して兵士たちが雄叫びを上げた。
 無事な者など一人もおらず、皆満身創痍の身でありながらも、ようやく終わりの見えた戦いに力を取り戻したかのようだった。
 そこにカダンが加わるとさらに早かった。巨大蜘蛛は次々と倒され、今度は逃げ惑う巨大蜘蛛を兵士たちが追いかけ捕まえる。完全に立場が入れ替わっていた。

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