湖水のかなた

優木悠

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第二章 ふたりのゆくえ

二の五

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 翌日信十郎が目を覚ますと、もう陽は高く、横をみると、おゆいはすでに姿がみえなかった。布団はきちんとたたまれて部屋の隅に寄せられているし、とうに起きてどこかに行ってしまったようだ。
 布団から出て入口の戸を開けると、おゆいは、作業小屋の前で、洗濯物を干しているみちの手伝いをしていた。余計なことはするなと昨日注意したのに、やはり働いていないと落ちつかない性分なのだろうか。
 おゆいは、まだ新しい様子の紺絣の着物を着ていて、経国の亡くなった娘のものだとすぐに察しがついた。しかも、髪もきれいに結ってもらっていた。
「やあ、ご新造、またこの子が余計なことを」
 信十郎が近づいていくと、みちは、ほほ笑んで頭をさげた。
「いえ、とっても助かっていますよ」
 昨日の、抜け殻のような雰囲気とは打って変わって、今日はごく丈夫な、田舎の女という印象だった。
「着物まで貸してもらって」
「いえ、これは、差し上げようと思って」
「それでは、申し訳ない」
「どうせもう着るものもいませんし、お気づかいいりませんよ」
 みちは、洗濯の手をとめずに、話を続けた。その横で、おゆいが、盥に盛られた洗濯物を、開いたりのばしたりしながら、みちに手渡していた。
 信十郎は、もう、あえておゆいをとめることはしなかった。彼女は働いていたいようだし、手伝ってもらっているみちはうれしそうで、病んだ心の、いくばくかの気休めになるのだったら、それもいいだろう、と考えていた。
 信十郎は井戸で顔を洗い口をすすいで、離れへもどろうと母屋の角から出たところで、玄関戸のまえに男が立っているのが目に入った。脚をとめ、すぐに身体をひっこめた。
 ――仙念の藤次だ。
 みられはしなかっただろうか、と不安になりながらも、気配だけで様子をうかがった。
「こんにちは。こちらのお内儀ですかな」
 彼は愛想よく、みちに向って声をかけていた。
 角から顔をだして藤次の姿を観察するわけにもいかなかったが、彼女とおゆいの姿はこの位置からでもみえた。
 みちは、驚いたような、不安な表情で、おゆいを後ろにかばうようにして立っていた。
 突然の訪問者の声が聞こえたのだろう、経国が作業小屋から顔をのぞかせた。
「どなたかな」
 ぶっきらぼうに云いながら、藤次に向って歩いてゆく。
 経国からは、隠れている信十郎が見えただろうが、いっさい見向きもせずに、歩いていった。
「これはどうも、この家の御主人ですかな」
「そうだが」
「では、あなたが研師の経国さん」
「ああ」
「わたしは、京で新選組の手先をしております、藤次というものです」
「そのお手先が、うちになにか用かね」
「実は、隊を脱走した男が、この辺りに潜んでいるかもしれません。不審な者は、見かけませんでしたか」
「いや、べつに」
「その男は、刀の手入れを依頼に、こちらに来るかもしれません」とさして詮索するふうもなく、藤次は話す。「充分ご用心なさってください」
「ああ、お気づかいどうも」
 経国は愛想なく応じていた。
「かわいい子ですな。お嬢さんですか」
「ああ」
「おいくつで」
「八つだが、それがなにか」
「いえ、ただの世間話ですよ」
「そうかい」
「では、くれぐれもご用心なさってください」
 とくどいほど警戒をうながして、藤次は去っていった。
 経国はすぐに、肩をいからせるようにして作業場へもどっていった。途中、信十郎をちらっと一瞥したが、それだけだった。
 おゆいは、不安そうにこちらを見ていたが、みちが、
「さあ、おじちゃんのご飯のご用意をしましょうね。手伝ってくれる、おゆいちゃん」
 とうながされ、一緒に母屋へと入っていった。
 信十郎は、家の陰から辺りをうかがった。藤次がまだその辺りに隠れて様子をみているかもしれないと警戒したのだが、気配はまるでなかった。
 ――もうここを嗅ぎ当てたのか。
 気がつくと、全身にびっしょりと汗をかいていた。額に浮いた汗を、手の甲でこするようにして拭った。
 たしかに、信十郎が刀の手入れのために研師を頼ることに考えがいたれば、近隣の研師たちの住まいを重点的に聞き込みにまわるのは当然なのかもしれない。
 しかも、信十郎は、昨日の朝、何人かの村人に接触して、土地のことや研師がどこかにいるかどうかなどを尋ねていた。子供を連れて旅している侍など、彼らの印象にも強く残っているだろうし、その誰かが会話の内容を藤次に喋れば、ここに潜伏しているのが露見するのも時間の問題かもしれない。
 今回は経国が機転をきかせてくれたから助かったが、何度も尋ねられたら隠しおおせるものでもないだろう。
 せめて、刀の研ぎが終わるまで隠れていられるだろうか、と信十郎の心は不安に染まっていくのであった。
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