8 / 11
七
しおりを挟む
その夜の宿は、下布田であった。下布田という宿場は、布田五宿という小さな宿場がつらなるなかのひとつで、ここには旅籠が三軒しかない。
庄吉は、病み上がりだし子供の脚ではどうかと思ったが、思った以上に堅強な体をしていて、新左衛門と蓮次の後を平然とついて来たのだった。
ひと晩眠るとさらに体調は快復したようで、庄吉ははやく江戸へと旅立ちたくて、うずうずして落ち着かない。
旅籠土間で草鞋を履いていると商家の隠居ふうの老人が、不意に声をかけてきた。
「ご一緒してかまいませんか」
どこか不自然な、ちょっと芝居がかった言いかたに感じて、新左衛門は訝しむ気持ちが働いたが、それは国を出立する時に公儀隠密などという妄想じみた話を聞かされたせいだと思いなおした。
「うん、べつにかまわんが」
「ありがとうございます。妻とふたり旅もいい加減飽きてきたところでして」
「ああ、わしらもまったく不案内だからの。土地の者がいてくれると助かる」
新左衛門たちは、徳兵衛と名乗った老人と妻とともに行くことにしたのだった。
そうして旅籠をでたときにはもう陽がすっかりのぼっていたが、ひどく底冷えのする日で、重そうな雪雲が空を覆っていて、これは今日じゅうに雪がふりはじめるなと感じながら新左衛門は歩き出した。
徳兵衛は商家の隠居の身の上だということで、妻とともに遊山がてら日野にある在所を訪れ、深川というところまで帰路の途中だそうだ。夫婦が、坊、団子を食べるか、のどはかわいておらぬか、などと庄吉を甘やかすものだから、庄吉自身もすぐになついてしまっていた。
内藤新宿まであと四里ばかり。
ともすれば走りだしそうになる庄吉をしかりながら、無理をしないでゆっくり歩いた。茶屋を見かけるたびに脚を休め、広がる田園を眺めてため息をもらした。もうすぐ江戸とは思えない閑静な景色で美しかった。広大な平野に広がる田畑は山に囲まれた国の田畑とは違う明るさが地表からにじみでているようだった。
「この辺は地味が豊かそうだな。飢饉などは無縁なのだろうな」
役目がら、新左衛門はつい目についた土地を値踏みするように眺めてしてしまうのだった。この土地はどんな野菜を育てるのに適しているだろうか、水はけは良いだろうか、米を育てるのには向いていないが麦か蕎麦なら充分育つだろう――。
「そうでもありません」と答えたのは、徳兵衛であった。「一見ゆたかには見えますが、すべてお天道様しだいで、とれるときはとれるし、とれないときはとれない。毎年毎年豊作が続く土地なぞはありますまい」
そういって、老人は夫人にまとわりつくようにして歩く庄吉の頭をなでた。
「この坊の父御が働きに出たのだって、今年の収穫がいまひとつだったからでしょう」
「のんきなものだ」とつぶやいたのは蓮次であった。新左衛門に向けて言ったのだった。
「のんきなものか」新左衛門は気色ばんで答えた。「わしだって、土地のことや領民のことは絶えず考えている。丸衣川がたびたびあふれることだって、どうにかしたいと頭を悩ませている」
「考えて、悩ませているだけじゃあ、なにも変わりはしねえですよ」蓮次はもう喧嘩腰の物言いになっていた。
「旦那のまえでいうのもはばかられますがね」
とはばかるふうは微塵みせず蓮次は、
「侍なんてみんないっしょだ。いつもは領民を守っているような顔をして、いざとなれば苛烈にとりたてる、手に余れば見捨てる。小作たちは自分たちの食うぶんも年貢に供出するもんだから、不作のたびにに村じゃ誰かが死ぬ。死んでいるのに見て見ぬふりだ。百姓がいなくなれば自分たちの、侍の食い扶持を作るもんがいなくなる。そんなこともわからねえ。考えている悩んでいるなんて言いながら、何にもわかっちゃいない。侍は自分で自分の手足をもいでいるようなもんだ」
新左衛門は返す言葉もなく、むっとして蓮次の言葉を聞いていた。蓮次はさらに続けた。
「この間の出水のときだって、飢え死にが出なかったのは表面だけのことだ。腹の子をおろすかみさんもいたし泣く泣く娘を女郎屋に売った父親もいた。知らないのはあんたら侍だけだ。いや、知っていて知らないふりしてるのかもな」
完全に言い負かされる形で、新左衛門は憤懣を腹にかかえるようにして歩いた。
いくら、俺はお前たちのことをいつも考えて上申書で訴えてもいる、と言ってみたところで、結果がまるでともなっていないでは、蓮次のような百姓たちからすれば不満が膨れ上がるのもいたしかたないところであろう。
ただ、さらに何か言おうとするのへ、
「黙れっ」
とひどく怒鳴った。武士としての権威で押さえつけるように蓮次の口を封じた。
なんでえ、と蓮次はそっぽを向いて唾をはくようにぼやいた。
庄吉は、病み上がりだし子供の脚ではどうかと思ったが、思った以上に堅強な体をしていて、新左衛門と蓮次の後を平然とついて来たのだった。
ひと晩眠るとさらに体調は快復したようで、庄吉ははやく江戸へと旅立ちたくて、うずうずして落ち着かない。
旅籠土間で草鞋を履いていると商家の隠居ふうの老人が、不意に声をかけてきた。
「ご一緒してかまいませんか」
どこか不自然な、ちょっと芝居がかった言いかたに感じて、新左衛門は訝しむ気持ちが働いたが、それは国を出立する時に公儀隠密などという妄想じみた話を聞かされたせいだと思いなおした。
「うん、べつにかまわんが」
「ありがとうございます。妻とふたり旅もいい加減飽きてきたところでして」
「ああ、わしらもまったく不案内だからの。土地の者がいてくれると助かる」
新左衛門たちは、徳兵衛と名乗った老人と妻とともに行くことにしたのだった。
そうして旅籠をでたときにはもう陽がすっかりのぼっていたが、ひどく底冷えのする日で、重そうな雪雲が空を覆っていて、これは今日じゅうに雪がふりはじめるなと感じながら新左衛門は歩き出した。
徳兵衛は商家の隠居の身の上だということで、妻とともに遊山がてら日野にある在所を訪れ、深川というところまで帰路の途中だそうだ。夫婦が、坊、団子を食べるか、のどはかわいておらぬか、などと庄吉を甘やかすものだから、庄吉自身もすぐになついてしまっていた。
内藤新宿まであと四里ばかり。
ともすれば走りだしそうになる庄吉をしかりながら、無理をしないでゆっくり歩いた。茶屋を見かけるたびに脚を休め、広がる田園を眺めてため息をもらした。もうすぐ江戸とは思えない閑静な景色で美しかった。広大な平野に広がる田畑は山に囲まれた国の田畑とは違う明るさが地表からにじみでているようだった。
「この辺は地味が豊かそうだな。飢饉などは無縁なのだろうな」
役目がら、新左衛門はつい目についた土地を値踏みするように眺めてしてしまうのだった。この土地はどんな野菜を育てるのに適しているだろうか、水はけは良いだろうか、米を育てるのには向いていないが麦か蕎麦なら充分育つだろう――。
「そうでもありません」と答えたのは、徳兵衛であった。「一見ゆたかには見えますが、すべてお天道様しだいで、とれるときはとれるし、とれないときはとれない。毎年毎年豊作が続く土地なぞはありますまい」
そういって、老人は夫人にまとわりつくようにして歩く庄吉の頭をなでた。
「この坊の父御が働きに出たのだって、今年の収穫がいまひとつだったからでしょう」
「のんきなものだ」とつぶやいたのは蓮次であった。新左衛門に向けて言ったのだった。
「のんきなものか」新左衛門は気色ばんで答えた。「わしだって、土地のことや領民のことは絶えず考えている。丸衣川がたびたびあふれることだって、どうにかしたいと頭を悩ませている」
「考えて、悩ませているだけじゃあ、なにも変わりはしねえですよ」蓮次はもう喧嘩腰の物言いになっていた。
「旦那のまえでいうのもはばかられますがね」
とはばかるふうは微塵みせず蓮次は、
「侍なんてみんないっしょだ。いつもは領民を守っているような顔をして、いざとなれば苛烈にとりたてる、手に余れば見捨てる。小作たちは自分たちの食うぶんも年貢に供出するもんだから、不作のたびにに村じゃ誰かが死ぬ。死んでいるのに見て見ぬふりだ。百姓がいなくなれば自分たちの、侍の食い扶持を作るもんがいなくなる。そんなこともわからねえ。考えている悩んでいるなんて言いながら、何にもわかっちゃいない。侍は自分で自分の手足をもいでいるようなもんだ」
新左衛門は返す言葉もなく、むっとして蓮次の言葉を聞いていた。蓮次はさらに続けた。
「この間の出水のときだって、飢え死にが出なかったのは表面だけのことだ。腹の子をおろすかみさんもいたし泣く泣く娘を女郎屋に売った父親もいた。知らないのはあんたら侍だけだ。いや、知っていて知らないふりしてるのかもな」
完全に言い負かされる形で、新左衛門は憤懣を腹にかかえるようにして歩いた。
いくら、俺はお前たちのことをいつも考えて上申書で訴えてもいる、と言ってみたところで、結果がまるでともなっていないでは、蓮次のような百姓たちからすれば不満が膨れ上がるのもいたしかたないところであろう。
ただ、さらに何か言おうとするのへ、
「黙れっ」
とひどく怒鳴った。武士としての権威で押さえつけるように蓮次の口を封じた。
なんでえ、と蓮次はそっぽを向いて唾をはくようにぼやいた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
日日晴朗 ―異性装娘お助け日記―
優木悠
歴史・時代
―男装の助け人、江戸を駈ける!―
栗栖小源太が女であることを隠し、兄の消息を追って江戸に出てきたのは慶安二年の暮れのこと。
それから三カ月、助っ人稼業で糊口をしのぎながら兄をさがす小源太であったが、やがて由井正雪一党の陰謀に巻き込まれてゆく。
月の後半のみ、毎日10時頃更新しています。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
AIシミュレーション歴史小説『瑞華夢幻録』- 華麗なる夢幻の系譜 -
静風
歴史・時代
この物語は、ChatGPTで仮想空間Xを形成し、更にパラレルワールドを形成したAIシミュレーション歴史小説です。
【詳細ページ】
https://note.com/mbbs/n/ncb1a722b27fd
基本的にAIと著者との共創ですが、AIの出力を上手く引出そうと工夫しています。
以下は、AIによる「あらすじ」の出力です。
【あらすじ】
この物語は、戦国時代の日本を舞台に、織田信長と彼に仕えた数々の武将たちの壮大な物語を描いています。信長は野望を胸に秘め、天下統一を目指し勇猛果敢に戦い、国を統一するための道を歩んでいきます。
明智光秀や羽柴秀吉、黒田官兵衛など、信長に協力する強力な部下たちとの絆や葛藤、そして敵対する勢力との戦いが繰り広げられます。彼らはそれぞれの個性や戦略を持ち、信長の野望を支えながら自身の野心や信念を追い求めます。
また、物語は細川忠興や小早川隆景、真田昌幸や伊達政宗、徳川家康など、他の武将たちの活躍も描かれます。彼らの命運や人間関係、武勇と政略の交錯が繊細に描かれ、時には血なまぐさい戦いや感動的な友情、家族の絆などが描かれます。
信長の野望の果てには、国を統一するという大きな目標がありますが、その道のりには数々の試練や困難が待ち受けています。戦いの中で織り成される絆や裏切り、政治や外交の駆け引き、そして歴史の流れに乗る個々の運命が交錯しながら、物語は進んでいきます。
瑞華夢幻録は、戦国時代のダイナミックな舞台と、豪華なキャストが織り成すドラマチックな物語であり、武将たちの魂の闘いと成長、そして人間の尊厳と栄光が描かれています。一つの時代の終わりと新たな時代の始まりを背景に、信長と彼を取り巻く人々の情熱と野心、そして絆の物語が紡がれていきます。
大奥~牡丹の綻び~
翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。
大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。
映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。
リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。
時は17代将軍の治世。
公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。
京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。
ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。
祖母の死
鷹司家の断絶
実父の突然の死
嫁姑争い
姉妹間の軋轢
壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。
2023.01.13
修正加筆のため一括非公開
2023.04.20
修正加筆 完成
2023.04.23
推敲完成 再公開
2023.08.09
「小説家になろう」にも投稿開始。

【短編】輿上(よじょう)の敵 ~ 私本 桶狭間 ~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
今川義元の大軍が尾張に迫る中、織田信長の家臣、簗田政綱は、輿(こし)が来るのを待ち構えていた。幕府により、尾張において輿に乗れるは斯波家の斯波義銀。かつて、信長が傀儡の国主として推戴していた男である。義元は、義銀を御輿にして、尾張の支配を目論んでいた。義銀を討ち、義元を止めるよう策す信長。が、義元が落馬し、義銀の輿に乗って進軍。それを知った信長は、義銀ではなく、輿上の敵・義元を討つべく出陣する。
【表紙画像】
English: Kano Soshu (1551-1601)日本語: 狩野元秀(1551〜1601年), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
平隊士の日々
china01
歴史・時代
新選組に本当に居た平隊士、松崎静馬が書いただろうな日記で
事実と思われる内容で平隊士の日常を描いています
また、多くの平隊士も登場します
ただし、局長や副長はほんの少し、井上組長が多いかな
ロクスタ〜ネロの愛した毒使い〜
称好軒梅庵
歴史・時代
ローマ帝国初期の時代。
毒に魅入られたガリア人の少女ロクスタは、時の皇后アグリッピーナに見出され、その息子ネロと出会う。
暴君と呼ばれた皇帝ネロと、稀代の暗殺者である毒使いロクスタの奇妙な関係を描く歴史小説。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる