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第六章 湖のほとり
六の一
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川井信十郎とお結は、念のため北国路は通らず、琵琶湖沿いの道を北に歩いてきた。
長浜から二里ほど歩いて、田畑に囲まれた小さな集落に入ったところで泊らせてくれる家を探すことにした。もう一里ほど歩いてもよかったが、お結の身体を心配して、はやめに休むことにしたのだった。
百姓家では三軒ほどあたってことわられ、どうしたものかと不安にかられつつ、たまたま通りかかった寺に思いきって宿を請うた。愛想の悪い住職だったが、だからといって、嫌な顔をするでもなく、あっさりと泊めてくれるという。
門のうちは、さほど広くはないが、手入れのいきとどいた境内と、小ぢんまりとした本堂があり、北側にある庫裡もきれいに手入れされていた。
その庫裡の一室にふたりは通された。
日暮れまでにはまだ一刻ほどもあるし、手持ち無沙汰になってきた信十郎は、住職に庭の掃除でもしますよ、と云うと、じゃあお願いします、と泊めてやるのだからあたりまえだ、くらいの態度で竹箒をわたされたのだった。
掃除をするといっても、落ち葉が積もる季節でもなく、信十郎はただ庭の表面を箒でなでているだけみたいなものだった。
お結は、本堂の段に腰かけて、季恵が荷物に入れておいてくれたお手玉を使っていた。彼女は掃除を手伝おうとしたが、信十郎が病みあがりでまだ本調子じゃないから、と無理にすわらせたのだった。
本堂からは読経が聞こえてくるし、屋根からは烏の鳴き声がしきりに響いてきて、なんとなしに、哀切を感じさせるような夕暮れだった。
信十郎は本堂と庫裡のあいだに、数本だけはえていた雑草をみつけて、しゃがみこんで抜いていた。
そのとき、まるで散歩の途中のような、気軽な雰囲気で門をくぐった侍の青年が、そのまま境内を横ぎってきた。
「やあ、お結」
その青年、藤堂平助は、親戚の娘と話しをするように、ごく自然にお結に声をかけるのだった。
「信十郎おじちゃんはどこにいるかな」
お結は、お手玉を投げあげたところで、驚いて手をとめてしまって、お手玉がくしゃりと音をたてて、段に落ちた。
お結は、ちょっとの間、平助を見た。
平助は、
――やはり、何を考えているかわからない娘だ。
そんなふうに思っていた。
しばらくの沈黙が続き、烏が何度か鳴いたころ、もういちど平助が口をひらきかけた瞬間だった。
「おじちゃんは、いません」
お結がきっぱりと云った。
平助はちょっと驚いた。長浜の桟橋で、平助の前に立ちふさがるような態度をしたことがあったし、信十郎の陰で、いつもおどおどとしているような気の弱い娘にみえて、意外と芯の強い性格なのかもしれないという気がした。
「なに、心配はいらないよ」平助は子供をあやすように、やさしく云った。「おじちゃんとちょっと話をするだけだ」
信十郎は、本堂の陰で、なにか空気が変わったような感じがした。そんな異変めいたものを感じて、本堂の角からのぞくと、平助が立って、お結と話をしているようすだった。
なんのためらいもなく、脚を進めた。来るべき時が来た、という気がしたのだった。
「お結、さがっていなさい」
信十郎はふたりに近づいて云ったが、お結は、そこを動くでもなく、なりゆきを見守るように、じっとふたりをみていた。
「なんだ、寺男になったのか」
平助が首だけ向けて、信十郎のもつ箒を見、苦笑しながら皮肉を云った。
信十郎もただ苦笑で答えた。
平助が、信十郎に身体を向けた。
「明日の明け六ツ、ここから西に行った琵琶湖の畔で待ってる」
信十郎は返事はしなかった。ただ、こくりとうなずいた。
平助もこくりとうなずいた。
平助は振り向き、お結に、じゃあね、とほほ笑みながら声をかけて、何気ない感じで境内を出ていくのだった。
その後ろ姿を見送ったお結が、信十郎に顔を向けた。
お結のその不安げな顔に、信十郎は何も言わず、ただ静かに笑いかけたのだのだった。
長浜から二里ほど歩いて、田畑に囲まれた小さな集落に入ったところで泊らせてくれる家を探すことにした。もう一里ほど歩いてもよかったが、お結の身体を心配して、はやめに休むことにしたのだった。
百姓家では三軒ほどあたってことわられ、どうしたものかと不安にかられつつ、たまたま通りかかった寺に思いきって宿を請うた。愛想の悪い住職だったが、だからといって、嫌な顔をするでもなく、あっさりと泊めてくれるという。
門のうちは、さほど広くはないが、手入れのいきとどいた境内と、小ぢんまりとした本堂があり、北側にある庫裡もきれいに手入れされていた。
その庫裡の一室にふたりは通された。
日暮れまでにはまだ一刻ほどもあるし、手持ち無沙汰になってきた信十郎は、住職に庭の掃除でもしますよ、と云うと、じゃあお願いします、と泊めてやるのだからあたりまえだ、くらいの態度で竹箒をわたされたのだった。
掃除をするといっても、落ち葉が積もる季節でもなく、信十郎はただ庭の表面を箒でなでているだけみたいなものだった。
お結は、本堂の段に腰かけて、季恵が荷物に入れておいてくれたお手玉を使っていた。彼女は掃除を手伝おうとしたが、信十郎が病みあがりでまだ本調子じゃないから、と無理にすわらせたのだった。
本堂からは読経が聞こえてくるし、屋根からは烏の鳴き声がしきりに響いてきて、なんとなしに、哀切を感じさせるような夕暮れだった。
信十郎は本堂と庫裡のあいだに、数本だけはえていた雑草をみつけて、しゃがみこんで抜いていた。
そのとき、まるで散歩の途中のような、気軽な雰囲気で門をくぐった侍の青年が、そのまま境内を横ぎってきた。
「やあ、お結」
その青年、藤堂平助は、親戚の娘と話しをするように、ごく自然にお結に声をかけるのだった。
「信十郎おじちゃんはどこにいるかな」
お結は、お手玉を投げあげたところで、驚いて手をとめてしまって、お手玉がくしゃりと音をたてて、段に落ちた。
お結は、ちょっとの間、平助を見た。
平助は、
――やはり、何を考えているかわからない娘だ。
そんなふうに思っていた。
しばらくの沈黙が続き、烏が何度か鳴いたころ、もういちど平助が口をひらきかけた瞬間だった。
「おじちゃんは、いません」
お結がきっぱりと云った。
平助はちょっと驚いた。長浜の桟橋で、平助の前に立ちふさがるような態度をしたことがあったし、信十郎の陰で、いつもおどおどとしているような気の弱い娘にみえて、意外と芯の強い性格なのかもしれないという気がした。
「なに、心配はいらないよ」平助は子供をあやすように、やさしく云った。「おじちゃんとちょっと話をするだけだ」
信十郎は、本堂の陰で、なにか空気が変わったような感じがした。そんな異変めいたものを感じて、本堂の角からのぞくと、平助が立って、お結と話をしているようすだった。
なんのためらいもなく、脚を進めた。来るべき時が来た、という気がしたのだった。
「お結、さがっていなさい」
信十郎はふたりに近づいて云ったが、お結は、そこを動くでもなく、なりゆきを見守るように、じっとふたりをみていた。
「なんだ、寺男になったのか」
平助が首だけ向けて、信十郎のもつ箒を見、苦笑しながら皮肉を云った。
信十郎もただ苦笑で答えた。
平助が、信十郎に身体を向けた。
「明日の明け六ツ、ここから西に行った琵琶湖の畔で待ってる」
信十郎は返事はしなかった。ただ、こくりとうなずいた。
平助もこくりとうなずいた。
平助は振り向き、お結に、じゃあね、とほほ笑みながら声をかけて、何気ない感じで境内を出ていくのだった。
その後ろ姿を見送ったお結が、信十郎に顔を向けた。
お結のその不安げな顔に、信十郎は何も言わず、ただ静かに笑いかけたのだのだった。
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