22 / 62
第三章 路のとちゅう
三の一
しおりを挟む
川井信十郎と、おゆいは、真昼の目に刺さるような強い陽射しのしたを、北にむかって歩いていた。
昨晩はあいにく泊れるような宿をみつけられず、しかたなしに、破れ寺の軒先で夜露をしのぎ、研師の妻みちの作ってくれた握り飯を、ふたりで食べた。
そこで一夜を明かし、明け方から歩きはじめていた。
もう、夜に歩くのはやめにした。
先日の一件で、どう逃げ隠れしたところで、仙念の藤次たち探索方にいどころをつかまれてしまう、という気がした。
下手に夜に、提灯も持たずに暗がりを歩いて、待ち伏せでもされたら対処のしようがなかった。
だったら、昼間に堂々と街道を歩いたほうがいい。
敵が近づけば、こちらも察知しやすいし、戦いもしやすい。
もっとも、新選組の討ち手が、鉄砲や弓などの飛び道具を使ってこないという確信があったから、できることだった。
彼らは、剣で人を屠ることに誇りを持っている。御堂銀四郎のような手裏剣使いはまれで、まず、斬り合いで決着をつけようとするだろう。
「ちょっと休もうか」
すわるのにちょうど良さそうな岩をみつけたので、信十郎は、おゆいに声をかけた。
手を引かれていたおゆいは、こくりとうなずいた。
信十郎は、岩に腰をおろして、竹筒の水を飲んだ。
道のむこうは、雑草ばかりの野原で、その向こうには琵琶湖が広がっていた。
湖を渡ってくる風はまだ冬の冷たさをいくぶんはらんでいたが、陽は強く照っていて、そのせいで汗ばんだ身体には、ちょうどよい、冷たい心地よさだった。
こんなとき、子供のほうが疲れをしらないようで、おゆいはすわりもせず、暇をもてあましたように、街道脇の野原を行ったり来たりしたりしていていた。歩いていたと思ったら急に座り込んだり、立ちどまったと思ったら、なにか思いをはせるように琵琶湖をながめていたりする。
信十郎は、ふと気がついた。
おゆいは、原っぱを歩くとき、足元にはえた、花を咲かせ始めた野花たちを、うまくよけて歩いていた。
けっして、それらに目を向けているわけでもなく、前を見たり横を見たりしているのに、足では絶対に花を踏むことはなかった。三階草だとか、鼓草だとか、そのほかの信十郎が名前も知らないような青や白の小さな花たちの間を、まったく意識もしないふうなのに、ひょいひょいとよけて地面をふむのだった。
やはり、不思議な娘だと信十郎は思った。
たしかに、親とはやくに死に別れ、親戚中をたらいまわしにされ、行きついた奉公先で虐待を受けていた、その不幸な生い立ちには憐憫を感じずにはいられなかったが、なにか別の、魅力と云ってしまうと俗になるが、言葉ではいいあらわせないような不思議な引力のようなものを持っている少女だという感じがするのだった。
「おゆい、休むときに休んでおかないと、あとでしんどくなるぞ。ここにきて、いっしょに座りなさい」
信十郎が手招きすると、おゆいは素直にこちらに歩いてきて、地面に座った。岩は、彼女の身体にはいささか大きかったようだ。
「そういえば」と信十郎は、ふとした思いつきで、おゆいに訊いた。「ゆい、という字は、どう書くんだい」
訊かれておゆいは、きょとんとした顔で信十郎を見あげた。
「漢字はないのかい」
と訊くと、こくりとうなずいた。
「意味はとくにないのかい」
つづけて訊くと、また、こくりとうなずいた。
信十郎は、頭の中で、いろいろな文字を思い浮かべた。この娘に似合う漢字はどんなのだろうと、なにか楽しいなぞ解きでもするように、思いをめぐらすのだった。
「こんなのはどうだろう」
彼は落ちていた枝をひろうと、土のうえに線を引いていった。縦だったり横だったりに引かれる線は、折れ曲がったりしながら、やがてひとつの文字になった。
「結――。むすぶ、とも読む。人と人の縁を結ぶ。心と心を結ぶ」
おゆいは、じっとその文字を見つめていたが、やがて信十郎に振り向き、にっとあの変な笑顔を浮かべた。
どうやら気に入ってくれたようだ。
「よし」
と信十郎は腰をあげた。
「お結、そろそろ出発しよう」
「うん」
お結は、返事をして、はずむように立ちあがったのだった。
昨晩はあいにく泊れるような宿をみつけられず、しかたなしに、破れ寺の軒先で夜露をしのぎ、研師の妻みちの作ってくれた握り飯を、ふたりで食べた。
そこで一夜を明かし、明け方から歩きはじめていた。
もう、夜に歩くのはやめにした。
先日の一件で、どう逃げ隠れしたところで、仙念の藤次たち探索方にいどころをつかまれてしまう、という気がした。
下手に夜に、提灯も持たずに暗がりを歩いて、待ち伏せでもされたら対処のしようがなかった。
だったら、昼間に堂々と街道を歩いたほうがいい。
敵が近づけば、こちらも察知しやすいし、戦いもしやすい。
もっとも、新選組の討ち手が、鉄砲や弓などの飛び道具を使ってこないという確信があったから、できることだった。
彼らは、剣で人を屠ることに誇りを持っている。御堂銀四郎のような手裏剣使いはまれで、まず、斬り合いで決着をつけようとするだろう。
「ちょっと休もうか」
すわるのにちょうど良さそうな岩をみつけたので、信十郎は、おゆいに声をかけた。
手を引かれていたおゆいは、こくりとうなずいた。
信十郎は、岩に腰をおろして、竹筒の水を飲んだ。
道のむこうは、雑草ばかりの野原で、その向こうには琵琶湖が広がっていた。
湖を渡ってくる風はまだ冬の冷たさをいくぶんはらんでいたが、陽は強く照っていて、そのせいで汗ばんだ身体には、ちょうどよい、冷たい心地よさだった。
こんなとき、子供のほうが疲れをしらないようで、おゆいはすわりもせず、暇をもてあましたように、街道脇の野原を行ったり来たりしたりしていていた。歩いていたと思ったら急に座り込んだり、立ちどまったと思ったら、なにか思いをはせるように琵琶湖をながめていたりする。
信十郎は、ふと気がついた。
おゆいは、原っぱを歩くとき、足元にはえた、花を咲かせ始めた野花たちを、うまくよけて歩いていた。
けっして、それらに目を向けているわけでもなく、前を見たり横を見たりしているのに、足では絶対に花を踏むことはなかった。三階草だとか、鼓草だとか、そのほかの信十郎が名前も知らないような青や白の小さな花たちの間を、まったく意識もしないふうなのに、ひょいひょいとよけて地面をふむのだった。
やはり、不思議な娘だと信十郎は思った。
たしかに、親とはやくに死に別れ、親戚中をたらいまわしにされ、行きついた奉公先で虐待を受けていた、その不幸な生い立ちには憐憫を感じずにはいられなかったが、なにか別の、魅力と云ってしまうと俗になるが、言葉ではいいあらわせないような不思議な引力のようなものを持っている少女だという感じがするのだった。
「おゆい、休むときに休んでおかないと、あとでしんどくなるぞ。ここにきて、いっしょに座りなさい」
信十郎が手招きすると、おゆいは素直にこちらに歩いてきて、地面に座った。岩は、彼女の身体にはいささか大きかったようだ。
「そういえば」と信十郎は、ふとした思いつきで、おゆいに訊いた。「ゆい、という字は、どう書くんだい」
訊かれておゆいは、きょとんとした顔で信十郎を見あげた。
「漢字はないのかい」
と訊くと、こくりとうなずいた。
「意味はとくにないのかい」
つづけて訊くと、また、こくりとうなずいた。
信十郎は、頭の中で、いろいろな文字を思い浮かべた。この娘に似合う漢字はどんなのだろうと、なにか楽しいなぞ解きでもするように、思いをめぐらすのだった。
「こんなのはどうだろう」
彼は落ちていた枝をひろうと、土のうえに線を引いていった。縦だったり横だったりに引かれる線は、折れ曲がったりしながら、やがてひとつの文字になった。
「結――。むすぶ、とも読む。人と人の縁を結ぶ。心と心を結ぶ」
おゆいは、じっとその文字を見つめていたが、やがて信十郎に振り向き、にっとあの変な笑顔を浮かべた。
どうやら気に入ってくれたようだ。
「よし」
と信十郎は腰をあげた。
「お結、そろそろ出発しよう」
「うん」
お結は、返事をして、はずむように立ちあがったのだった。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
夕映え~武田勝頼の妻~
橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。
甲斐の国、天目山。
織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。
そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。
武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。
コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……

壬生の花
優木悠
歴史・時代
新選組の若き隊士の物語。
園田又四郎たち三人の仲間は、大志を胸に新選組に入隊した。
だが、親友だった半助が切腹したことにより、又四郎の歯車がじょじょに狂いはじめる。
この小説は、遠い昔、私がまだ若かった頃に構想していた物語を小説化しました。
文字数としましては、本来、3、4倍の分量になるはずでしたが、執筆にあたり、まだ長編を描ききる自信がありませんでしたので、物語の中盤を抜き出す形で短編として書きました。
また、この小説は、カクヨムから転載したものです。そのさい、多少の加筆、修正をおこないました。
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。
桜の花弁が散る頃に
ユーリ(佐伯瑠璃)
歴史・時代
少女は市村鉄之助という少年と入れ替わり、土方歳三の小姓として新選組に侵入した。国を離れ兄とも別れ、自分の力だけで疾走したいと望んだから。
次第に少女は副長である土方に惹かれていく。
(私がその背中を守りたい。貴方の唯一になりたい。もしも貴方が死を選ぶなら、私も連れて行ってください……)
京都から箱館までを駆け抜ける時代小説。信じた正義のために人を斬り、誠の旗の下に散華する仲間たち。果たして少女に土方の命は守れるのか。
※史実に沿いながら物語は進みますが、捏造だらけでございます。
※小説家になろうにも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる