湖水のかなた

優木悠

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第六章 湖のほとり

六の六

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 庫裡の雨戸が、そっと開けられる気配がして、川井信十郎とお結の寝ている座敷がうっすらと、陽の光で明るみをおびた。
 雨戸をはずしているのは、寺の住職であろうか。
 信十郎とお結の眠りをさまたげないように配慮して、部屋の前の雨戸は立てたままにしてくれ、静かに足音が遠ざかっていくのだった。
 光の具合からはかると、もう明け六ツに近いようだった。
 ――ちょっと寝過ごしたかな。
 信十郎は思ったが、本当は一睡もせずに夜を過ごした。
 ひと晩じゅう、過去の、新選組に入ってから脱走するまでの一年半あまりの出来事が、いろいろと浮かんでは消えていった。
 それらの記憶はひどく断片的であったり、急に過去にもどったり、最近の記憶に飛んだり、一度思い起こしたことをまた何度も思い起したりしながら、とめどもなく頭の中で心象がまたたきつづけたのだった。
 信十郎は、身体を横に向けた。
 お結はこちらを向いて眠っていた。無垢で、ただあどけなく、なんの不安もなく信十郎を信じて眠っている。ささやかな寝息をたてて、夢のなかにいる。その息はどこか甘く、まるで母の乳の香りみたいだと思った――記憶にあるわけではなかったが。
 信十郎はふとそうしたくなって、彼女の頬に手をのばすと、人差し指でその赤い頬をつついた。そこは柔らかくって弾力があって、ただずっと触れていたくなるような、魅惑的な感触をしていた。お結がわずかにうなって、なにかものを噛むように、口をくちゃくちゃと動かした。信十郎はあわてて、指を引っ込めた。
 あの時、季恵に云われるまで思いもよらなかった。
 お結はじきに女になる。あと十年もすれば肉体的にも、社会的にみても充分な大人の女になる。
 その時信十郎はお結を自分の娘としてみていられるだろうか。
 愛してしまうのではなかろうか。
 この先、この娘を親として育てるのではなく、自分の理想とする女にするべく育てるのではないだろうか。
 信十郎は怖かった。お結を愛するのが怖かった。
 ――俺はこの子を育てる資格があるのだろうか。
 この数日間はただ懸命に彼女の小さな手をつかみ、ひっぱってきた。ただこの子の幸せを願い、歩んできた。
 このまま国にもどればなにが待っているのだろう。すんなりと帰参が許される保証はどこにもない。新選組から藩に通達が届いていれば、面子めんつもあるだろうから、切腹させられるという疑念もなくはない。が、その時はまた逃げればいい。江戸にでも出て巷間に隠れ潜んで暮らし、お結との生活に明け暮れすればいい。
 ――俺は清彦をやっつけた。
 だがそれはなんのためだ。倫理の欠けた男からお結を守るためだったはずだ。はたして真実そうなのだろうか。本当は彼からお結を奪うために、まるで野生のけものが伴侶を得るために恋敵を歯牙にかけるのとおなじで、ただ本能から、お結が欲しかったから排除しただけではないのか。
 お結と将来に結婚するというのも、場合によってはそういう幸せもあるだろう。だがそこにお結の意思は介在しているのか。まだ善悪の判断も曖昧な子供を、自分の妻にするために教育するなどという行為は、お結の人格を無視した身勝手な、自己満足に過ぎないのではないだろうか。
 しかもそれで、理想とする女性に成長しなかったら、
 ――俺はお結を捨ててしまうのだろうか。
 お結が別の男に恋をしたら、その男をどうしてしまうのだろうか。
 信十郎は指を動かして、お結の唇に指先で触れた。それはうっすらとしめっていて、指先が吸いついて離れなくなるような感触がした。その時、なにかわからないものが心の片隅から、突如として湧いてでてきた。それは黒くてもやのようで、まったく正体のあやふやな不気味な感情だった。
 ――俺にお結を幸せにできる資質があるのだろうか。ないかもしれない。だが、俺の想いは、けっして、この子をを手放そうとはしないだろう、けっして……。
 信十郎の思いはそこに行き着いたのだった。そしてさらにちょっとの間、もの思いにふけった。
 そうして、なにかをふっと思い出したように、おもむろに身体を起こした。
 顔をお結にむけて、やさしく云った。
「お結、もう起きなさい。朝だよ」
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