55 / 62
第六章 湖のほとり
六の六
しおりを挟む
庫裡の雨戸が、そっと開けられる気配がして、川井信十郎とお結の寝ている座敷がうっすらと、陽の光で明るみをおびた。
雨戸をはずしているのは、寺の住職であろうか。
信十郎とお結の眠りをさまたげないように配慮して、部屋の前の雨戸は立てたままにしてくれ、静かに足音が遠ざかっていくのだった。
光の具合からはかると、もう明け六ツに近いようだった。
――ちょっと寝過ごしたかな。
信十郎は思ったが、本当は一睡もせずに夜を過ごした。
ひと晩じゅう、過去の、新選組に入ってから脱走するまでの一年半あまりの出来事が、いろいろと浮かんでは消えていった。
それらの記憶はひどく断片的であったり、急に過去にもどったり、最近の記憶に飛んだり、一度思い起こしたことをまた何度も思い起したりしながら、とめどもなく頭の中で心象がまたたきつづけたのだった。
信十郎は、身体を横に向けた。
お結はこちらを向いて眠っていた。無垢で、ただあどけなく、なんの不安もなく信十郎を信じて眠っている。ささやかな寝息をたてて、夢のなかにいる。その息はどこか甘く、まるで母の乳の香りみたいだと思った――記憶にあるわけではなかったが。
信十郎はふとそうしたくなって、彼女の頬に手をのばすと、人差し指でその赤い頬をつついた。そこは柔らかくって弾力があって、ただずっと触れていたくなるような、魅惑的な感触をしていた。お結がわずかにうなって、なにかものを噛むように、口をくちゃくちゃと動かした。信十郎はあわてて、指を引っ込めた。
あの時、季恵に云われるまで思いもよらなかった。
お結はじきに女になる。あと十年もすれば肉体的にも、社会的にみても充分な大人の女になる。
その時信十郎はお結を自分の娘としてみていられるだろうか。
愛してしまうのではなかろうか。
この先、この娘を親として育てるのではなく、自分の理想とする女にするべく育てるのではないだろうか。
信十郎は怖かった。お結を愛するのが怖かった。
――俺はこの子を育てる資格があるのだろうか。
この数日間はただ懸命に彼女の小さな手をつかみ、ひっぱってきた。ただこの子の幸せを願い、歩んできた。
このまま国にもどればなにが待っているのだろう。すんなりと帰参が許される保証はどこにもない。新選組から藩に通達が届いていれば、面子もあるだろうから、切腹させられるという疑念もなくはない。が、その時はまた逃げればいい。江戸にでも出て巷間に隠れ潜んで暮らし、お結との生活に明け暮れすればいい。
――俺は清彦をやっつけた。
だがそれはなんのためだ。倫理の欠けた男からお結を守るためだったはずだ。はたして真実そうなのだろうか。本当は彼からお結を奪うために、まるで野生の獣が伴侶を得るために恋敵を歯牙にかけるのとおなじで、ただ本能から、お結が欲しかったから排除しただけではないのか。
お結と将来に結婚するというのも、場合によってはそういう幸せもあるだろう。だがそこにお結の意思は介在しているのか。まだ善悪の判断も曖昧な子供を、自分の妻にするために教育するなどという行為は、お結の人格を無視した身勝手な、自己満足に過ぎないのではないだろうか。
しかもそれで、理想とする女性に成長しなかったら、
――俺はお結を捨ててしまうのだろうか。
お結が別の男に恋をしたら、その男をどうしてしまうのだろうか。
信十郎は指を動かして、お結の唇に指先で触れた。それはうっすらとしめっていて、指先が吸いついて離れなくなるような感触がした。その時、なにかわからないものが心の片隅から、突如として湧いてでてきた。それは黒くて靄のようで、まったく正体のあやふやな不気味な感情だった。
――俺にお結を幸せにできる資質があるのだろうか。ないかもしれない。だが、俺の想いは、けっして、この子をを手放そうとはしないだろう、けっして……。
信十郎の思いはそこに行き着いたのだった。そしてさらにちょっとの間、もの思いにふけった。
そうして、なにかをふっと思い出したように、おもむろに身体を起こした。
顔をお結にむけて、やさしく云った。
「お結、もう起きなさい。朝だよ」
雨戸をはずしているのは、寺の住職であろうか。
信十郎とお結の眠りをさまたげないように配慮して、部屋の前の雨戸は立てたままにしてくれ、静かに足音が遠ざかっていくのだった。
光の具合からはかると、もう明け六ツに近いようだった。
――ちょっと寝過ごしたかな。
信十郎は思ったが、本当は一睡もせずに夜を過ごした。
ひと晩じゅう、過去の、新選組に入ってから脱走するまでの一年半あまりの出来事が、いろいろと浮かんでは消えていった。
それらの記憶はひどく断片的であったり、急に過去にもどったり、最近の記憶に飛んだり、一度思い起こしたことをまた何度も思い起したりしながら、とめどもなく頭の中で心象がまたたきつづけたのだった。
信十郎は、身体を横に向けた。
お結はこちらを向いて眠っていた。無垢で、ただあどけなく、なんの不安もなく信十郎を信じて眠っている。ささやかな寝息をたてて、夢のなかにいる。その息はどこか甘く、まるで母の乳の香りみたいだと思った――記憶にあるわけではなかったが。
信十郎はふとそうしたくなって、彼女の頬に手をのばすと、人差し指でその赤い頬をつついた。そこは柔らかくって弾力があって、ただずっと触れていたくなるような、魅惑的な感触をしていた。お結がわずかにうなって、なにかものを噛むように、口をくちゃくちゃと動かした。信十郎はあわてて、指を引っ込めた。
あの時、季恵に云われるまで思いもよらなかった。
お結はじきに女になる。あと十年もすれば肉体的にも、社会的にみても充分な大人の女になる。
その時信十郎はお結を自分の娘としてみていられるだろうか。
愛してしまうのではなかろうか。
この先、この娘を親として育てるのではなく、自分の理想とする女にするべく育てるのではないだろうか。
信十郎は怖かった。お結を愛するのが怖かった。
――俺はこの子を育てる資格があるのだろうか。
この数日間はただ懸命に彼女の小さな手をつかみ、ひっぱってきた。ただこの子の幸せを願い、歩んできた。
このまま国にもどればなにが待っているのだろう。すんなりと帰参が許される保証はどこにもない。新選組から藩に通達が届いていれば、面子もあるだろうから、切腹させられるという疑念もなくはない。が、その時はまた逃げればいい。江戸にでも出て巷間に隠れ潜んで暮らし、お結との生活に明け暮れすればいい。
――俺は清彦をやっつけた。
だがそれはなんのためだ。倫理の欠けた男からお結を守るためだったはずだ。はたして真実そうなのだろうか。本当は彼からお結を奪うために、まるで野生の獣が伴侶を得るために恋敵を歯牙にかけるのとおなじで、ただ本能から、お結が欲しかったから排除しただけではないのか。
お結と将来に結婚するというのも、場合によってはそういう幸せもあるだろう。だがそこにお結の意思は介在しているのか。まだ善悪の判断も曖昧な子供を、自分の妻にするために教育するなどという行為は、お結の人格を無視した身勝手な、自己満足に過ぎないのではないだろうか。
しかもそれで、理想とする女性に成長しなかったら、
――俺はお結を捨ててしまうのだろうか。
お結が別の男に恋をしたら、その男をどうしてしまうのだろうか。
信十郎は指を動かして、お結の唇に指先で触れた。それはうっすらとしめっていて、指先が吸いついて離れなくなるような感触がした。その時、なにかわからないものが心の片隅から、突如として湧いてでてきた。それは黒くて靄のようで、まったく正体のあやふやな不気味な感情だった。
――俺にお結を幸せにできる資質があるのだろうか。ないかもしれない。だが、俺の想いは、けっして、この子をを手放そうとはしないだろう、けっして……。
信十郎の思いはそこに行き着いたのだった。そしてさらにちょっとの間、もの思いにふけった。
そうして、なにかをふっと思い出したように、おもむろに身体を起こした。
顔をお結にむけて、やさしく云った。
「お結、もう起きなさい。朝だよ」
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
夕映え~武田勝頼の妻~
橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。
甲斐の国、天目山。
織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。
そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。
武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。
コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
散華の庭
ももちよろづ
歴史・時代
慶応四年、戊辰戦争の最中。
新選組 一番組長・沖田総司は、
患った肺病の療養の為、千駄ヶ谷の植木屋に身を寄せる。
戦線 復帰を望む沖田だが、
刻一刻と迫る死期が、彼の心に、暗い影を落とす。
その頃、副長・土方歳三は、
宇都宮で、新政府軍と戦っていた――。

風を翔る
ypaaaaaaa
歴史・時代
彼の大戦争から80年近くが経ち、ミニオタであった高萩蒼(たかはぎ あおい)はある戦闘機について興味本位で調べることになる。二式艦上戦闘機、またの名を風翔。調べていく過程で、当時の凄惨な戦争についても知り高萩は現状を深く考えていくことになる。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる