1 / 9
一の一
しおりを挟む
朝照寺の本堂の釈迦如来坐像の前に座って、佐平次はそのふくよかな全身を無心になって眺めていた。視線は水中をたゆたうように、頭から胸へ、両手へ、膝がしらへ、最後は蓮華座へと這い、最後にまた全身をぼんやりと見つめるのだった。
父の最大の功績がこの八尺の釈迦如来の坐像であった。
父はこれといった目立った活躍もせず、仏師として地味で平坦な人生を送った。この仏像制作は、父の最晩年になってやっと舞いこんだ大仕事であった。それも、この集落の出だから彼でいいだろう、というくらいの、実に安直な理由で選ばれたものだった。そういう経緯をわかっていながら、それでも父は嬉嬉としてこの仕事に打ち込んだ。それまで父の請けおってきた仕事といえば、父とは兄弟弟子で佐平次の師である康甚の手伝い仕事か、位牌の文字を彫るくらいなものであった。そんな下請け仕事しかしてこなかった父の一世一代の作品で、遺作がこの釈迦如来であった。
釈迦如来の何の工夫も感じられないありきたりな顔をじっと見つめ、佐平次は父と同じ道を歩もうとしている自分を思った。あの木を削る音だけが響く暗いじめじめとした工房で、背を丸めてこせこせと彫刻刀を動かす父の姿が目に浮かんだ。
――このままでは、俺もああいう人生を送ることになるだろう。
経を唱えに和尚が入ってきたのを機に、佐平次は立ち上がった。すれ違いざまに和尚から、また来るとよい、といつも通りの言葉をかけられ、佐平次はうなずくように頭をさげて本堂を出た。
北へ半刻も歩けば、京の七条高倉にある師匠康甚の仏所に着く。そこで仕事の打ち合わせをする予定になっていた。どんな仕事かは聞いていない。しかしどうせまた康甚の彫刻の下準備である荒彫り仕事であろう。康甚の気が向けば台座くらいは彫らせてくれるかもしれない。
いや、師の手伝いならまだよい。
菊之介の手伝いをさせられるのは、気が進まなかった。菊之介は佐平次の弟弟子で、入門当初のまだ十二、三歳のころからから人に好かれる性格で康甚のお気に入りであったが、最近はめきめきと筍ののびるように京の仏師のなかで頭角をあらわしていた。しかし菊之介と働くのが嫌だからといって仕事をことわれば、工房を追い出されるかもしれない。
康甚は甘さのない師であった。
誰に対しても斟酌せずに厳しい言葉を投げかけるが、とくに佐平次を嫌っているようだった。なぜ嫌われるのかはわからない。康甚の意にさからったこともなく、言われた仕事はきっちりとこなしてきた。うとんじられる理由がまるで思い当たらないのだ。ただ工房で彫刻刀を使っているだけなのに嫌悪の目をむけられる。
重い気持ちをひきずるようにして、佐平次は歩いた。昼前の気だるい温気が田園に漂っていた。ほがらかになく鶯の声もただ耳障りな雑音でしかなく、色彩を競い合うように咲きみだれる路傍の野草たちも目に痛いだけであった。
父の最大の功績がこの八尺の釈迦如来の坐像であった。
父はこれといった目立った活躍もせず、仏師として地味で平坦な人生を送った。この仏像制作は、父の最晩年になってやっと舞いこんだ大仕事であった。それも、この集落の出だから彼でいいだろう、というくらいの、実に安直な理由で選ばれたものだった。そういう経緯をわかっていながら、それでも父は嬉嬉としてこの仕事に打ち込んだ。それまで父の請けおってきた仕事といえば、父とは兄弟弟子で佐平次の師である康甚の手伝い仕事か、位牌の文字を彫るくらいなものであった。そんな下請け仕事しかしてこなかった父の一世一代の作品で、遺作がこの釈迦如来であった。
釈迦如来の何の工夫も感じられないありきたりな顔をじっと見つめ、佐平次は父と同じ道を歩もうとしている自分を思った。あの木を削る音だけが響く暗いじめじめとした工房で、背を丸めてこせこせと彫刻刀を動かす父の姿が目に浮かんだ。
――このままでは、俺もああいう人生を送ることになるだろう。
経を唱えに和尚が入ってきたのを機に、佐平次は立ち上がった。すれ違いざまに和尚から、また来るとよい、といつも通りの言葉をかけられ、佐平次はうなずくように頭をさげて本堂を出た。
北へ半刻も歩けば、京の七条高倉にある師匠康甚の仏所に着く。そこで仕事の打ち合わせをする予定になっていた。どんな仕事かは聞いていない。しかしどうせまた康甚の彫刻の下準備である荒彫り仕事であろう。康甚の気が向けば台座くらいは彫らせてくれるかもしれない。
いや、師の手伝いならまだよい。
菊之介の手伝いをさせられるのは、気が進まなかった。菊之介は佐平次の弟弟子で、入門当初のまだ十二、三歳のころからから人に好かれる性格で康甚のお気に入りであったが、最近はめきめきと筍ののびるように京の仏師のなかで頭角をあらわしていた。しかし菊之介と働くのが嫌だからといって仕事をことわれば、工房を追い出されるかもしれない。
康甚は甘さのない師であった。
誰に対しても斟酌せずに厳しい言葉を投げかけるが、とくに佐平次を嫌っているようだった。なぜ嫌われるのかはわからない。康甚の意にさからったこともなく、言われた仕事はきっちりとこなしてきた。うとんじられる理由がまるで思い当たらないのだ。ただ工房で彫刻刀を使っているだけなのに嫌悪の目をむけられる。
重い気持ちをひきずるようにして、佐平次は歩いた。昼前の気だるい温気が田園に漂っていた。ほがらかになく鶯の声もただ耳障りな雑音でしかなく、色彩を競い合うように咲きみだれる路傍の野草たちも目に痛いだけであった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
雪のしずく
優木悠
歴史・時代
――雪が降る。しんしんと。――
平井新左衛門は、逐電した村人蓮次を追う任務を命じられる。蓮次は幕閣に直訴するための訴状を持っており、それを手に入れなくてはならない。新左衛門は中山道を進み、蓮次を探し出す。が、訴状が手に入らないまま、江戸へと道行きを共にするのであったが……。
狩野岑信 元禄二刀流絵巻
仁獅寺永雪
歴史・時代
狩野岑信は、江戸中期の幕府御用絵師である。竹川町狩野家の次男に生まれながら、特に分家を許された上、父や兄を差し置いて江戸画壇の頂点となる狩野派総上席の地位を与えられた。さらに、狩野派最初の奥絵師ともなった。
特筆すべき代表作もないことから、従来、時の将軍に気に入られて出世しただけの男と見られてきた。
しかし、彼は、主君が将軍になったその年に死んでいるのである。これはどういうことなのか。
彼の特異な点は、「松本友盛」という主君から賜った別名(むしろ本名)があったことだ。この名前で、土圭之間詰め番士という武官職をも務めていた。
舞台は、赤穂事件のあった元禄時代、生類憐れみの令に支配された江戸の町。主人公は、様々な歴史上の事件や人物とも関りながら成長して行く。
これは、絵師と武士、二つの名前と二つの役職を持ち、張り巡らされた陰謀から主君を守り、遂に六代将軍に押し上げた謎の男・狩野岑信の一生を読み解く物語である。
投稿二作目、最後までお楽しみいただければ幸いです。
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし
佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。
貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや……
脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。
齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された——
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
札束艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
生まれついての勝負師。
あるいは、根っからのギャンブラー。
札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。
時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。
そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。
亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。
戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。
マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。
マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。
高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。
科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!
雨よ降れ 備中高松城の戦い
Tempp
歴史・時代
ー浮世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して
1581年、秀吉軍は備中七城のうちの六城を平定し、残すは清水宗治が守る備中高松城だけとなっていた。
備中高松城は雨によって守られ、雨によって滅びた。
全5話。『恒久の月』書籍化記念、発売日まで1日1作短編公開キャンペーン中。5/29の更新。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる