16 / 62
第二章 ふたりのゆくえ
二の五
しおりを挟む
翌日信十郎が目を覚ますと、もう陽は高く、横をみると、おゆいはすでに姿がみえなかった。布団はきちんとたたまれて部屋の隅に寄せられているし、とうに起きてどこかに行ってしまったようだ。
布団から出て入口の戸を開けると、おゆいは、作業小屋の前で、洗濯物を干しているみちの手伝いをしていた。余計なことはするなと昨日注意したのに、やはり働いていないと落ちつかない性分なのだろうか。
おゆいは、まだ新しい様子の紺絣の着物を着ていて、経国の亡くなった娘のものだとすぐに察しがついた。しかも、髪もきれいに結ってもらっていた。
「やあ、ご新造、またこの子が余計なことを」
信十郎が近づいていくと、みちは、ほほ笑んで頭をさげた。
「いえ、とっても助かっていますよ」
昨日の、抜け殻のような雰囲気とは打って変わって、今日はごく丈夫な、田舎の女という印象だった。
「着物まで貸してもらって」
「いえ、これは、差し上げようと思って」
「それでは、申し訳ない」
「どうせもう着るものもいませんし、お気づかいいりませんよ」
みちは、洗濯の手をとめずに、話を続けた。その横で、おゆいが、盥に盛られた洗濯物を、開いたりのばしたりしながら、みちに手渡していた。
信十郎は、もう、あえておゆいをとめることはしなかった。彼女は働いていたいようだし、手伝ってもらっているみちはうれしそうで、病んだ心の、いくばくかの気休めになるのだったら、それもいいだろう、と考えていた。
信十郎は井戸で顔を洗い口をすすいで、離れへもどろうと母屋の角から出たところで、玄関戸のまえに男が立っているのが目に入った。脚をとめ、すぐに身体をひっこめた。
――仙念の藤次だ。
みられはしなかっただろうか、と不安になりながらも、気配だけで様子をうかがった。
「こんにちは。こちらのお内儀ですかな」
彼は愛想よく、みちに向って声をかけていた。
角から顔をだして藤次の姿を観察するわけにもいかなかったが、彼女とおゆいの姿はこの位置からでもみえた。
みちは、驚いたような、不安な表情で、おゆいを後ろにかばうようにして立っていた。
突然の訪問者の声が聞こえたのだろう、経国が作業小屋から顔をのぞかせた。
「どなたかな」
ぶっきらぼうに云いながら、藤次に向って歩いてゆく。
経国からは、隠れている信十郎が見えただろうが、いっさい見向きもせずに、歩いていった。
「これはどうも、この家の御主人ですかな」
「そうだが」
「では、あなたが研師の経国さん」
「ああ」
「わたしは、京で新選組の手先をしております、藤次というものです」
「そのお手先が、うちになにか用かね」
「実は、隊を脱走した男が、この辺りに潜んでいるかもしれません。不審な者は、見かけませんでしたか」
「いや、べつに」
「その男は、刀の手入れを依頼に、こちらに来るかもしれません」とさして詮索するふうもなく、藤次は話す。「充分ご用心なさってください」
「ああ、お気づかいどうも」
経国は愛想なく応じていた。
「かわいい子ですな。お嬢さんですか」
「ああ」
「おいくつで」
「八つだが、それがなにか」
「いえ、ただの世間話ですよ」
「そうかい」
「では、くれぐれもご用心なさってください」
とくどいほど警戒をうながして、藤次は去っていった。
経国はすぐに、肩をいからせるようにして作業場へもどっていった。途中、信十郎をちらっと一瞥したが、それだけだった。
おゆいは、不安そうにこちらを見ていたが、みちが、
「さあ、おじちゃんのご飯のご用意をしましょうね。手伝ってくれる、おゆいちゃん」
とうながされ、一緒に母屋へと入っていった。
信十郎は、家の陰から辺りをうかがった。藤次がまだその辺りに隠れて様子をみているかもしれないと警戒したのだが、気配はまるでなかった。
――もうここを嗅ぎ当てたのか。
気がつくと、全身にびっしょりと汗をかいていた。額に浮いた汗を、手の甲でこするようにして拭った。
たしかに、信十郎が刀の手入れのために研師を頼ることに考えがいたれば、近隣の研師たちの住まいを重点的に聞き込みにまわるのは当然なのかもしれない。
しかも、信十郎は、昨日の朝、何人かの村人に接触して、土地のことや研師がどこかにいるかどうかなどを尋ねていた。子供を連れて旅している侍など、彼らの印象にも強く残っているだろうし、その誰かが会話の内容を藤次に喋れば、ここに潜伏しているのが露見するのも時間の問題かもしれない。
今回は経国が機転をきかせてくれたから助かったが、何度も尋ねられたら隠しおおせるものでもないだろう。
せめて、刀の研ぎが終わるまで隠れていられるだろうか、と信十郎の心は不安に染まっていくのであった。
布団から出て入口の戸を開けると、おゆいは、作業小屋の前で、洗濯物を干しているみちの手伝いをしていた。余計なことはするなと昨日注意したのに、やはり働いていないと落ちつかない性分なのだろうか。
おゆいは、まだ新しい様子の紺絣の着物を着ていて、経国の亡くなった娘のものだとすぐに察しがついた。しかも、髪もきれいに結ってもらっていた。
「やあ、ご新造、またこの子が余計なことを」
信十郎が近づいていくと、みちは、ほほ笑んで頭をさげた。
「いえ、とっても助かっていますよ」
昨日の、抜け殻のような雰囲気とは打って変わって、今日はごく丈夫な、田舎の女という印象だった。
「着物まで貸してもらって」
「いえ、これは、差し上げようと思って」
「それでは、申し訳ない」
「どうせもう着るものもいませんし、お気づかいいりませんよ」
みちは、洗濯の手をとめずに、話を続けた。その横で、おゆいが、盥に盛られた洗濯物を、開いたりのばしたりしながら、みちに手渡していた。
信十郎は、もう、あえておゆいをとめることはしなかった。彼女は働いていたいようだし、手伝ってもらっているみちはうれしそうで、病んだ心の、いくばくかの気休めになるのだったら、それもいいだろう、と考えていた。
信十郎は井戸で顔を洗い口をすすいで、離れへもどろうと母屋の角から出たところで、玄関戸のまえに男が立っているのが目に入った。脚をとめ、すぐに身体をひっこめた。
――仙念の藤次だ。
みられはしなかっただろうか、と不安になりながらも、気配だけで様子をうかがった。
「こんにちは。こちらのお内儀ですかな」
彼は愛想よく、みちに向って声をかけていた。
角から顔をだして藤次の姿を観察するわけにもいかなかったが、彼女とおゆいの姿はこの位置からでもみえた。
みちは、驚いたような、不安な表情で、おゆいを後ろにかばうようにして立っていた。
突然の訪問者の声が聞こえたのだろう、経国が作業小屋から顔をのぞかせた。
「どなたかな」
ぶっきらぼうに云いながら、藤次に向って歩いてゆく。
経国からは、隠れている信十郎が見えただろうが、いっさい見向きもせずに、歩いていった。
「これはどうも、この家の御主人ですかな」
「そうだが」
「では、あなたが研師の経国さん」
「ああ」
「わたしは、京で新選組の手先をしております、藤次というものです」
「そのお手先が、うちになにか用かね」
「実は、隊を脱走した男が、この辺りに潜んでいるかもしれません。不審な者は、見かけませんでしたか」
「いや、べつに」
「その男は、刀の手入れを依頼に、こちらに来るかもしれません」とさして詮索するふうもなく、藤次は話す。「充分ご用心なさってください」
「ああ、お気づかいどうも」
経国は愛想なく応じていた。
「かわいい子ですな。お嬢さんですか」
「ああ」
「おいくつで」
「八つだが、それがなにか」
「いえ、ただの世間話ですよ」
「そうかい」
「では、くれぐれもご用心なさってください」
とくどいほど警戒をうながして、藤次は去っていった。
経国はすぐに、肩をいからせるようにして作業場へもどっていった。途中、信十郎をちらっと一瞥したが、それだけだった。
おゆいは、不安そうにこちらを見ていたが、みちが、
「さあ、おじちゃんのご飯のご用意をしましょうね。手伝ってくれる、おゆいちゃん」
とうながされ、一緒に母屋へと入っていった。
信十郎は、家の陰から辺りをうかがった。藤次がまだその辺りに隠れて様子をみているかもしれないと警戒したのだが、気配はまるでなかった。
――もうここを嗅ぎ当てたのか。
気がつくと、全身にびっしょりと汗をかいていた。額に浮いた汗を、手の甲でこするようにして拭った。
たしかに、信十郎が刀の手入れのために研師を頼ることに考えがいたれば、近隣の研師たちの住まいを重点的に聞き込みにまわるのは当然なのかもしれない。
しかも、信十郎は、昨日の朝、何人かの村人に接触して、土地のことや研師がどこかにいるかどうかなどを尋ねていた。子供を連れて旅している侍など、彼らの印象にも強く残っているだろうし、その誰かが会話の内容を藤次に喋れば、ここに潜伏しているのが露見するのも時間の問題かもしれない。
今回は経国が機転をきかせてくれたから助かったが、何度も尋ねられたら隠しおおせるものでもないだろう。
せめて、刀の研ぎが終わるまで隠れていられるだろうか、と信十郎の心は不安に染まっていくのであった。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
夕映え~武田勝頼の妻~
橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。
甲斐の国、天目山。
織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。
そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。
武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。
コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……

壬生の花
優木悠
歴史・時代
新選組の若き隊士の物語。
園田又四郎たち三人の仲間は、大志を胸に新選組に入隊した。
だが、親友だった半助が切腹したことにより、又四郎の歯車がじょじょに狂いはじめる。
この小説は、遠い昔、私がまだ若かった頃に構想していた物語を小説化しました。
文字数としましては、本来、3、4倍の分量になるはずでしたが、執筆にあたり、まだ長編を描ききる自信がありませんでしたので、物語の中盤を抜き出す形で短編として書きました。
また、この小説は、カクヨムから転載したものです。そのさい、多少の加筆、修正をおこないました。
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。
桜の花弁が散る頃に
ユーリ(佐伯瑠璃)
歴史・時代
少女は市村鉄之助という少年と入れ替わり、土方歳三の小姓として新選組に侵入した。国を離れ兄とも別れ、自分の力だけで疾走したいと望んだから。
次第に少女は副長である土方に惹かれていく。
(私がその背中を守りたい。貴方の唯一になりたい。もしも貴方が死を選ぶなら、私も連れて行ってください……)
京都から箱館までを駆け抜ける時代小説。信じた正義のために人を斬り、誠の旗の下に散華する仲間たち。果たして少女に土方の命は守れるのか。
※史実に沿いながら物語は進みますが、捏造だらけでございます。
※小説家になろうにも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる