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その一
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屯所を出ると、空はいちめん薄墨色で、ただでさえ憂鬱な園田又四郎の気分をさらに消沈させた。
一月も終わりに近く、もういいかげん暖かさを感じはじめてもよさそうなものなのに、今日は風が強く、寒さが身体のなかにまでしみこんでくるようだった。
生前の福山半助から、富田屋の住所は四条烏丸を北に行った辺りだときかされていたが、正確な場所はきいていなかった。又四郎の担当の地区ではないので、巡邏で歩いたこともなく、不案内な土地ではあったが、大きな構えの店だというし、その辺りまで行ってから道ゆく人にでもたずねれば、すぐにわかるだろう、と楽観していた。
又四郎と半助、そして今は監察で働いている安井数馬は、同じ藩の出身だった。道場が同門ということもあり、古くから友達づきあいをしていた仲だった。三人いっしょに京に出、三人いっしょに新選組に入隊した。二十歳そこそこの若者が三人、抑圧されたような狭い田舎社会から抜け出し、前途に広がる夢と希望に胸をふくらませ、意気軒昂という言葉を絵に描いたような日々を過ごしていた。
福山半助は、剣術の腕前は月並みだったが、算勘が認められて勘定方に配属されていた。
その福山半助が腹を切らされたのは、十日前のことだった。隊の金を着服したというのが、切腹の理由だった。
又四郎は、
――あの半助が隊の金に手をつけるはずがない、なにかの間違いだ。
と当初はまったく信じていなかった。
だが、監察方が半助を問いただすと、あっさりと自分がやったと認めたという。ひょっとすると、使いこんだ金を返せば赦されると、たかをくくっていたのかもしれない、と又四郎は思った。だが、新選組という組織はそんなに甘くはなかった。隊規違反だということで、切腹になった。
半助が切腹するさいには、又四郎は検分役を命じられ、その場にいた。半助は腹を切る直前まで、ずっと又四郎を見つめていた。なぜ弁護してくれなかったのか、なぜとりなしてくれなかったのか。そんな非難をするような目つきだった。又四郎は、こんな思いをするなら、自分が介錯役を申し出ればよかった、と後悔した。後悔しながらも、半助から目をそむけぬように、必死に見つめ続けた。彼の最期を見とどけるのが友達としての務めのような気がしていた。
半助が腹に刃を立てても、介錯役の隊士は、なかなか刀を振りおろさなかった。上役から事前に命じられていたのか、他の隊士たちへのみせしめのためなのか、あえて苦しませるようなやりかたをしているふうであった。
――やはり、自分が介錯をするべきだった。
又四郎が辛抱しきれずに目をそらしかけた瞬間、刀が振りおろされ、半助の首が地に落ちた。
富田屋の店は、さがすまでもなくみつかり、おとないをつげると番頭と見える男が無愛想に応対した。すぐに客間に通されたものの、そこで四半刻ほどもまたされたあげく、部屋に入ってきた主人の態度は冷淡なものだった。挨拶もせずに席につくと、なにかご用ですか、と面倒そうに云った。心というものを感じさせない云いかただった。
福山半助の実家である富田屋は、藩士の妻や娘らが内職で織った反物を一手に売りさばく商人で、名字帯刀を許されるほどの富商であり、江戸や京、大坂にも出店があるほどの大店であった。この富田屋はいわば京支店で、京の富田屋だから京富という、と半助がかつて云っていたのを、又四郎は覚えている。
又四郎はことのあらましをつげ、ふところから遺髪をとりだすと、京富にさしだすように膝の前においた。京富はそれをさめた目で眺めながら、
「はあ、それで、どないしろとおっしゃるんで」
と、迷惑そうに云った。
「これはあなたの、甥子の遺髪です。できれば、半助の実家に届けていただければ」
「そう云われましてもなあ」
と、京富は顔に困惑の色がにじみ出るのを、隠そうともせずに云った。
「なら、あんたさんが届けたらよろしいですやろ」
「私は、隊から離れられませんので」
「誰かを使いにだしたらよろしいやおまへんか」
それをあなたに、と云いかけて、又四郎は黙った。この男、とぼけているのかなめているのか。そんな又四郎の不快さを無視するように、京富はつづけた。
「まったく、迷惑な話どす。甥が新選組に入ったというんで、隊のほうに、なにくれとつけとどけもしましたし、半助にもずいぶん小遣いをわたしてあったんどす。それがなんですか、島原の女郎なんぞに入れあげてしもうて、あげくのはてに隊の金に手をつけて、しまいには切腹おおせつけられるなんぞ、情けのうて涙もでやしまへんわ。今まで投資した分が無駄になてしまいましたわ。ほんま、大損ですわ。歳とってからの子やからゆうて、親が甘やかしたせいですやろ。末っ子は三文やすい云いますけど、ほんまどすな。いつまでたっても、半人前の半助や」京富は、膝をぴしりと叩き、「ほな、忙しいんで失礼します」
云いたいことを云うだけ云って、さっさと立ち去ってしまった。
――なにをしに来たのか、わからんな……。
京富を出て、又四郎は思った。とりつく島もない、という感じだった。
ずいぶん前から、又四郎が半助に対して、うすうす感じてきた憶測が当たっていたようでもあった。
半助には姉がふたりいて、本家の富田屋にとっては老年にさしかかってから、やっと生まれた男子が半助だった。だが、半助は成長しても商売に興味をしめさなかったので、富田屋の期待は、娘婿のほうに向いてしまったのではないだろうか。
京富は、半助が甘やかされて育った、と云った。だが、実際は甘やかされていたのではなく、放っておかれた、のではなかろうか。
――どうやら、半助は父親に好かれていなかったらしい。
半助の父親が半助の京ゆきに反対しなかったのは、ひょっとすると、半助を遠ざけたかったのではないか、とさえ思えてくる。だからといって半助を一族皆で疎外してよいという法はあるまい。
半助はふだんおとなしい男だったが、時折、貪婪といっていいほどの、向上心を感じることがあった。今おもえばそれは、野心とよべるものだったのかもしれない。が、ことによると、その野心のようなものは、自分をさんざん見くだしてきた身内たちを見返してやりたい、という気概のあらわれだったのではなかろうか。
――それが、なぜ、島原の女に執着してしまったのか。
又四郎は、確かめてみたいと思った。今から島原の女の所へ行き、その女郎がどんな女か、見てやろうと思った。ことによってはその女を問い詰めてやろう、という気にもなってきた。
島木屋という店は、さびれた雰囲気の裏通りにあり、うらぶれた女郎屋といった印象のする陰気な店だった。
暖簾をくぐると、帳場のそばに、女将とみえる婆さんが火鉢をかかえるようにしてすわってい、まずそうな顔をしながら煙草の煙を吐きだしていた。痩せて狐のような顔をしていて、ひと目で、いかにも癖の強い性格だとわかる老婆だった。女将は、キセルを火鉢の隅でこつんとたたいて灰を落とすと、
「旦那、うちは夜からですよ」
と無愛想にいって、キセルを吹いて灰を飛ばした。
「いや、客じゃないんだ」
と又四郎が云うと、女将はあからさまに不快さを面にあらわし、
「今たてこんでいるんですけどね」
と投げ捨てるようにいった。
たてこんでいるわりに煙草をふかしている暇があるとは、たいそうなご身分だな、と閉口しながらも、又四郎は、少し威してやろうという気になって、
「新選組だ。御用の筋だ」
と身体をのけぞらしぎみにして威張ってみたが、
「ああ、おきよのことですか。もう、うんざりなんですけどね」
効果がまったくなかった。新選組だろうと、侍だろうと、しったことではない、となめきっている態度だった。
又四郎はため息が出そうになりながらも、ふところから一朱銀をとりだして女将に握らせてやった。効果はてきめんで、銀を握らせたとたんに女将の相貌がくずれ、
「おきよですね。今、ご案内します。これ、だれか、お茶をおいれして」
などと内所へむかって声をかけ、動きも軽やかに立ち上がり、ささ、こちらです、と先にたって案内をはじめた。
げんきんな婆さんだ、と又四郎は内心苦笑する気持ちで、草履を脱いだ。
おきよという女郎がいる二階の部屋は、窓が北向きなうえに、隣家の壁がすぐ目の前にあるのだろう、差し込む日の光がわずかで風とおしも悪く、陰鬱な感じのする部屋だった。出された茶は出がらしで、又四郎は口をつけてみたが、まったく茶の味がしなかった。
差し向かいにすわっているおきよという女郎は、ふっくらとした頬をした可愛らしい顔立ちの、又四郎と同年くらいの女だったが、どこか陰気な影をただよわせていた。おきよは、口をひらくなり、福山さんのことでしたら、もう隊の人に何度もお話しました、とつっけんどんに云った。
「いや、なにも、あんたを責めようというつもりはないんだ。ただ、半助のここでの様子や、いつもなにを話していたか、そんなことが訊きたいんだ」
又四郎は、すこしでもおきよの心をほぐそうと、自分と半助は同じ藩の出身で友達だったということ、いっしょに京にのぼってきたということなどを話した。
おきよは気だるそうに顔を少し横をむけ、視線を下に落として、又四郎の話を聞いていた。生きるのに疲れきった女、という感じだった。
「あの人は、いい人でした」
しばらくの沈黙の後、おきよは、ゆっくりと、半助との思い出を、ひとつひとつ心に浮かべながら、といった感じで話しはじめた。
「いつも冗談ばかり云って、わたしを笑わせてくれて、どちらが客なんだかわかりませんでした」
おきよは少し、口もとに笑みを浮かべて、話しをつづけた。半助が最初にここへ来た時のことや、半助がした国元の話、新選組での生活や、又四郎や数馬の話もしていたという。
おきよはまぶしいような目つきをして語っていた。その視線のさきには、半助がいるのであろう。
「お郷では秋に、お祭りがあるとか。そのお祭りには、山車がたくさんでて、たくさんの人で賑わうのだとか」
そういえば、去年は祭りにいってないな、と又四郎は思った。京にきてから、日々の忙しさに流されて、祭りの存在そのものが、頭に思い浮かぶことがなかった。
「もう少ししたら出世できる、そうしたら、わたしを身請けしてくれる、なんてことも云ってましたっけ。それで、時世が落ちついたら、お前も郷へ連れていって、祭をみせてやる、なんて。――話半分で訊いてましたけどね。それが、どうして……」
おきよは口をふるわせはじめ、
「隊のお金に手をつけてまで、ここから連れ出して欲しいなんて、わたし、思ってませんでした。あの人が、時々ここへ来て、とるにたらない話をして、それだけでわたしはうれしかったんです」
おきよの声が徐々に泣き声に変わってきた。
「どうして、どうして、あの人……」
そのあとは、もう言葉にならなかった。おきよは嗚咽するだけだった。
又四郎は、腕を組んで相槌をうつこともせず、ただおきよの話を訊いていた。
これは、おきよという女の本心からの言葉に違いない。おきよは半助を、心の底から愛していたのに違いない、と又四郎は思った。
又四郎は、半助の遺髪を取り出すと、そっと、おきよの前においた。
「半助の遺髪だが、いるかね」
おきよは、遺髪を両の手でつつむように持つと、いとしい人に頬ずりをするように、遺髪を頬にあて、
「ええ、ええ」
と涙にむせぶような声で、答えた。
その行為を、奇妙だと感じないほど、又四郎は、この女郎に同情していた。
――金もあり、教養も品性もあると世間から思われている人間が、死んだ男に対して冷淡な態度をとった。それにひきかえ、ろくに教育もうけず、体を売るしか生きるすべをもたない、名もない女郎が、血の通った話しをした。この違いはいったいなんなのか。
島木屋を出て、屯所へ帰る道すがら、又四郎は考えた。
京富とおきよのふたりは両極端な例なのかもしれない。だが、世間からもてはやされる人間に思いやりの心がなく、世間から疎んじられるような人間の心に温かみを感じるのは、どういうこのなのか。地位や名誉や財産を手にいれるためには、人として持っていなくてはならない大切な何かを、すてなくてはいけない、ということなのだろうか。それとも、生来から酷薄な者しか、立身することはできないのだろうか。その反対に、心根の優しい人ほど、幸せとは縁遠い暮らしをおくらなくてはいけないのだろうか。
だとすれば、今の世の中は何かが間違っている、としか、又四郎にはおもえなかった。
――真面目で優しい者ほど幸せにならなくてどうする。
福山半助がそうだった。あの男は、道に迷っている人があれば、行き先までおくりとどけ、石につまづいてころんだ人があれば、手をさしのべる男だった。他人を苛むようなことはせず、他人の幸福や成功を祝福する、篤実な男だった。
――そんな男が、なぜ隊の金に手をつけたのか。
おきよという女を身請けするためだけなら、給金や富田屋からの仕送りを切り詰めていけば、なんとかなったのではなかろうか。なにか、急がなくてはいけない事情でもあったのか。なぜ間違った道を歩いてしまったのか。
どうにも得心のいかない気持ちを心にかかえたまま、又四郎はうつむきかげんで歩いていった。
屯所にもどると、安井数馬が久しぶりに帰っていた。
一月も終わりに近く、もういいかげん暖かさを感じはじめてもよさそうなものなのに、今日は風が強く、寒さが身体のなかにまでしみこんでくるようだった。
生前の福山半助から、富田屋の住所は四条烏丸を北に行った辺りだときかされていたが、正確な場所はきいていなかった。又四郎の担当の地区ではないので、巡邏で歩いたこともなく、不案内な土地ではあったが、大きな構えの店だというし、その辺りまで行ってから道ゆく人にでもたずねれば、すぐにわかるだろう、と楽観していた。
又四郎と半助、そして今は監察で働いている安井数馬は、同じ藩の出身だった。道場が同門ということもあり、古くから友達づきあいをしていた仲だった。三人いっしょに京に出、三人いっしょに新選組に入隊した。二十歳そこそこの若者が三人、抑圧されたような狭い田舎社会から抜け出し、前途に広がる夢と希望に胸をふくらませ、意気軒昂という言葉を絵に描いたような日々を過ごしていた。
福山半助は、剣術の腕前は月並みだったが、算勘が認められて勘定方に配属されていた。
その福山半助が腹を切らされたのは、十日前のことだった。隊の金を着服したというのが、切腹の理由だった。
又四郎は、
――あの半助が隊の金に手をつけるはずがない、なにかの間違いだ。
と当初はまったく信じていなかった。
だが、監察方が半助を問いただすと、あっさりと自分がやったと認めたという。ひょっとすると、使いこんだ金を返せば赦されると、たかをくくっていたのかもしれない、と又四郎は思った。だが、新選組という組織はそんなに甘くはなかった。隊規違反だということで、切腹になった。
半助が切腹するさいには、又四郎は検分役を命じられ、その場にいた。半助は腹を切る直前まで、ずっと又四郎を見つめていた。なぜ弁護してくれなかったのか、なぜとりなしてくれなかったのか。そんな非難をするような目つきだった。又四郎は、こんな思いをするなら、自分が介錯役を申し出ればよかった、と後悔した。後悔しながらも、半助から目をそむけぬように、必死に見つめ続けた。彼の最期を見とどけるのが友達としての務めのような気がしていた。
半助が腹に刃を立てても、介錯役の隊士は、なかなか刀を振りおろさなかった。上役から事前に命じられていたのか、他の隊士たちへのみせしめのためなのか、あえて苦しませるようなやりかたをしているふうであった。
――やはり、自分が介錯をするべきだった。
又四郎が辛抱しきれずに目をそらしかけた瞬間、刀が振りおろされ、半助の首が地に落ちた。
富田屋の店は、さがすまでもなくみつかり、おとないをつげると番頭と見える男が無愛想に応対した。すぐに客間に通されたものの、そこで四半刻ほどもまたされたあげく、部屋に入ってきた主人の態度は冷淡なものだった。挨拶もせずに席につくと、なにかご用ですか、と面倒そうに云った。心というものを感じさせない云いかただった。
福山半助の実家である富田屋は、藩士の妻や娘らが内職で織った反物を一手に売りさばく商人で、名字帯刀を許されるほどの富商であり、江戸や京、大坂にも出店があるほどの大店であった。この富田屋はいわば京支店で、京の富田屋だから京富という、と半助がかつて云っていたのを、又四郎は覚えている。
又四郎はことのあらましをつげ、ふところから遺髪をとりだすと、京富にさしだすように膝の前においた。京富はそれをさめた目で眺めながら、
「はあ、それで、どないしろとおっしゃるんで」
と、迷惑そうに云った。
「これはあなたの、甥子の遺髪です。できれば、半助の実家に届けていただければ」
「そう云われましてもなあ」
と、京富は顔に困惑の色がにじみ出るのを、隠そうともせずに云った。
「なら、あんたさんが届けたらよろしいですやろ」
「私は、隊から離れられませんので」
「誰かを使いにだしたらよろしいやおまへんか」
それをあなたに、と云いかけて、又四郎は黙った。この男、とぼけているのかなめているのか。そんな又四郎の不快さを無視するように、京富はつづけた。
「まったく、迷惑な話どす。甥が新選組に入ったというんで、隊のほうに、なにくれとつけとどけもしましたし、半助にもずいぶん小遣いをわたしてあったんどす。それがなんですか、島原の女郎なんぞに入れあげてしもうて、あげくのはてに隊の金に手をつけて、しまいには切腹おおせつけられるなんぞ、情けのうて涙もでやしまへんわ。今まで投資した分が無駄になてしまいましたわ。ほんま、大損ですわ。歳とってからの子やからゆうて、親が甘やかしたせいですやろ。末っ子は三文やすい云いますけど、ほんまどすな。いつまでたっても、半人前の半助や」京富は、膝をぴしりと叩き、「ほな、忙しいんで失礼します」
云いたいことを云うだけ云って、さっさと立ち去ってしまった。
――なにをしに来たのか、わからんな……。
京富を出て、又四郎は思った。とりつく島もない、という感じだった。
ずいぶん前から、又四郎が半助に対して、うすうす感じてきた憶測が当たっていたようでもあった。
半助には姉がふたりいて、本家の富田屋にとっては老年にさしかかってから、やっと生まれた男子が半助だった。だが、半助は成長しても商売に興味をしめさなかったので、富田屋の期待は、娘婿のほうに向いてしまったのではないだろうか。
京富は、半助が甘やかされて育った、と云った。だが、実際は甘やかされていたのではなく、放っておかれた、のではなかろうか。
――どうやら、半助は父親に好かれていなかったらしい。
半助の父親が半助の京ゆきに反対しなかったのは、ひょっとすると、半助を遠ざけたかったのではないか、とさえ思えてくる。だからといって半助を一族皆で疎外してよいという法はあるまい。
半助はふだんおとなしい男だったが、時折、貪婪といっていいほどの、向上心を感じることがあった。今おもえばそれは、野心とよべるものだったのかもしれない。が、ことによると、その野心のようなものは、自分をさんざん見くだしてきた身内たちを見返してやりたい、という気概のあらわれだったのではなかろうか。
――それが、なぜ、島原の女に執着してしまったのか。
又四郎は、確かめてみたいと思った。今から島原の女の所へ行き、その女郎がどんな女か、見てやろうと思った。ことによってはその女を問い詰めてやろう、という気にもなってきた。
島木屋という店は、さびれた雰囲気の裏通りにあり、うらぶれた女郎屋といった印象のする陰気な店だった。
暖簾をくぐると、帳場のそばに、女将とみえる婆さんが火鉢をかかえるようにしてすわってい、まずそうな顔をしながら煙草の煙を吐きだしていた。痩せて狐のような顔をしていて、ひと目で、いかにも癖の強い性格だとわかる老婆だった。女将は、キセルを火鉢の隅でこつんとたたいて灰を落とすと、
「旦那、うちは夜からですよ」
と無愛想にいって、キセルを吹いて灰を飛ばした。
「いや、客じゃないんだ」
と又四郎が云うと、女将はあからさまに不快さを面にあらわし、
「今たてこんでいるんですけどね」
と投げ捨てるようにいった。
たてこんでいるわりに煙草をふかしている暇があるとは、たいそうなご身分だな、と閉口しながらも、又四郎は、少し威してやろうという気になって、
「新選組だ。御用の筋だ」
と身体をのけぞらしぎみにして威張ってみたが、
「ああ、おきよのことですか。もう、うんざりなんですけどね」
効果がまったくなかった。新選組だろうと、侍だろうと、しったことではない、となめきっている態度だった。
又四郎はため息が出そうになりながらも、ふところから一朱銀をとりだして女将に握らせてやった。効果はてきめんで、銀を握らせたとたんに女将の相貌がくずれ、
「おきよですね。今、ご案内します。これ、だれか、お茶をおいれして」
などと内所へむかって声をかけ、動きも軽やかに立ち上がり、ささ、こちらです、と先にたって案内をはじめた。
げんきんな婆さんだ、と又四郎は内心苦笑する気持ちで、草履を脱いだ。
おきよという女郎がいる二階の部屋は、窓が北向きなうえに、隣家の壁がすぐ目の前にあるのだろう、差し込む日の光がわずかで風とおしも悪く、陰鬱な感じのする部屋だった。出された茶は出がらしで、又四郎は口をつけてみたが、まったく茶の味がしなかった。
差し向かいにすわっているおきよという女郎は、ふっくらとした頬をした可愛らしい顔立ちの、又四郎と同年くらいの女だったが、どこか陰気な影をただよわせていた。おきよは、口をひらくなり、福山さんのことでしたら、もう隊の人に何度もお話しました、とつっけんどんに云った。
「いや、なにも、あんたを責めようというつもりはないんだ。ただ、半助のここでの様子や、いつもなにを話していたか、そんなことが訊きたいんだ」
又四郎は、すこしでもおきよの心をほぐそうと、自分と半助は同じ藩の出身で友達だったということ、いっしょに京にのぼってきたということなどを話した。
おきよは気だるそうに顔を少し横をむけ、視線を下に落として、又四郎の話を聞いていた。生きるのに疲れきった女、という感じだった。
「あの人は、いい人でした」
しばらくの沈黙の後、おきよは、ゆっくりと、半助との思い出を、ひとつひとつ心に浮かべながら、といった感じで話しはじめた。
「いつも冗談ばかり云って、わたしを笑わせてくれて、どちらが客なんだかわかりませんでした」
おきよは少し、口もとに笑みを浮かべて、話しをつづけた。半助が最初にここへ来た時のことや、半助がした国元の話、新選組での生活や、又四郎や数馬の話もしていたという。
おきよはまぶしいような目つきをして語っていた。その視線のさきには、半助がいるのであろう。
「お郷では秋に、お祭りがあるとか。そのお祭りには、山車がたくさんでて、たくさんの人で賑わうのだとか」
そういえば、去年は祭りにいってないな、と又四郎は思った。京にきてから、日々の忙しさに流されて、祭りの存在そのものが、頭に思い浮かぶことがなかった。
「もう少ししたら出世できる、そうしたら、わたしを身請けしてくれる、なんてことも云ってましたっけ。それで、時世が落ちついたら、お前も郷へ連れていって、祭をみせてやる、なんて。――話半分で訊いてましたけどね。それが、どうして……」
おきよは口をふるわせはじめ、
「隊のお金に手をつけてまで、ここから連れ出して欲しいなんて、わたし、思ってませんでした。あの人が、時々ここへ来て、とるにたらない話をして、それだけでわたしはうれしかったんです」
おきよの声が徐々に泣き声に変わってきた。
「どうして、どうして、あの人……」
そのあとは、もう言葉にならなかった。おきよは嗚咽するだけだった。
又四郎は、腕を組んで相槌をうつこともせず、ただおきよの話を訊いていた。
これは、おきよという女の本心からの言葉に違いない。おきよは半助を、心の底から愛していたのに違いない、と又四郎は思った。
又四郎は、半助の遺髪を取り出すと、そっと、おきよの前においた。
「半助の遺髪だが、いるかね」
おきよは、遺髪を両の手でつつむように持つと、いとしい人に頬ずりをするように、遺髪を頬にあて、
「ええ、ええ」
と涙にむせぶような声で、答えた。
その行為を、奇妙だと感じないほど、又四郎は、この女郎に同情していた。
――金もあり、教養も品性もあると世間から思われている人間が、死んだ男に対して冷淡な態度をとった。それにひきかえ、ろくに教育もうけず、体を売るしか生きるすべをもたない、名もない女郎が、血の通った話しをした。この違いはいったいなんなのか。
島木屋を出て、屯所へ帰る道すがら、又四郎は考えた。
京富とおきよのふたりは両極端な例なのかもしれない。だが、世間からもてはやされる人間に思いやりの心がなく、世間から疎んじられるような人間の心に温かみを感じるのは、どういうこのなのか。地位や名誉や財産を手にいれるためには、人として持っていなくてはならない大切な何かを、すてなくてはいけない、ということなのだろうか。それとも、生来から酷薄な者しか、立身することはできないのだろうか。その反対に、心根の優しい人ほど、幸せとは縁遠い暮らしをおくらなくてはいけないのだろうか。
だとすれば、今の世の中は何かが間違っている、としか、又四郎にはおもえなかった。
――真面目で優しい者ほど幸せにならなくてどうする。
福山半助がそうだった。あの男は、道に迷っている人があれば、行き先までおくりとどけ、石につまづいてころんだ人があれば、手をさしのべる男だった。他人を苛むようなことはせず、他人の幸福や成功を祝福する、篤実な男だった。
――そんな男が、なぜ隊の金に手をつけたのか。
おきよという女を身請けするためだけなら、給金や富田屋からの仕送りを切り詰めていけば、なんとかなったのではなかろうか。なにか、急がなくてはいけない事情でもあったのか。なぜ間違った道を歩いてしまったのか。
どうにも得心のいかない気持ちを心にかかえたまま、又四郎はうつむきかげんで歩いていった。
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