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夢に咲く花

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 シャワー室の脇。孝宏はベッドの足元にあるビニールがセットされた籠に、脱いだ服を入れた。
 裸になった自分は、胸以外はいつもの見慣れた姿で、違和感はあるものの幾分かほっとする。

 シャワー室の扉は木でもガラスでもない、固いが軽い素材の中折れドア。
 中に入るとゴム製のマットが敷き詰められた床に、ドアと同じ素材の壁。球体の蛇口が二つと、そこから伸びるホースの先には、シャワーヘッドが取り付けられていた。


「意外なだなぁ」


 カダンたちの家の風呂は、使用する度火を焚いてお湯を沸かしており、孝宏は古臭く感じていた。

 ここではそれが普通かと思っていたが、どうやら違うらしい。
 これは蛇口を捻れば自動的にお湯が出てくる使用になっているし、白を基調としたレイアウトも、孝宏の家とよく似ている。

 魔力があふれるが故に、何かにつけて魔力を必要とるするこの世界において、おそらくは病人の為にだろうが、いちいち魔力を込める必要もない。

 孝宏にとってはこれ以上なく、ありがたかった。

 丸い蛇口を捻り振ってきた水は、すでに温かく心地よい。
 それ以上になんの苦労もなくお湯を浴びれることに感動する。欲を言えばゆっくり湯船に浸かって体を休めたいが、それは贅沢というものだ。

 孝宏は目を閉じて、頭からシャワーを浴びた。
 顔を、次に肩から腕を流し、お湯に倣って手を下へ滑らせていく。掌が肌につくかつかないか際どいタッチで滑らせていくのは、万が一毒針が付いていたとしても触れないようにするためだ。

 見慣れぬ体に照れるものの、たっぷりと時間をかけて十分すぎるほど全身にシャワーを掛けていった。
 長い髪をかき上げ、うなじを丁寧に洗い流した。短い髪しか知らない孝宏にとって、髪が重いと感じたのは初めてだ。熱すぎず冷たすぎず。冬の寒さに疲れ切った身心を
 癒すには心地よいはずのお湯が、柔らかく頭上から降り注ぐのに、何故か刺激となって肌を滑り落ちていく。

 始めの内は体が冷えている為だろうと思っていたが、いつまでたっても刺激がなくならない。それどころか手足の痺れがひどくなっていっている気がする。


「ああ、気持ち悪い」


 目を閉じると揺れているみたいで、よりいっそう気分が悪くなる。一体どうしたというのか。


 ついに孝宏は自力で立っていられなくなり、壁に手を付き床に膝を折った。

 ルイの生死にひどく緊張して、張りつめていた糸が緩んだ、というだけでは説明できない症状が孝宏を襲う。

 手足が震えるのは緊張しているからではなく、足元が覚束ないのも、巨大蜘蛛に襲われたショックからでない。


「ああ、そうだった。俺……俺もアレのせいで………」


 はっきりと思い出した時、忘れていた四肢の痺れと痛みが蘇ってきた。

 脚の痛みは骨の髄まで達し、立っているのもままならない。腹がえぐられる様に痛く苦しい。
 込み上げてくる強烈な吐き気を堪えられず、ドロドロに形をなくした朝食と、それに混じる苦い液体を吐き出した。 

 シャワーに流され湯と一緒に排水溝に流れていく吐瀉物を、かすむ視界の端に捉えながら、次の吐き気に備え膝を床に付き背中を丸める。全身を強張らせ、全て吐き切ってもなお、えづき過呼吸気味に息を吸った。


(俺、このまま死ぬのかな)


 そんな考えが脳裏を過ぎる。

 もしかするとナキイは、あの蜘蛛を知っていたのかもしれない。助かるはずがないと、ルイは毒を浴びたのなら死ぬのだと。
 ならばどうして、薬を提供したのか疑問も残るが、ルイが回復すると思っていなかったのならば、あの驚きようも納得できる。
 結局ルイは回復したが、あの薬はもうない。こうなってしまば助かる方が驚きだ。


「まい……た、はっ、はぁ……笑……なっ……」


 痺れは全身へと広がり、次第に熱を帯びていく肌は、毛穴がチリチリ燃えているかのようだ。
 たまらずシャワーを水へ切り替えるが、気休めにもならなかった。

 まさかそんなはずがない。そう言い聞かせながら肌をさすり、どうにか落ち着かせようとしたのだが、次の瞬間、皮膚から火の粉がパッと吹き出し、撫でる掌を追い広がっていった。


「あっ……あっ……あぁ……」


 孝宏の眼に映る火は幻に過ぎないのだが、幻のはずの火は、慌てて払おうとすればするほど、広がり勢いを増していく。
 記憶の片隅で、肌を焼いた火を模した蝶が舞い、思い出したくない記憶の、熱と痛みが蘇った。

 孝宏には何が現実で、どれが記憶なのか区別がついておらず、皮膚の裏から引き裂かれるような痛みに、声にならない叫び声を上げた。


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