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第一章 追うもの、逃げるもの
一の八
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旅籠の一室に通され、出された茶をすすると、藤堂平助と小畑栄太は、ほっとひとごこちがついた気持ちになった。
手足を伸ばして、休息を続けたいのはやまやまだったが、どうしても、任務のことが頭からはなれず、閑談しているつもりでも、いつの間にか会話は深刻な重みをふくんでくるのだった。
「秘剣はやかぜ、ご存じですか」
小畑が、話のながれでふと口にした。
「ああ、噂くらいだがな」
平助は、正直に答えた。
秘剣はやかぜ。
川井信十郎が使うと云われている、必殺剣である。
云われている、というのには、わけがある。
その秘剣を、誰もみたことがないのである。
道場での稽古のときも、尊攘派浪士たちとの抗争のときも、誰もなにも見ていない。秘剣と云われるくらいだから、人まえでは使っていないのかもしれないが、そもそも、秘剣はやかぜなるものの噂自体がどこからでたのかもわからない。
じっさい、平助は酒を酌み交わしながら、信十郎に聞いてみたことがあった。だが、
――あったら楽に勝てるんですけどね。
などと、苦笑しながら返答するだけだった。それは単なるはぐらかしだったのかもしれなかったし、本当に秘剣などというものは存在しないのかもしれなかった。
「やつは馬庭念流でしたか」小畑が訊く。
「いや、明葉念流だったと思う」
「聞いたことありませんね。越前の田舎剣法でしょうか」
「そんなとこだろうな」
「この前戦ったときは、その秘剣を使ったようすはなかったのですか」
「いや、この前は、川井が剣を振り上げたから、つられてこちらも剣を動かしただけだったんだ」
「そうですか」
まあ、倒せたんだからいいですけどね、などと、小畑は秘剣に関心があるのかないのか、頓着せずにさっぱりとした顔で話を切りかえた。
「しかし、まるで川井の痕跡はありませんね」
「ああ、もういちど、この辺りの漁師の家をまわって、人が流れついていないか、訊いてまわってみるつもりだ」
「それに、他の脱走者の足跡もまったく途絶えてますから、俺は、こっち方面はもうあきらめて、東海道か中仙道のほうに足をむけるべきだと思います」
「そうだな」
と平助は気のない返事をした。どうしても、川井を倒したという実感がわかない。湖に落ちて、溺死していたとしても、遺体を目にするまでは安堵できない気分だった。斬った直後は二度と顔を見たくないほど憎々しく思ったくらいだったのに。
「飯のまえに、俺はもう一度、この辺を見まわってくるよ。お前は先に風呂にでもつかってくるといい」
藤堂は立ちあがって、廊下へむかった。
「そんなわけにはいきません。俺もお供しますよ」
「いや、そぞろ歩きのついでみたいなものだから」
「え、そうですか、じゃあ、お言葉に甘えて」
などと、小畑はほっとした顔をしていた。
こういう、感情が素直に顔にでる正直なところがこの男のよいところでもあり、悪いところでもある。
まだ十八歳の、おさなさの残る笑顔をみせるこの青年を、平助は好ましく思った。愚直と云っていいほど、任務に前向きに励むし、だからと云って手柄に執着するわけでもなく、戦いにのぞんでも、小細工をろうするぐらいなら、いっそ敗れたほうがいい、というくらいの実直さがあった。もちろん、隊長としてはそれでは困るのだが、一途な人間は、みていて気持ちがいいものだった。
平助は、あらお出かけですか、と声をかける女中に、ああちょっとね、とかえして玄関から街道へでた。
もうずいぶん辺りは宵闇につつまれてきていた。ここに泊ろうか、それとももうすこし足を延ばそうか、などと考えているのだろう、店のなかをのぞきながら急ぎ足に歩く旅人がひとりふたり、平助の前を通りすぎた。
旅籠鱒川屋と書かれた提灯が風にゆれている。
小畑栄太が風呂からあがり、部屋へとむかっているときだった。
そこは、渡り廊下になっていて、きれいに整えられた庭が一望できた。
庭園のすみには池があって、まわりには砂利も敷かれていたし、美しく剪定された松や躑躅などが植えられていた。数か所にある石灯篭にはもう火がいれられていて、ほのかな温かい光で庭を引き立てていた。
琵琶湖の眺望を店の売りにしているからなのか、庭の東側の、湖岸に面しているほうは、塀が途切れていて腰の高さくらいの竹垣が組んであるだけなので、昼間だったら画趣を誘うような景観が広がっていることだろう。
なんの気なしに、その庭を見物していると、後ろのほうから、なにかを叩くような音がする。一度や二度ではなく、なんどもその音は続いているのであった。
はて、なんの音だろうと首をまわす。
庭の反対側は塀で、あかりもなくて、よくは見えなかったけれど、建物のかどで、どうも人が、――それも子供が女将か女中に折檻されているようだった。
女の、甲高い、しかし客には聞こえないように、必死に抑えながらの声が聞こえてきた。頭のてっぺんから突き抜けるような声で女は云うのだった。まったくお前はぐずだね、目ざわりだ、今夜はご飯ぬきだよ、小屋にひっこんでいな。
栄太は嫌な気分になった。
この辺りにはほかに旅宿のようなものはなく、しかたなしにこの宿に草鞋を脱いだわけだったが、女中たちの愛想も良かったし、番頭や男衆の客あしらいも悪くなかった。建物自体も大きく、羽振りもよさそうだし、田舎にしては良い旅籠だと思っていた。
だが、人間というのはひと皮むいてみればこんなものか、という気がした。
藤堂はもうすこしこの辺りで探索を続けたいようだったが、栄太は、今すぐにでもここを立ちたい気分だった。
手足を伸ばして、休息を続けたいのはやまやまだったが、どうしても、任務のことが頭からはなれず、閑談しているつもりでも、いつの間にか会話は深刻な重みをふくんでくるのだった。
「秘剣はやかぜ、ご存じですか」
小畑が、話のながれでふと口にした。
「ああ、噂くらいだがな」
平助は、正直に答えた。
秘剣はやかぜ。
川井信十郎が使うと云われている、必殺剣である。
云われている、というのには、わけがある。
その秘剣を、誰もみたことがないのである。
道場での稽古のときも、尊攘派浪士たちとの抗争のときも、誰もなにも見ていない。秘剣と云われるくらいだから、人まえでは使っていないのかもしれないが、そもそも、秘剣はやかぜなるものの噂自体がどこからでたのかもわからない。
じっさい、平助は酒を酌み交わしながら、信十郎に聞いてみたことがあった。だが、
――あったら楽に勝てるんですけどね。
などと、苦笑しながら返答するだけだった。それは単なるはぐらかしだったのかもしれなかったし、本当に秘剣などというものは存在しないのかもしれなかった。
「やつは馬庭念流でしたか」小畑が訊く。
「いや、明葉念流だったと思う」
「聞いたことありませんね。越前の田舎剣法でしょうか」
「そんなとこだろうな」
「この前戦ったときは、その秘剣を使ったようすはなかったのですか」
「いや、この前は、川井が剣を振り上げたから、つられてこちらも剣を動かしただけだったんだ」
「そうですか」
まあ、倒せたんだからいいですけどね、などと、小畑は秘剣に関心があるのかないのか、頓着せずにさっぱりとした顔で話を切りかえた。
「しかし、まるで川井の痕跡はありませんね」
「ああ、もういちど、この辺りの漁師の家をまわって、人が流れついていないか、訊いてまわってみるつもりだ」
「それに、他の脱走者の足跡もまったく途絶えてますから、俺は、こっち方面はもうあきらめて、東海道か中仙道のほうに足をむけるべきだと思います」
「そうだな」
と平助は気のない返事をした。どうしても、川井を倒したという実感がわかない。湖に落ちて、溺死していたとしても、遺体を目にするまでは安堵できない気分だった。斬った直後は二度と顔を見たくないほど憎々しく思ったくらいだったのに。
「飯のまえに、俺はもう一度、この辺を見まわってくるよ。お前は先に風呂にでもつかってくるといい」
藤堂は立ちあがって、廊下へむかった。
「そんなわけにはいきません。俺もお供しますよ」
「いや、そぞろ歩きのついでみたいなものだから」
「え、そうですか、じゃあ、お言葉に甘えて」
などと、小畑はほっとした顔をしていた。
こういう、感情が素直に顔にでる正直なところがこの男のよいところでもあり、悪いところでもある。
まだ十八歳の、おさなさの残る笑顔をみせるこの青年を、平助は好ましく思った。愚直と云っていいほど、任務に前向きに励むし、だからと云って手柄に執着するわけでもなく、戦いにのぞんでも、小細工をろうするぐらいなら、いっそ敗れたほうがいい、というくらいの実直さがあった。もちろん、隊長としてはそれでは困るのだが、一途な人間は、みていて気持ちがいいものだった。
平助は、あらお出かけですか、と声をかける女中に、ああちょっとね、とかえして玄関から街道へでた。
もうずいぶん辺りは宵闇につつまれてきていた。ここに泊ろうか、それとももうすこし足を延ばそうか、などと考えているのだろう、店のなかをのぞきながら急ぎ足に歩く旅人がひとりふたり、平助の前を通りすぎた。
旅籠鱒川屋と書かれた提灯が風にゆれている。
小畑栄太が風呂からあがり、部屋へとむかっているときだった。
そこは、渡り廊下になっていて、きれいに整えられた庭が一望できた。
庭園のすみには池があって、まわりには砂利も敷かれていたし、美しく剪定された松や躑躅などが植えられていた。数か所にある石灯篭にはもう火がいれられていて、ほのかな温かい光で庭を引き立てていた。
琵琶湖の眺望を店の売りにしているからなのか、庭の東側の、湖岸に面しているほうは、塀が途切れていて腰の高さくらいの竹垣が組んであるだけなので、昼間だったら画趣を誘うような景観が広がっていることだろう。
なんの気なしに、その庭を見物していると、後ろのほうから、なにかを叩くような音がする。一度や二度ではなく、なんどもその音は続いているのであった。
はて、なんの音だろうと首をまわす。
庭の反対側は塀で、あかりもなくて、よくは見えなかったけれど、建物のかどで、どうも人が、――それも子供が女将か女中に折檻されているようだった。
女の、甲高い、しかし客には聞こえないように、必死に抑えながらの声が聞こえてきた。頭のてっぺんから突き抜けるような声で女は云うのだった。まったくお前はぐずだね、目ざわりだ、今夜はご飯ぬきだよ、小屋にひっこんでいな。
栄太は嫌な気分になった。
この辺りにはほかに旅宿のようなものはなく、しかたなしにこの宿に草鞋を脱いだわけだったが、女中たちの愛想も良かったし、番頭や男衆の客あしらいも悪くなかった。建物自体も大きく、羽振りもよさそうだし、田舎にしては良い旅籠だと思っていた。
だが、人間というのはひと皮むいてみればこんなものか、という気がした。
藤堂はもうすこしこの辺りで探索を続けたいようだったが、栄太は、今すぐにでもここを立ちたい気分だった。
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