7 / 11
六
しおりを挟む
まだ夢うつつのなかで新左衛門が、まぶたの裏に染み込んでくるような陽の光に眉をしかめると、同時に誰かのささやくような声が耳の奥に無遠慮に入り込んでくるのだった。
上のまぶたと下のまぶたが必死にしがみついているのを、無理矢理ひらいてみると、行き倒れの子供の、顔の上に覆いかぶさるようにして、蓮次が何かをささやいている。それに対して、子供がぼそぼそと答えを返しているようであった。
「目が覚めたか、坊主」
体を起こしながら新左衛門が訊くと、ふたりが同時にこちらに顔をむけた。
「熱は下がったか」
「うん」
「名前は」
「庄吉」
「この辺の家か」
「うん」
「どうしてあんなところで倒れていたんだ」
矢継ぎばやに訊く新左衛門を、
「だんな」と蓮次がさえぎった。「そう何度も同じことを訊かれたんじゃ、庄吉だってうんざりしますぜ」
新左衛門はあくびをしながら、ああそうか、と思った。すでに蓮次と自己紹介が進んでいたらしい。
「じゃ、話を続けてくれ」
「庄吉」と蓮次が訊いた。「おまえなんであそこで倒れていた」
「おいら」
と庄吉は蚊の鳴くような声で話した。まだ調子がもどっていない様子であった。
「江戸にいる父ちゃんに会いにいくところだったんだ」
「江戸って、ここからじゃ、まだ十二里はあるだろう。おまえひとりでいくつもりだったのか」
「うん」
「どうしてまた」
「父ちゃんは江戸に出稼ぎに行ってる」そうして庄吉はちょっ言いよどんだ。なにか言いにくいことを言うか言うまいか迷っているようでもあった。
「父ちゃんが恋しいんだろうが、子供ひとりじゃちょっと無理ってもんだ」蓮次が諭すように言った。
「そうだな」新左衛門も翻意をうながすように、「家に帰れ。ここから遠くないのだろう、なんだったら、わしらが送っていってもかまわんぞ」
「いやだ」それまでの弱弱しい声音が急に変じて、庄吉は甲高く叫んだ。
「なぜだ」新左衛門はいささか気色ばんだ。子供のわがままにつきあっているゆとりはないのだ。
だが、庄吉はきゅっと唇をひきむすんでいる。口の中から漏れ出る嫌なものを、必死にこらえているふうであった。
「理由を言わぬか。言わねばわしらとて協力はできかねるぞ」
「家には、嫌な女がいる」
「女?」
「のちぞえだ」庄吉は、どこかで大人たちから聞きかじった言葉であろう、ちょっとたどたどしく答えた。
「継母か。それでも母親は母親だ。女などと呼んではいかん」
「あんなの、母親なんかじゃねえ。なにかあるとすぐにおいらをぶつし、目ざわりとか、邪魔だとか、ひでえことばっかいうんだ。だから家出をしてきたんだ。そしたら突然くらくらしてきちゃって」
「なるほど、父ちゃんところに逃げてく途中だったってわけだ」合点がいったようすで、蓮次が腕を組んでしきりにうなずいている。
「いくら母親に折檻されるからといって、勝手に家出をしてよいものじゃない。ちゃんと家に返さねばならん」
「そうはいいますがね、旦那、こいつにとっちゃ、家にいるってだけで針の筵なんですぜ。生きているのもつらい毎日をおくってるんで。かわいそうじゃないですか」
「えらく肩を持つじゃないか、蓮次。確かに見て見ぬふりというわけにはいかん。わしが母御に、もう庄吉を打擲せんように、しっかりと諭してやる」
「俺たちが、父親のところまで連れて行ってやりましょう」
「馬鹿を言え、へたをすると子さらいに間違われかねんぞ」
「旦那、庄吉が不憫だとは思わないんですか、憐憫の情ってもんはないんですか」
蓮次の小難しい言い回しに、あきれるように腕を組んで、新左衛門は頭をひねった。
「江戸の、どこで父御は働いているな」
「木場ってところ」
「きば?蓮次、お前の頼っていく商家の近所か」
「さ、さあ、さっぱりわかりません」
「庄吉はその場所を知っておるのか」
「しらね」
「ふうむ。こっちから江戸に入って近ければいいんだが」
そうして新左衛門はしばらく黙考したあと、ぴしりと膝を打った。
「ま、袖振り合うも多生の縁と言うしな。よし、連れて行ってやろう」
「ははは、良かったな、庄吉」
「うん」
上のまぶたと下のまぶたが必死にしがみついているのを、無理矢理ひらいてみると、行き倒れの子供の、顔の上に覆いかぶさるようにして、蓮次が何かをささやいている。それに対して、子供がぼそぼそと答えを返しているようであった。
「目が覚めたか、坊主」
体を起こしながら新左衛門が訊くと、ふたりが同時にこちらに顔をむけた。
「熱は下がったか」
「うん」
「名前は」
「庄吉」
「この辺の家か」
「うん」
「どうしてあんなところで倒れていたんだ」
矢継ぎばやに訊く新左衛門を、
「だんな」と蓮次がさえぎった。「そう何度も同じことを訊かれたんじゃ、庄吉だってうんざりしますぜ」
新左衛門はあくびをしながら、ああそうか、と思った。すでに蓮次と自己紹介が進んでいたらしい。
「じゃ、話を続けてくれ」
「庄吉」と蓮次が訊いた。「おまえなんであそこで倒れていた」
「おいら」
と庄吉は蚊の鳴くような声で話した。まだ調子がもどっていない様子であった。
「江戸にいる父ちゃんに会いにいくところだったんだ」
「江戸って、ここからじゃ、まだ十二里はあるだろう。おまえひとりでいくつもりだったのか」
「うん」
「どうしてまた」
「父ちゃんは江戸に出稼ぎに行ってる」そうして庄吉はちょっ言いよどんだ。なにか言いにくいことを言うか言うまいか迷っているようでもあった。
「父ちゃんが恋しいんだろうが、子供ひとりじゃちょっと無理ってもんだ」蓮次が諭すように言った。
「そうだな」新左衛門も翻意をうながすように、「家に帰れ。ここから遠くないのだろう、なんだったら、わしらが送っていってもかまわんぞ」
「いやだ」それまでの弱弱しい声音が急に変じて、庄吉は甲高く叫んだ。
「なぜだ」新左衛門はいささか気色ばんだ。子供のわがままにつきあっているゆとりはないのだ。
だが、庄吉はきゅっと唇をひきむすんでいる。口の中から漏れ出る嫌なものを、必死にこらえているふうであった。
「理由を言わぬか。言わねばわしらとて協力はできかねるぞ」
「家には、嫌な女がいる」
「女?」
「のちぞえだ」庄吉は、どこかで大人たちから聞きかじった言葉であろう、ちょっとたどたどしく答えた。
「継母か。それでも母親は母親だ。女などと呼んではいかん」
「あんなの、母親なんかじゃねえ。なにかあるとすぐにおいらをぶつし、目ざわりとか、邪魔だとか、ひでえことばっかいうんだ。だから家出をしてきたんだ。そしたら突然くらくらしてきちゃって」
「なるほど、父ちゃんところに逃げてく途中だったってわけだ」合点がいったようすで、蓮次が腕を組んでしきりにうなずいている。
「いくら母親に折檻されるからといって、勝手に家出をしてよいものじゃない。ちゃんと家に返さねばならん」
「そうはいいますがね、旦那、こいつにとっちゃ、家にいるってだけで針の筵なんですぜ。生きているのもつらい毎日をおくってるんで。かわいそうじゃないですか」
「えらく肩を持つじゃないか、蓮次。確かに見て見ぬふりというわけにはいかん。わしが母御に、もう庄吉を打擲せんように、しっかりと諭してやる」
「俺たちが、父親のところまで連れて行ってやりましょう」
「馬鹿を言え、へたをすると子さらいに間違われかねんぞ」
「旦那、庄吉が不憫だとは思わないんですか、憐憫の情ってもんはないんですか」
蓮次の小難しい言い回しに、あきれるように腕を組んで、新左衛門は頭をひねった。
「江戸の、どこで父御は働いているな」
「木場ってところ」
「きば?蓮次、お前の頼っていく商家の近所か」
「さ、さあ、さっぱりわかりません」
「庄吉はその場所を知っておるのか」
「しらね」
「ふうむ。こっちから江戸に入って近ければいいんだが」
そうして新左衛門はしばらく黙考したあと、ぴしりと膝を打った。
「ま、袖振り合うも多生の縁と言うしな。よし、連れて行ってやろう」
「ははは、良かったな、庄吉」
「うん」
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。


陣借り狙撃やくざ無情譚(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)
牛馬走
歴史・時代
(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)猟師として生きている栄助。ありきたりな日常がいつまでも続くと思っていた。
だが、陣借り無宿というやくざ者たちの出入り――戦に、陣借りする一種の傭兵に従兄弟に誘われる。
その後、栄助は陣借り無宿のひとりとして従兄弟に付き従う。たどりついた宿場で陣借り無宿としての働き、その魔力に栄助は魅入られる。

淡き河、流るるままに
糸冬
歴史・時代
天正八年(一五八〇年)、播磨国三木城において、二年近くに及んだ羽柴秀吉率いる織田勢の厳重な包囲の末、別所家は当主・別所長治の自刃により滅んだ。
その家臣と家族の多くが居場所を失い、他国へと流浪した。
時は流れて慶長五年(一六〇〇年)。
徳川家康が会津の上杉征伐に乗り出す不穏な情勢の中、淡河次郎は、讃岐国坂出にて、小さな寺の食客として逼塞していた。
彼の父は、淡河定範。かつて別所の重臣として、淡河城にて織田の軍勢を雌馬をけしかける奇策で退けて一矢報いた武勇の士である。
肩身の狭い暮らしを余儀なくされている次郎のもとに、「別所長治の遺児」を称する僧形の若者・別所源兵衛が姿を見せる。
福島正則の元に馳せ参じるという源兵衛に説かれ、次郎は武士として世に出る覚悟を固める。
別所家、そして淡河家の再興を賭けた、世に知られざる男たちの物語が動き出す。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる