湖水のかなた

優木悠

文字の大きさ
上 下
37 / 62
第五章 長浜の女

五の一

しおりを挟む
 川井信十郎は、背中にお結をおぶったまま、行こうか戻ろうか、思案にくれていた。街道を数歩先に進んでは、ふと立ちどまって、また数歩もどる、そんなことを、もう何度も繰り返していたのだった。
 長浜に渡ってから旅籠で一泊し、翌早朝に宿をって、昼も近くなったころ、突然お結が熱を出して、倒れてしまった。
 長浜の町からはもう二里ほども離れてしまっているし、かといって、このあたりの村では、充分な治療のできそうな医者はいなさそうであった。
 この病が風邪だったら、熱が出る前に寒気がするとか頭が痛いとか、なにかしらの兆候があったはずで、こんなに急に熱が出て倒れてしまうなど、なにか重篤な病に違いなかった。
 お結の息はあらく、さっきから、はあはあと吐く熱い息が信十郎の頬に触れて、彼女の苦しみが伝わってくるようだった。
 やがて、信十郎は意を決した。
 ここでぐずぐずと迷っていても、病状は悪化していくだけだ。やはり、ちゃんとした医者がいるであろう、長浜へもどるべきだ。
 決断すると、すぐに今来た道を、足ばやに戻りはじめた。

 長浜に入って、道行く人に、この辺りに医者はいないか尋ねたが、皆旅人か、近在の者たちで、この町の医者のことなど、誰も知りはしなかった。
 信十郎は、途方にくれた。
 そして、いっそのこと旅籠まで戻ろうと、思いをかためた。
 宿には、すでに藤次たちの手が回っている可能性もあったが、旅籠だったら、医者を呼んでもらえるに違いない。迷ってはいられない。
 そう考え、また歩きだした、その時――、
「ちょいと、旦那」
 後ろから、女に声をかけられた。
 ふりかえると、三十がらみの、後家とみえる女がひとり、信十郎に息がかかりそうなほど間近に立っていた。
 頭を島田くずしに結って、昔の春信の美人画のような細い身体に、雪輪柄の深草色の小袖、紺縞の帯を巻いて、黒い羽織を着ているところは、ちょっとした芸者かなにか商売女に見える婀娜あだな年増といった感じだが、ずいぶんめいっぱい若作りをしているような印象でもあった。
 彼女は、ちょっとつりあがった濃い眉の下の大きな目をぱちくりしながらじっと見つめてきて、
「おや、お嬢ちゃん、病気かい」
 ずいぶん、はすっぱな喋りかたをする女だった。女は、そっとお結の額に手をふれて、
「熱があるね。咳は。ない。熱だけ。いつから。昼ごろ。へえ」
 そんなことを早口に訊くのであった。
「すまんが、この辺に医者はいないか」
 と信十郎は訊いた。
 とたん、女は、ぷっと笑いだすのだった。
 信十郎は、憤慨した。こちらは、大切な娘が熱をだして息も絶え絶えだというのに、笑うとはなにごとか。
「みたところ、旅を続けているようだね。もうずいぶん長いんだろう。きっと、疲れがでたんだね」
 女はまったく気軽な調子で喋るのだった。
「子供は、さっきまで元気に走りまわっていたと思ったら、急に熱がでて倒れたりするからね。しらないと、びっくりもするだろうね」
 そう云って、にっこり微笑むのだった。
「旦那、いつも奥さんに娘の面倒を押しつけてばっかりじゃなかったのかい」
 云いながら、信十郎とお結の顔をみくらべて、なにか納得したようすで、ああ、とうなずくのだった。
「ま、心配することは、ないよ。こんなんで医者に診せたら、効きもしない熱さましを出されて、法外な金をふんだくられるだけだよ、いい鴨だよ」
「そんな、他人の子だと思って知ったふうなことを」
 信十郎が怒りをおさえきれずに怒鳴るのに、まったく取り合わずに、女は続けた。
「旅籠に泊って、ひと晩ゆっくりするんだね、明日の朝にはけろりとしてるよ」
 云って、女はくるりときびすをかえすのだった。
 信十郎は、また迷いのなかに落ちた。
 この女の云うとおりにすべきだろうか。この女の云うことが本当だとしても、念のため医者に連れて行ったほうがいいのではなかろうか。
 女は、数歩あるいて、またくるりと振り返った。
「旦那、ひょっとして、わけありかい」
 信十郎は、どう返答していいかわからず、黙って彼女をみつめただけだった。
 女は、苦笑するように顔をちょっとそむけ、すぐに信十郎を見返すと、
「いいよ、うちへおいでよ。旦那とその子のふたりくらい、泊れる部屋はあるからね」
 こっちこっち、などと友達を呼ぶように手招きして、家へ向かって歩きだすのだった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

夕映え~武田勝頼の妻~

橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。 甲斐の国、天目山。 織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。 そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。 武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。 コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

けもの

夢人
歴史・時代
この時代子供が間引きされるのは当たり前だ。捨てる場所から拾ってくるものもいる。この子らはけものとして育てられる。けものが脱皮して忍者となる。さあけものの人生が始まる。

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

蘭癖高家

八島唯
歴史・時代
 一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。  遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。  時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。  大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを―― ※挿絵はAI作成です。

桜の花弁が散る頃に

ユーリ(佐伯瑠璃)
歴史・時代
 少女は市村鉄之助という少年と入れ替わり、土方歳三の小姓として新選組に侵入した。国を離れ兄とも別れ、自分の力だけで疾走したいと望んだから。  次第に少女は副長である土方に惹かれていく。 (私がその背中を守りたい。貴方の唯一になりたい。もしも貴方が死を選ぶなら、私も連れて行ってください……)  京都から箱館までを駆け抜ける時代小説。信じた正義のために人を斬り、誠の旗の下に散華する仲間たち。果たして少女に土方の命は守れるのか。 ※史実に沿いながら物語は進みますが、捏造だらけでございます。 ※小説家になろうにも投稿しております。

大奥~牡丹の綻び~

翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。 大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。 映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。 リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。 時は17代将軍の治世。 公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。 京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。 ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。 祖母の死 鷹司家の断絶 実父の突然の死 嫁姑争い 姉妹間の軋轢 壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。 2023.01.13 修正加筆のため一括非公開 2023.04.20 修正加筆 完成 2023.04.23 推敲完成 再公開 2023.08.09 「小説家になろう」にも投稿開始。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

処理中です...