雪のしずく

優木悠

文字の大きさ
上 下
6 / 11

しおりを挟む
 武蔵の平野は見事なものだ、と新左衛門は思った。
 目を細めて八王子から東を眺めれば、どこまで続くかと思われるほど空がずっと広がっていて、四方を山に囲まれた郷里の、狭隘な土地を思い浮かべてこの景色とくらべると、なにか心の壁すらも取り払われていくような、浮き立つような気分になった。
 そういう気分になるのは江戸という終点がもうすぐ間近に迫っていることもあるのだろう。
 江戸で蓮次がおとなしく商家で働きはじめればよし、幕閣の行列に駆けこむようなら是が非でもとめねばならぬが、ともあれ、旅の終わりは目の前にある。
 陽はだんだんと傾いて空気は冷たかったが、手足がかじかむほどでもなく、新左衛門のはずんだ気持ちをなえさせる要素はまるでなく、高揚した気分のまま、ちょっと後ろを振りかえりながら蓮次に話しかけた。
笹子ささご峠で雪に降られた時はどうなることかと思ったが、この辺りまでくると、まったく雪の気配すらないな」
「あの時は、平井の旦那が大騒ぎしていただけでしょう。俺はこの雪は続かない、降り積もるほどでもない、と最初っから言っていました」
「まあ、たしかにお前の言う通りではあったがな。あ、おい、あそこに見えるのは八王子宿じゃあないのか。ここで無理してもしかたがない、今日は早めに宿をとることにするか」
「旦那におまかせしますよ」
 そうぶっきらぼうに答えた蓮次が、次の瞬間、あっと小さく声をあげると突然駆け始めた。
 おいどうした、と新左衛門も後を追った。
 その先、半町もないだろう、乾いた田と水路が流れる道端の、茶色く干からびた雑草の中に、灰色の小さな塊があった。
 何かと思いながら駆け続けると、子供が横たわっているようである。
 先にたどり着いた蓮次が、その男の子に声をかけながら抱き起こした。ぐったりと力なく蓮次の腕の中で頭を上向け、蓮次が体をゆすると、それにあわせて首がくらくらと振り子のように揺れるのだった。
「おい、しっかりしろ。すごい熱じゃあねえか。どこの子だ、この辺の子か」
 蓮次がいくら声をかけても、その子供はまるで反応する気配がない。
 みたところ歳は七、八歳、近隣の百姓の子だろうか、灰色のつぎはぎだらけの粗末な野良着を着て、ぼさぼさの髪をして、倒れた時にでもついたのだろう、顔は土で汚れていて、目をぎゅっとつむって、苦しそうに肩で息をしている。
「どうする、蓮次」
「どうするって、このままほうっておくわけにはいかんでしょう」
「とにかく、宿をとって介抱してやろう。どこの童か知っている者もいるかもしれんしな」
 蓮次が子供を抱え上げ、ふたりは小走りに走って、八王子宿でやどをとった。
 旅籠のおかみにわけを話し、どこの子供か知らないかたずねたが、まるでわからぬと言う。では、と医者を呼んでくれるように頼んだが、
「みたところ、風邪じゃなさそうですね。子供だから、突然熱が出ることなんてよくありますよ、お客さん。医者を呼ぶほどじゃあないでしょう。ひと晩したらけろっとしてますよ。え、まあそこまでおっしゃるなら呼んで来ますが、適当な熱さましの薬を出されて代金をふっかけられるのが、おちですよ」
 おかみは、そんなことを言いながら、しぶしぶといった態で部屋から出て行った。
 やってきた医者は、けっきょくおかみと同じ診断をして、薬を取りに来るように言って、あっという間に帰って行った。
「あの医者、二朱もふんだくりやがった」
 薬を持って帰って来た蓮次に、新左衛門はぼやいた。
「まあ、親元に届ければ、返してもらえばいいだけの話ですが、このなりじゃあ、どうみても、ぽんと二朱を出せる家柄じゃあなさそうですね」
「この辺りの百姓の童だろうな、おかみの言ったように、遊んだ帰りにでも突然熱がでたのかな」
「そんなとこでしょう」
「ながびかなければいいのだがな」
「今夜は、俺が面倒みますんで、旦那は寝てくれてかまいませんよ」
「ば、馬鹿を言え、それではわしが人でなしみたいではないか。交代で看病してやるよ」
 そう言って蓮次はくすりと笑った。
 まったく新左衛門には期待をしていないと言いたげでもあり、意外と善良な面があるのだなと言いたげでもあった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

AIシミュレーション歴史小説『瑞華夢幻録』- 華麗なる夢幻の系譜 -

静風
歴史・時代
この物語は、ChatGPTで仮想空間Xを形成し、更にパラレルワールドを形成したAIシミュレーション歴史小説です。 【詳細ページ】 https://note.com/mbbs/n/ncb1a722b27fd 基本的にAIと著者との共創ですが、AIの出力を上手く引出そうと工夫しています。 以下は、AIによる「あらすじ」の出力です。 【あらすじ】 この物語は、戦国時代の日本を舞台に、織田信長と彼に仕えた数々の武将たちの壮大な物語を描いています。信長は野望を胸に秘め、天下統一を目指し勇猛果敢に戦い、国を統一するための道を歩んでいきます。 明智光秀や羽柴秀吉、黒田官兵衛など、信長に協力する強力な部下たちとの絆や葛藤、そして敵対する勢力との戦いが繰り広げられます。彼らはそれぞれの個性や戦略を持ち、信長の野望を支えながら自身の野心や信念を追い求めます。 また、物語は細川忠興や小早川隆景、真田昌幸や伊達政宗、徳川家康など、他の武将たちの活躍も描かれます。彼らの命運や人間関係、武勇と政略の交錯が繊細に描かれ、時には血なまぐさい戦いや感動的な友情、家族の絆などが描かれます。 信長の野望の果てには、国を統一するという大きな目標がありますが、その道のりには数々の試練や困難が待ち受けています。戦いの中で織り成される絆や裏切り、政治や外交の駆け引き、そして歴史の流れに乗る個々の運命が交錯しながら、物語は進んでいきます。 瑞華夢幻録は、戦国時代のダイナミックな舞台と、豪華なキャストが織り成すドラマチックな物語であり、武将たちの魂の闘いと成長、そして人間の尊厳と栄光が描かれています。一つの時代の終わりと新たな時代の始まりを背景に、信長と彼を取り巻く人々の情熱と野心、そして絆の物語が紡がれていきます。

大奥~牡丹の綻び~

翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。 大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。 映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。 リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。 時は17代将軍の治世。 公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。 京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。 ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。 祖母の死 鷹司家の断絶 実父の突然の死 嫁姑争い 姉妹間の軋轢 壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。 2023.01.13 修正加筆のため一括非公開 2023.04.20 修正加筆 完成 2023.04.23 推敲完成 再公開 2023.08.09 「小説家になろう」にも投稿開始。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

【短編】輿上(よじょう)の敵 ~ 私本 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 今川義元の大軍が尾張に迫る中、織田信長の家臣、簗田政綱は、輿(こし)が来るのを待ち構えていた。幕府により、尾張において輿に乗れるは斯波家の斯波義銀。かつて、信長が傀儡の国主として推戴していた男である。義元は、義銀を御輿にして、尾張の支配を目論んでいた。義銀を討ち、義元を止めるよう策す信長。が、義元が落馬し、義銀の輿に乗って進軍。それを知った信長は、義銀ではなく、輿上の敵・義元を討つべく出陣する。 【表紙画像】 English: Kano Soshu (1551-1601)日本語: 狩野元秀(1551〜1601年), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

ロクスタ〜ネロの愛した毒使い〜

称好軒梅庵
歴史・時代
ローマ帝国初期の時代。 毒に魅入られたガリア人の少女ロクスタは、時の皇后アグリッピーナに見出され、その息子ネロと出会う。 暴君と呼ばれた皇帝ネロと、稀代の暗殺者である毒使いロクスタの奇妙な関係を描く歴史小説。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...