雪のしずく

優木悠

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 灰色の寒雲につつまれた空のしたに冷たく乾いた田がずっと広がり、五町ほど向こうには丸衣川まるいがわの壁のような堤が東へと伸びていて、その姿は大蛇が横たわっているようであった。
「ようやっと田畑も整え終わりました」松戸まつど村の庄屋善兵衛ぜんべえが眩しそうに目を細めて景色を見ながらつぶやいた。「ともかく、雪が降る前に作業を終えられたのは幸いでしたな」
 かたわらにたつ新左衛門しんざえもんに言ったというよりも、ただひとりごちているようなつぶやきだった。
 新左衛門はどう言葉を返していいのか思いつかず、ただ広漠とした景色を眺めた。稲もなく畦に雑草すらなく、生物の息吹を感じさせぬ景色を渡る風が体に吹きつけた。寂寥が胸を通り過ぎたようだった。
 今年の夏、嵐が藩を襲った。嵐は領内の各地にむごたらしい爪痕をのこしていったが、とくにこの辺りの被害は甚大であった。丸衣川が氾濫してこのあたりの田畑が五町歩にわたって水の下に沈んで、実をつけ始めた稲が泥にうもれた。
「年貢の免除とお救い米のおかげで、飢え死にする者はございませんでしたが」善兵衛は今度は新左衛門に深い皺の寄った顔を向けて言った。「はたして来年、丈夫な稲が実るかどうかはわかりませんな」
 地味がふたたび豊かになり、稲がたわわに実るのには数年かかるかもしれない。そうして田がよみがえった頃にまた水に沈む。この土地ははるかな昔よりずっとその繰り返しを続けていて、その連綿と続く災禍を食い止めるには、河川の改修が絶対に必要であった。この土地に住むものすべての積年の悲願である。
「丸衣川改修の御願いは、いかがあいなりましたか」
 善兵衛のあきらめの混じった声の調子であった。
 丸衣川改修の陳情はもう藩開闢以来百八十年に渡って、村から出され続けていたのだった。だが、藩の重鎮たちはまるで重い腰をあげる気配がない。それには莫大な費用がかかることはもちろんなのだが、丸衣川が流れ込む藩境の高座川たかくらがわの向こうが、尾張徳川家の飛び地であるために、なんだかんだと難癖をつけられて改修計画が頓挫してきた経緯もあった。川の流れが変わって領地の作物に悪影響がでる、というわけである。
「うんまあ、わしも気にはしているのだが」新左衛門はそう歯切れ悪く答えるしかなかった。「何かできることがあればよいのだが」
「お気持ちだけで充分でございますよ、平井ひらい様」
 そう答えた善兵衛の言葉には、べつだん皮肉がまじっていたわけでもなかったが、ただ、三十手前のまだ若輩の、郡方のいち同心に端から何も期待していないことはあきらかであった。
「私たちだけでは、どうにもならんのです」
 善兵衛は、慨嘆するようであった。
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