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続き

胡蝶、次兄を連れて帰る

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「お嬢様、しっかりしてください、お嬢様」

 軽く揺り起こされて、胡蝶は目を覚ました。
 火照った体でぼんやりしていると、心配そうな顔をした水連が覗き込んでくる。

「私……どうして……」
「お風呂でのぼせて、倒れてしまったようです。私と長話しすぎたせいですね、すみません」

 いつの間にか部屋に運ばれ、布団の上に寝かされていた。
 きちんと浴衣も身に着けており、ほっとする。

「お風呂で、蛇に噛まれたような気がしたのだけれど……」
「長く温泉に浸かり過ぎて、幻を見たのですわ」
 
 幻、という部分を強調されて、「そうかしら」と首を傾げる。

「もしくは、私の髪の毛を蛇と見間違えたのかもしれません。私の髪は長く、緑がかって見えますから」

 言われてみれば確かに。
 試しに上体を起こすと、すかさず水連が手を貸してくれる。

「まだ横になっていたほうが……」
「平気よ。それより水連さんと、話の続きがしたいわ」

 水連は苦笑いを浮かべると、

「これ以上、何もお話しすることはありません。私は虎太郎さんには不釣り合いの女ですから」

 意味が分からない。
 もしかして兄は、遠回しに振られたということになるのだろうか?

「私のことをひどい女だとお思いでしょう?」
「いいえ、そんなこと……でも、残念だわ」

 理由を知りたがる胡蝶に、水連は言った。

「私には兄が一人いるのですが、家を出てからは人が変わってしまって……そんな兄に助けを求めたのが間違いだったんです。まっとうに生きていると思っていたのに、そうじゃなかった。兄は長年、悪事に手を染めていたんです。そして先刻、逮捕されました。ですから私もここを去らなければなりません。これからは兄と二人、犯した罪の償いをしていくつもりです」

「まあ、そんな……私、兄に何て説明すれば……」
「その必要はありませんよ、お嬢様。私のことなど、すぐに忘れてしまいます」

 水連のことを語る虎太郎の顔を思い出して、そんなことはありえないと思ったが、彼女があまりにも悲しそうな顔をするので、何も言えなかった。黙り込む胡蝶を見、話は終わったと思ったのか、水連は立ち上がると、おもむろに戸口の方へ向かう。

「それではこれで失礼します。どうぞ虎太郎さんに、今までありがとうございましたとお伝えください」




 ***




「いけがみすいれん? お客様、申し訳ありませんが、この旅館には、そういった名の女中はおりません」

 ぽかんとした女将の顔を見て、胡蝶は戸惑ってしまう。

「そんなはずありませんわ。だって……」
「お客様、失礼ですがどなたかと勘違いされているのではありませんか?」

 女将は困ったように答えると、人に呼ばれてどこかへ行ってしまった。
 他の女中に訊ねても皆口を揃えて、そんな名前の女中はいないという。

 ただ、もう一度水連に会って、話がしたかっただけなのに。

 ――誰も水連さんのことを覚えていないなんて……おかしいわ。

 胡蝶は混乱しながらも、虎太郎を探した。
 すると、


「虎太郎さんなら、駅のベンチで寝そべっていますよ」



 後ろから近づいてくる気配に驚いて振り返れば、そこに一眞がいて、息が止まりそうになる。

「到着が遅くなって申し訳ありません、ご無事でなによりです」
「一眞さん、私、何が何だか……」

 混乱する胡蝶を近くにある休憩所へ連れていき、座らせると、

「話してください、胡蝶。何があったんですか?」

 胡蝶は一眞に全てを話した。
 すると彼は考え込むように顔を伏せると、

「おそらく催眠術か何かで、皆の記憶を消したのでしょう」
「そんなこと、できますの?」
「混ざり者であれば、そのような能力を持つ人間も中にはいるでしょう」
「でも、だったらなぜ私だけ、彼女のことを覚えているのかしら」
「貴女にだけは、忘れられたくなかったのかもしれません」

 喜ぶべきか悲しむべきか分からず黙っていると、

「その女に、何かひどいことはされませんでしたか?」
「まあ、とんでもない。良い方でしたわ、とても。私は好きです。不器用で、人を寄せ付けない雰囲気が、一眞さんに似ていましたもの」

 それに打ち解けてみれば、彼女はとても親切で優しかった。温泉内でウミヘビに噛まれたと思い込み、倒れた自分を部屋まで運んで介抱してくれたのは、他ならぬ水連である。そのことを話すと、「そうか、それで……」と一眞は困ったような顔をして胡蝶を見ていた。

「頭痛や吐き気はありませんか?」
「いいえ、まったく。よく眠ったからとても気分がいいの」

 一眞は頬を掻くと、「これは……殿下に報告しなければ」と弱り切った声を出す。

「ともかく、ご無事で良かった。虎太郎さんを連れて、家へ帰りましょう」

 ――そうだわ、兄さんに水連さんのことを話さないと。

 そう思い、荷物をまとめて駅へ向かった胡蝶だったが、

「なぁ、胡蝶、俺、何だってあの旅館で番頭なんかやってたんだろう?」

 虎太郎もまた、彼女のことを忘れていた。
 最初こそは、こんな残酷な別れがあるだろうかと水連のことを恨んだものだが、

 
「さっさと家に帰ろうぜ、胡蝶。やっぱり住み慣れた場所が一番だ」


 晴れ晴れとした兄の顔を見て、次第にこれで良かったのだと思うようになった。
 けれど、

「兄さん、またいつか、水連さんに会えるといいわね」
「なんだぁ、胡蝶、弁当ならやらねぇぞ。食いたかったら自分で買え」

 帰りの汽車の中で、夢中になって駅弁を頬張る虎太郎に、胡蝶は唇を尖らせる。

「兄さんっていつもそう。結局最後は花より団子なのよ」
「冗談だって、食いたきゃ好きなだけ食えよ。今日は兄ちゃんの奢りだ」

 一眞が見ている前でそんなはしたないことはできないと、最初は箸をつけなかった胡蝶だったが、次第に我慢できなくなり、

「……胡蝶、それで何個目だ?」
「三つ、兄さんこそ人のこと言えないでしょ」
「狐の兄さん、あとで金貸してくれないか? 胡蝶がよく食べるせいで、汽車賃が足りなくなるかもしれない」
「もちろん構いませんよ」
「やめてよっ、兄さんったら」

 穏やかな午後だった。
 口の端にご飯粒をつけて言い合う兄妹を、一眞は微笑ましげに眺めていた。

 
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