どじょう

優木悠

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 三尺の阿弥陀如来の入った桐箱を捧げ持つようにして、佐平次は、康甚の家の廊下を歩いていく。
 裏庭から聞こえてくるかしましい蝉の声にまぎれ、とぎれとぎれに、幾人かの話し声が笑い声とともに奥の座敷から聞こえてくる。
「そやかて、この先の見込みのある腕前をしとるやないか」
 そう言ったのは嵯峨屋であろう、続けて、
「いや、腕はあっても、あいつは……ですから……」
 という菊之介の言葉とともに、どっと笑い声があがった。
 自分の噂話に興じているとすぐにわかった。途端、佐平次は暗澹とした気持ちにおちいった。この四カ月もそれこそ寝食を忘れるほどに打ち込んで、やっと仏像が完成し、思わずはずんでしまいそうになる足どりをおさえるようにしてここまで来たというのに、とつぜん頬を殴られたような気分であった。
 ――なんで菊之介が今ここにいるのか。
 そういう気分の悪さを腹の底にかかえながら、佐平次は障子が開けられたままの部屋の前で頭をさげた。
 嵯峨屋と康甚がいて、部屋の隅にひっそりと、それでも存在を誇示するように胸をそらして菊之介がいた。
「ようやっとできたんやてなあ。先方さんもお待ちかねや、ささ、さっそく見せてもらいましょか」
 嵯峨屋がにたにたとした顔をしながら、佐平次に言った。
 佐平次は、座ってもう一度頭をさげると、桐の箱の蓋をそっとはずした。
 手がふるえた。
 体ぜんたいがふるえた。
 傑作であった。
 それを初めて人に披露する。
 胸が高鳴り、荒くなる息をそっと整える。
 取り出した阿弥陀如来を見て、嵯峨屋が、あっという顔をした。康甚は眉をゆがませたし、菊之介は驚きを隠すように口の端をゆがめた。
 蓮華座の上にに立つ阿弥陀如来は、削いだような尖った顎をして、わずかにほほ笑み、半眼の目で人を蠱惑するような視線を、虚空に向けてただよわせている。腰を心なしひねり、上半身をくねらせ、親指と人差し指を合わせて他の指を伸ばした来迎印を結んだ両手は、右手を胸に、左手を腰に艶めかしく添え、衣文のひだはそよ風に吹かれ揺れているようであった。
 溜め息とも感嘆ともとれるうめきを嵯峨屋があげて、
「これは、なんとも……、生きているような、今にも動き出しそうな。見ようによっては女子のようでもある」喉につまった言葉をやっと吐き出すようにしてつぶやいた。
 そして、静寂が部屋に訪れた。
 矢が射込まれるように無遠慮に部屋へと乱入してくる蝉の声も、もはや誰の耳にも聞こえはせぬ。
「師匠、嵯峨屋さん」
 静かに、しかし静寂を鉈で割るような調子で菊之介が言った。
「これをご覧いただきたいのですが」
 と菊之介が、康甚の返事を待ちもせずに、背の後ろから風呂敷包みを取り出して寄って来ると、佐平次の阿弥陀如来の横に置き、嵯峨屋を見て、
「仕事の合間に、ちょっとずつ彫っておいたものですが」
 と封を解いた。
 あっと今度は佐平次が声をあげた。
 もうひとつ、阿弥陀如来立像が姿をあらわしたのだった。
 それは、どうとも評しようもない、ごくありふれた造仏に見える、どこにでもいそうな阿弥陀如来であった。丸くふくよかな顔、直立した体、ぴんと開かれた両手、流水のような着物のひだ。
 どういうつもりだ、と叫びかけた佐平次は、ぐっと息を飲んでこらえた。
 うむ、と、ひとつうなずき康甚が、
「嵯峨屋はん」菊之介の仏像を指し低い声で言った。「どうぞ、こちらをお持ちください」
 佐平次は康甚を、きっと上目で見た。
 ――ふざけるんじゃあない。そんな阿呆な、そんな阿呆なことがあってたまるか。師が弟子の前途を潰す気か。
 嵯峨屋が、目を丸くして言った。
「な、なんやて、康甚はん。見た所、こちらはごくありふれた阿弥陀さんや。いや、ありふれた言うたら菊之介はんに失礼やな。その辺の阿弥陀さんよりはようできとるで。けど、ごく普通やな」
「そうです」康甚がうなずいた。「それが仏像というものです」
「は、はあ」
「仏像とは連綿と受け継がれてきた伝統と技巧のなかで、彫りあげるものです。そのなかでそれでも隠し切れずに表にでてくる個性が、仏師の腕の良し悪しを決めるのです。菊之介はさすがにそれがわかっている」
 康甚の言葉は、しり上がりに高く大きく、叫ぶようになってきた。そして佐平次の阿弥陀如来を突き刺すように指さし、
「こんなもんは仏像やない。その辺の三流彫り物師の作る好事家向けの土産物や。こんなもんを広橋はんに納めたら、この工房全体の恥になるわっ」
 佐平次の、膝に置いた手が震えた。さっきまでの興奮と高揚の、ある種の心地よさをともなった震えとはまったく違う、怒りと屈辱と敗北感が起こす惨めな震えであった。
 目の端で、菊之介が勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
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