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冬に咲く花

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 十五年という短い人生の中で、今日という日はもっとも意味を持つ日になる……はずだ。

 なかなか訪れない季節を待つよりも、自らの手で追い求め掴み取る方が確実といえる……かもしれない。

 だから行動を起こし、幸福という名の宝玉を手に入れた……と思う。


 そんな俺は薔薇の受験生。

 
「はあ……緊張する」

 孝宏は青ともグレーともとれないシャツを、クローゼットから取り出して独り言ちた。
 お気に入りの一つを白の無地Tシャツの上に羽織り鏡に全身を写した。

 自分では誰に似たのか解らない顔立ち。
 上目、斜め45度、角度を変えて鏡に写すが、欲目に見てもいつもの自分と何も変わらない。

 努力はしても毎日鏡越しに見飽きた顔は、とても男前には見えなかった。
 唯一の救いは身長が平均値に達しているくらいか。

 コチ…コチ…コチ…

 机の上の時計が一定のリズムを刻み、心臓の鼓動と協和する。

 天井に取り付けられた天窓から、薄暗い室内に熱気を帯びた光が降り注ぎ、背中はしっとりと汗をかく。

 孝宏はよく晴れた青空を仰ぎ、これではシャワーを浴びた意味がないと、小さく舌打ちした。

「お出かけ日和にも程がある」

 誰にいうわけではない不満が漏れた。



 きっかけは夏休み前のクラスでの事だった。
 
 夏休みまでもう何日もない状況で、クラス中が浮き足立っていた。
 
 中学三年生の夏といえば受験一色なのは皆承知していたが、しかしそれは夏休みの魔力だろう。

 中学最後の夏をどう過ごそうかと友人同士で話していた。
 
 だが《塾》や《家庭教師》といった単語は飛び交い、嫌でも受験を意識させられた。

「木下さ、塾も家庭教師をないって本当?」

 孝宏が尋ねたのは校内でも一・二位を争う秀才で、学校のアイドルといっても過言ではない相手。
 
 彼女に堂々とアプローチする男はことごとく玉砕し、見ているだけの男も、やはり彼女には見向きもされない。

 堂々とアプローチして玉砕するのも、黙って見ている事もできない身としては、勉強を武器に友人として接する意外方法はなかった。

「うん、別に今も塾に通ってるわけじゃないし、いつも通りに勉強するだけ。図書館に通い詰めの予定」

 木下はやや間をあけて続けた。

「進藤君は塾に通うの?」

「いや、俺も図書館。塾も家庭教師もない受験生は俺だけかと思ったよ」

 冗談めいていうと、木下は嬉しそうに口元を緩めた。

「ならさ、一緒に勉強しようよ。学年一位の秀才が一緒のほうがはかどると思うから」

「それ中間の話だろ?期末は木下が一位だったくせに。でも………………まあ、良いよ」

 素直に喜ぶのは友人の前だとどうしても気恥ずかしかった。
 孝宏は目を細め拗ねてみせ《でも》とややため、内心とは裏腹に渋々承諾するふりをする。

「じゃあ、後で連絡するね」

「あ、あぁー…………」

 木下は俯き加減で、孝宏と目を合わせない。

 そんな彼女に対し、本当はすごく嬉しいとか、楽しみしてるとか言うべきだったか、孝宏は内心焦っていたが、羞恥心が邪魔をして、どうしても口にできなかった。

「……あっ」

 孝宏は顔を上げた木下と目が合った瞬間、全ての懸念が消え失せ、淡い期待が確信に変わった。

 今年の夏は最高の夏になると。



 こうして俺の夏が始まった。





 
 目が合い照れくさそうに微笑む木下を思い出し、孝宏は頬を緩めた、あの時の予感は順調に真実になりつつある。

 灰色の受験生がいるのだから、薔薇色の受験生がいてもいいだろう。

 孝宏はドアの横の壁に設置させた三つの内、一番下のスイッチを切った。

 天窓から降り注ぐスポットライトをブラインドが遮断すると、室内は薄暗くなった。

 色あせた鏡の中の自分に、緊張が少しだけ落ち着いたような気がする。

 ベッドの上に、投げ出したままのカバンを開いた。

 財布、携帯、ウォークマンに充電器。

 一応筆記用具は入っているが、参考書のない鞄を見るのは久しぶりだ。

 財布の中に映画のチケットが二枚入っているのを確認し鞄を閉じた。

 緊張と期待感が入り混じり、実に妙な気分だ。


 部屋から出ると階段の下から父の声がした。

 週末でも大人の付き合いがあるのだとぼやく父だが、今日は違うらしい。
 運動着に大きなバッグ。道場に行く時のお決まりの格好だ。

 元々は孝宏が道場に通っていたが、中学に上がり勉強に打ち込むようになってからは、父親が自分で通いだした。

 孝宏が通っていたのも父親に言われての事で、どうやらメダリストの父親としてインタビューを受けたかったというのが主な理由だ。


 階段の上に息子を見つけ、父が楽しそうに左手を挙げた。

「よう、色男」

「道場に行くんだろ?遅刻すると叱られるよ」

 《色男》にはあえて触れなかった。
 からかいたくて仕方ないのは、表情を見ただけでわかる。

「今日は頑張れよー」

 ニヤニヤ笑う父に、孝宏は嫌味の一つでも返してやろうと思ったが止めた。

 単純に思いつかなかったのと、映画のチケットは父から貰ったものだったのを思い出したからだ。
 いや、貰ったというよりも、奪ったと言うべきか。

 見送りの笑顔も、やや引きつった不自然なものにしかならない。

 完全に閉じる寸前のドアの向こうから、一瞬聞こえてきた笑い声に孝宏は顔をしかめた。

 同性とはいえ、親に恋愛事情を知られるのは小っ恥ずかしいものがある。

 リビングでは母と双子の弟妹が、幼児番組を見てはしゃいでいた。
 出かけてくると声をかけるが、母は右手を軽く振っただけで、弟妹は番組に夢中でこちらを振り向きもしない。

 玄関を出た所で携帯が通知を知らせた。スクリーンには木下の文字。

 早る気持ちを抑えつつ開くとそこには、時間に遅れる旨と何故か孝宏の好きな色を尋ねるもの。

 ひょっとすると、プレゼントでも貰えるのかもしれない。思ったとたん、動悸が早く打ち、耳は熱を持ち頬はだらしなく緩む。


「まずい、すっげー緊張してきた」


 高速で輝く青春が、喜びの歌とともに構築されていく。

 気分と共に足取りも軽くなり、見慣れた我が家がキラめく。

 気分はまるで異世界にでも迷いこんだようだ。

 外の日差しは眩しく、目を細め流れる雲を狭い視界の中で追った。

 頭の中は木下からの文面の意味とか、映画を見終った後はどうしようとか。
 いっそ告白してしまおうとか。
 そんな事でいっぱいだった。


 だから気がつかなかった。


 数歩先に闇が口を開いていた事に。

 それはまるで獲物を待ち構える捕食者だ。



「わああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ………―――」


 あるはずの地面がなく、体が前のめりに倒れた。

 地面に頭を打ち付けるかと身を縮こまらせるがそれも裏切られ、体は吸い込まれる様に落下していった。

 もがいてもあがいても掴めるモノもなく、ただ落下していくだけ。

 お腹が抉られ、押しつぶされる圧迫感が全身を襲う。

 息もできない苦しさで、孝宏は恐怖を味わう余裕もなく意識を手放した。

 
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