湖水のかなた

優木悠

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第六章 湖のほとり

六の十

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 必殺に思えた一撃をかわされてしまった。
 信十郎は、焦った。その急激に湧き起こった焦りを必死に抑え込もうと、心の内で自分に云い聞かせた。
 ――動揺してはいけない。心を強く持つのだ。想念が強ければ、きっと天に届くはずだ。気魄は身体に力をあたえ勝利をつかめるはずだ。
 とにかく攻撃をし続けなくては、と信十郎は刀を突きだした。
 どこを狙うでもなく無暗に突きだされた剣を、平助はなんなくよけた。
 信十郎は平助が攻撃に移るより早く動かなければとさらに焦った。突きだした刀をもどして、すぐにまた突いた。平助は今度は横にはじいた。
 弾かれた信十郎の剣が、下に落ちた。――ように平助には見えた。
 だが、信十郎は膝が地につくほど腰を落として、刀も地面すれすれまで下げ、そこから身体をのばしつつ、斬り上げた。
 明葉念流の、滝登りという秘剣だった。
 だが、平助は、刀の動きを予期していたように、後ろに飛んだ。
 信十郎は追って、斬り下げる。
 平助は受けとめようと額の前に刀を横たえる。
 信十郎は刀の軌道を円を描くように変化させ、平助の受け太刀をかわして、逆袈裟に斬り上げた。
 これは、煙月という秘剣だった。
 平助は、その下段からの攻撃を、上からはたくようにしてとめ、そして、さっと三歩ほどさがって間合いをとった。
「なんだこれは」
 平助はかすかにつぶやいた。それは驚愕したつぶやきではなく、なかばあきれたようなつぶやきだった。
 さきほどから信十郎の動きに遅延が見られはじめた。動作の拍子がわずかに遅くなっているのだった。ゆえに、平助にとっては初めて見る剣技なのに、瞬時に見切って対処できるのだった。
 信十郎は考えながら動いていた。
 それではどうしても、ほんのわずかに動きが遅くなる。無心で反応する平助にことごとく技をかわされるのはそのせいだった。
 ――これはだめだ。
 単発の技ではかなわない、と信十郎は考えた。とにかく連続で攻めつづけなくてはいけない。そうして、なんとか秘剣はやかぜにもっていこう、くりかえし仕掛ければ、きっと平助であってもはやかぜの術中におちいるだろう。
 信十郎はさっと刀を振り上げると、振りおろす。平助にかわされる。斬り上げる。かわされる。突く。はじかれる。
 信十郎の剣は、だんだん闇雲になってきた。彼の思惑とはうらはらに、感情はもう心理の制御をはなれて暴走していた。自暴自棄になったように、めったやたらに刀を振りまわしているみたいなものだった。
 ――何をしている。もうよせ。あきらめろ。
 平助はまるで腰のはいっていない、軽い攻撃を受けたりいなしたりしつつ、心のなかで、なかば懇願するように思ったのだった。
 ――もう剣をとめろ。
 信十郎は平助のそんな思いをよそに、刀を振りつづける。
 その視界の端に、お結が見えた。
 お結は手を合わせて祈っている。
 ――お結。俺のために祈ってくれているのか。祈ってくれ。俺の勝利を祈ってくれ。
 信十郎の気がそれた一瞬を、平助は見逃さなかった。
 振りおろして伸びた信十郎の左の二の腕にするどく打ち込んできた。後ろに飛んでかわした。だがかわしきれず、切先が袖を斬り裂いた。血がにじみだした。
 すかさず平助が刀を振り上げ、空気を斬って振りおろす。
 信十郎は後ろに跳躍してかわして、勢いのまま、十歩ほども後ろへさがった。肩で息をしていた。右の肩と左腕の傷が痛みはじめた。
 ――もう後がない。これ以上時間をかけて戦っていては、血が流れ続けて死んでしまう。早く手当てをしなくてはいけない。早く決着をつけなくてはいけない。
 信十郎は決意をかためた。
 ――次の一撃で終わりにする。
 上気した自分を落ちつかせるように、おおきく息をすった。
 いったん、頭上にあげた刀を、右肩に引き寄せるように構えた。
 そして、腹の底から叫んだ。
 叫びつつ、走りだした。
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