湖水のかなた

優木悠

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第一章 追うもの、逃げるもの

一の四

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 どこかで、鴬が鳴いている。
 けきょう、けきょう。ほう、けきょう――。
 まるで朝起きたばかりで寝ぼけまなこをこすりながら、子供が、母ちゃんおはよう、とでも云っているように、たどたどしく鳴いている。
 川井信十郎は、その鳴き声に呼ばれたように、眠りから覚めた。
 目をひらいた。
 天井が妙に近い。
 自分がどこにいるのか、まったくわからない。
 なぜ、こんなところで、寝ているのだろう。
 藤堂平助に、斬られ、崖から琵琶湖へ落ちた。
 背中から落ちたせいで、水面に身体と後頭部をしたたかに打ちつけた。薄れていく意識のなかで、刀だけは失いたくないと、水中で必死に鞘に収めた。
 そこまでは、覚えている。
 ここは、どこだろう。
 天井が低いということは、家屋の中二階にでもいるのだろうか。
 どこかから、光が差し込んでいるので、明り取りの窓はあるようだ。
 しかし、人の気配がまるでない。
 身体を起こしかけたが、とたんに胸に痛みを感じ、また布団に横たわった。
 藤堂に斬られた傷が痛んだのだ。
 見ると、着物は、洗いざらしではあったが、これも見覚えのないものを着ていて、胸には包帯がまかれていた。
 身体も、小ざっぱりとした感じがする。
 誰かが、傷の手当てをし、身体をぬぐい、着物を着がえさせてくれたのだろう。
 頭のよこには、しめった手ぬぐいが、ころがるようにしてあった。寝ているときに頭から落ちたのだろう。ということは、熱がでていたのかもしれない。
 刀傷にそっとさわって、痛みを確かめてみた。動いたり、強くさわったりしなければ、さほどの痛みはないようだ。傷口は完全にふさがってはいないようだが、血はとまっていた。傷自体、さほど深いものではなかったのだろうが、誰かが包帯を根気よくとりかえてくれたようで、それがよかったのではなかろうか、という気がする。
 首を動かすたび枕――と云っても、うすい座布団をふたつに折ったものだったが――に置いた後頭部がすこし傷んだ。同時に着物の衿に髭がじょりじょりとこすれた。髭のこの長さから察すると、三日ほど眠っていたのではなかろうか。
 ふと、咽喉の渇きをおぼえた。頭もちょっと起こしただけで少しくらくらとする。熱が出ていたせいかもしれないが、腹が減っているせいかもしれなかった。
「あの」
 と信十郎は声を出した。
「あの、どなたか、いませんか」
 まるで、家の外で鳴いている鴬のように、もつれる舌をむりやり動かして、どうにかこうにか声をだした。
 返事はない。
 やはり、家のなかは無人のようだった。
 鴬の声もやがて聞こえなくなり、しんと静まり返った部屋のなかにいると、まるで海原に手漕ぎ舟でひとりただよっているような、心細さがわきおこってきた。
 傷は痛んだが、身体をなんとか起こし、立ちあがった。
 見回すと、八畳くらいの部屋で、隅には行李や長持ちが無造作に置かれていた。
 下におりる階段は、すぐそばにあり、下をのぞいてみたが、やはり人けはなかった。
 梯子段を、ふみはずさないように慎重におりると、そこも、板敷きの、物置きのような部屋だった。行李、長持ち、陶器でも入っているような小さな木箱、あとは、掛け軸やら花瓶などが、ろくに手入れもされずに乱雑に積み重ねられていた。
 先には、土間があって、そこのわきにある戸が出入口のようだった。
 家というより納屋のようで、建てられてからもうずいぶん経つのだろう、壁も床も黒ずんで埃っぽかったし、壁板には隙間があいていて、床も歩くたびにぎしぎしと音をたてる。
 ともかく、外にでてみようか、と出入り口に足を向かわせた。
 すると、その戸が、がたがたと音をたてて開いた。
 そこには、まだ、十歳にも満たないだろう、女の子供が立っていて、驚いた顔をしてこちらをみていた。
 着物はつぎはぎだらけで紺色の生地はずいぶん色あせてしまっているし、髪も丸めて櫛でとめているだけで、ところどころほつれた毛が跳ねていた。みるからに、どこかの商家の下女といった風体だった。
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