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第四章 湖上にて
四の六
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「かわいいお嬢さんですな」
平助は、しばらくしてから信十郎に声をかけた。
「おいくつですか」
「やっつです」信十郎はぶっきらぼうに答える。
「あなたの娘ですか」
「いえ、よんどころない事情で一緒に旅をしています」
平助はふところから紙包みを取り出すと、口をひらいてお結に向けてさしだした。
「ひとつどうだい」
袋のなかからは、煎餅が頭をのぞかせていた。
お結はどうしていいかわからないように、信十郎を見た。
「いただきなさい」
と信十郎がいうと、うんとうなずいて、袋から一枚とりだし、にっと感情のこもっていない奇妙な笑顔を平助にむけてうかべるのだった。
それをみて、平助は一瞬眉をひそめたが、すぐになにも見なかったようにほほ笑んで、
「あなたもどうですか」
と信十郎に袋をさしだした。
「いえ、私はけっこう」
「そうですか、毒など入っていませんよ」
いたずらっぽく笑って、平助は自分で煎餅を食べだした。
食べながら、このお結という少女は、と考えはじめた。
さっきの奇妙な笑いかたといい、信十郎との会話の受け答えなどといい、同じ年ごろの子供にくらべて少し知能の成長が遅れているような雰囲気があるようだったし、言葉のひとつひとつにもなんだか心がこもっていないようだった。鱒川屋という旅籠では、ずいぶん虐待を受けていたようだし、おそらく今まで、ろくな教育を受けさせてもらっていないことが原因なのだろう。
やがて、長浜の町がみえ、船着き場に船は静かにとまった。
もう、陽の光はほのかに黄色を帯びていて、湖の水面をきらきらと黄金色に彩っていた。
乗客たちはすぐに船をおり、続いて、藤堂平助が桟橋に降りたち、後ろの信十郎たちを意識するようなそぶりもみせずに、岸へと歩いていく。
信十郎とお結も、船をおりて、桟橋を歩いた。
前を行く平助がふいに立ちどまって、くるりと振り向いた。
信十郎は立ちどまった。
なにかを察したのだろう、お結が、信十郎の前にきて、たちふさがるようにした。
平助が、含み笑いをした。
「心配するな。こんなところで、お前の大切なおじちゃんを斬ったりはしない」
そういって、優しくお結をみつめるのだった。
「お結、さがっていなさい」
信十郎が後ろから、彼女の肩を抱くようにして、桟橋のふちへとよせる。
「川井」
と平助はもう、敬称をつけて呼んだりはしなかった。
「あとひとりだ」
信十郎は言葉の意味がつかめず、眉をひそめて、彼をみつめた。
「あとひとり、轟弥兵衛が残っている。あいつをお前が倒せたら、その時、また戦おう」
放つように云って、お結にか信十郎にか、手を振るようにして振り返り、長浜の町へと去っていった。
湖岸で船の船頭たちがたむろして、よもやま話に興じているのへ、通りすがりに、
「川崎屋という旅籠は知っているか」
と信十郎にも聞こえるような、大声で尋ねていた。
平助は、湊の端で、道を確かめるような雰囲気で、ちょっと立ちどまった。
彼の心にあるのは、不安だった。
なにに対する不安なのか、彼自身にもわからないまま、胸のなかで想念が流れていくのだった。
――轟は、強い。
平助は屯所の道場で何度か立ち会ったが、結果は勝ったり負けたり、ほぼ互角だった。
ただ、ひょっとすると、轟は上役の平助に気をつかって、わざと負けてくれていた可能性もある。
平助は、背筋に寒気を覚えた。
あの、二刀流の、片腕だけの木剣に、平助の両手で持って防御した木剣がはじき飛ばされた時の腕の感覚が、まざまざと脳裏によみがえった。
信十郎が轟に勝てるかどうか、まったく予想できない。
むしろ、負ける可能性のほうが大きいだろう。
――それまで、その小娘との、甘い道中を堪能しているといい。
平助は、ちょっと首をまわして、信十郎たちをみた。
きっと、平助を警戒して、身体をかためてこちらを凝視しているに違いない、と思いきや、信十郎はかがんで、お結の草鞋の紐を結びなおしていた。
平助はあきれたようにひとつ溜め息をつくと、また歩きはじめるのだった。
「さあ、これで大丈夫」
草鞋の紐を結びなおしてやって、信十郎はたちあがると、お結の肩をたたいて云った。
「お腹は減っていないか」
「うん」
「船にゆられて、気持ち悪くなったりしてないかい」
「ならなかったよ」
「そう。これまで船に乗ったことはあったの」
「あんまり、でも小さいのなら」
信十郎はうなずいて、
「もう、おしっこはしたくないかい」
「うん、ちょっと」
「じゃあ、まず宿をさがそうか」
ふたりは歩きだした。
藤堂平助の姿はもう見当たらなかったが、信十郎の耳に、さっきの平助の声が思い出された。
――川崎屋、とか云っていたな。
おそらく彼は、わざと聞こえるように云ったのだ。
けっきょく船のなかでは、信十郎に斬りかかる気配はまるでみせなかったし、いまの変な気づかいもあったし、平助の心中をはかりかねていた。
彼は、信十郎を追ってきたのだし、実際、一度は戦って斬られている。しかも、追っ手の隊士たちも、彼の腹心の部下だった小畑も殺めてしまってもいるのに、平助の相貌には敵愾心のようなものはまるでにじんでいなかった。
風が吹いた。
琵琶湖を渡る風は、まだ冷たい。
ちょっと肌をなでただけのわずかな風だったが、信十郎は身震いし、お結を温めてやるように、肩を抱くようにして歩きはじめた。
平助は、しばらくしてから信十郎に声をかけた。
「おいくつですか」
「やっつです」信十郎はぶっきらぼうに答える。
「あなたの娘ですか」
「いえ、よんどころない事情で一緒に旅をしています」
平助はふところから紙包みを取り出すと、口をひらいてお結に向けてさしだした。
「ひとつどうだい」
袋のなかからは、煎餅が頭をのぞかせていた。
お結はどうしていいかわからないように、信十郎を見た。
「いただきなさい」
と信十郎がいうと、うんとうなずいて、袋から一枚とりだし、にっと感情のこもっていない奇妙な笑顔を平助にむけてうかべるのだった。
それをみて、平助は一瞬眉をひそめたが、すぐになにも見なかったようにほほ笑んで、
「あなたもどうですか」
と信十郎に袋をさしだした。
「いえ、私はけっこう」
「そうですか、毒など入っていませんよ」
いたずらっぽく笑って、平助は自分で煎餅を食べだした。
食べながら、このお結という少女は、と考えはじめた。
さっきの奇妙な笑いかたといい、信十郎との会話の受け答えなどといい、同じ年ごろの子供にくらべて少し知能の成長が遅れているような雰囲気があるようだったし、言葉のひとつひとつにもなんだか心がこもっていないようだった。鱒川屋という旅籠では、ずいぶん虐待を受けていたようだし、おそらく今まで、ろくな教育を受けさせてもらっていないことが原因なのだろう。
やがて、長浜の町がみえ、船着き場に船は静かにとまった。
もう、陽の光はほのかに黄色を帯びていて、湖の水面をきらきらと黄金色に彩っていた。
乗客たちはすぐに船をおり、続いて、藤堂平助が桟橋に降りたち、後ろの信十郎たちを意識するようなそぶりもみせずに、岸へと歩いていく。
信十郎とお結も、船をおりて、桟橋を歩いた。
前を行く平助がふいに立ちどまって、くるりと振り向いた。
信十郎は立ちどまった。
なにかを察したのだろう、お結が、信十郎の前にきて、たちふさがるようにした。
平助が、含み笑いをした。
「心配するな。こんなところで、お前の大切なおじちゃんを斬ったりはしない」
そういって、優しくお結をみつめるのだった。
「お結、さがっていなさい」
信十郎が後ろから、彼女の肩を抱くようにして、桟橋のふちへとよせる。
「川井」
と平助はもう、敬称をつけて呼んだりはしなかった。
「あとひとりだ」
信十郎は言葉の意味がつかめず、眉をひそめて、彼をみつめた。
「あとひとり、轟弥兵衛が残っている。あいつをお前が倒せたら、その時、また戦おう」
放つように云って、お結にか信十郎にか、手を振るようにして振り返り、長浜の町へと去っていった。
湖岸で船の船頭たちがたむろして、よもやま話に興じているのへ、通りすがりに、
「川崎屋という旅籠は知っているか」
と信十郎にも聞こえるような、大声で尋ねていた。
平助は、湊の端で、道を確かめるような雰囲気で、ちょっと立ちどまった。
彼の心にあるのは、不安だった。
なにに対する不安なのか、彼自身にもわからないまま、胸のなかで想念が流れていくのだった。
――轟は、強い。
平助は屯所の道場で何度か立ち会ったが、結果は勝ったり負けたり、ほぼ互角だった。
ただ、ひょっとすると、轟は上役の平助に気をつかって、わざと負けてくれていた可能性もある。
平助は、背筋に寒気を覚えた。
あの、二刀流の、片腕だけの木剣に、平助の両手で持って防御した木剣がはじき飛ばされた時の腕の感覚が、まざまざと脳裏によみがえった。
信十郎が轟に勝てるかどうか、まったく予想できない。
むしろ、負ける可能性のほうが大きいだろう。
――それまで、その小娘との、甘い道中を堪能しているといい。
平助は、ちょっと首をまわして、信十郎たちをみた。
きっと、平助を警戒して、身体をかためてこちらを凝視しているに違いない、と思いきや、信十郎はかがんで、お結の草鞋の紐を結びなおしていた。
平助はあきれたようにひとつ溜め息をつくと、また歩きはじめるのだった。
「さあ、これで大丈夫」
草鞋の紐を結びなおしてやって、信十郎はたちあがると、お結の肩をたたいて云った。
「お腹は減っていないか」
「うん」
「船にゆられて、気持ち悪くなったりしてないかい」
「ならなかったよ」
「そう。これまで船に乗ったことはあったの」
「あんまり、でも小さいのなら」
信十郎はうなずいて、
「もう、おしっこはしたくないかい」
「うん、ちょっと」
「じゃあ、まず宿をさがそうか」
ふたりは歩きだした。
藤堂平助の姿はもう見当たらなかったが、信十郎の耳に、さっきの平助の声が思い出された。
――川崎屋、とか云っていたな。
おそらく彼は、わざと聞こえるように云ったのだ。
けっきょく船のなかでは、信十郎に斬りかかる気配はまるでみせなかったし、いまの変な気づかいもあったし、平助の心中をはかりかねていた。
彼は、信十郎を追ってきたのだし、実際、一度は戦って斬られている。しかも、追っ手の隊士たちも、彼の腹心の部下だった小畑も殺めてしまってもいるのに、平助の相貌には敵愾心のようなものはまるでにじんでいなかった。
風が吹いた。
琵琶湖を渡る風は、まだ冷たい。
ちょっと肌をなでただけのわずかな風だったが、信十郎は身震いし、お結を温めてやるように、肩を抱くようにして歩きはじめた。
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