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胡蝶、温泉街で温泉饅頭にかぶりつく

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「ここに虎太郎兄さんがいるのね」

 汽車に乗って五時間、北部に位置する温泉街にたどり着いた胡蝶は、物珍しげにあたりを見回した。山間に隠れるようにしてあるそこは、古い町並みが残る、自然豊かな場所である。そこかしこに湯気が立ち上り、硫黄のツンっとする香りがここまで漂ってきた。

 ――こういうところって、本当に落ち着くわ。

 現在身を寄せている田舎の風景に似ているせいもあるのだろう。
 だからこそ兄もこの土地を選んだのだと思い、感慨深げに歩いていると、

「姫さん、そんなにせかせか歩かないで。せっかくの観光地なんだから、もっとゆっくり行こうよ」
 
 馴れ馴れしいと思いつつも、どこか親しみを感じる声。
 後から追ってきた青年――黒須七穂の顔を振り返って、本日二度目のため息を吐く。

「どうして一眞さんじゃなくて、貴方がついてくるのよ」
「何度も説明したじゃないか。その忙しい一眞さんに子守を押し付けられたって」
「まあ、子守ですって」
「そんなにカッカしないで。ほんの冗談だよ、お姫様」

 この男、口を開けば気に障ることしか言わないので、腹立たしいことこの上ない。

「俺が護衛役なのが、そんなに不満?」
「だって貴方、強そうには見えないんだもの」
「ひでぇ言い方」
「事実でしょ」
「なら今夜泊る旅館を予約したのは誰かなぁ? 地図もろくに読めない世間知らずのお姫様をここまで案内したのは誰でしょう?」

 さすがの胡蝶もこれには強く言い返せず、

「ごめんなさい、言い過ぎました」
「分かればよろしい」

 ――この人、絶対に私のこと、馬鹿にしているわ。

 けれど不思議と嫌いになれないのは、彼の異能の力によるものか。
 じろりと睨みつけても、彼は嫌な顔一つせず、それどころかニコニコと上機嫌で付いてくる。

「ところで姫さんは、今夜泊る宿の場所を知ってんの?」
「知るわけないでしょ」
「だったらどこへ行くつもりだよ」
「もちろん、虎太郎兄さんのところよ」

 胸を張って答えると、呆れたような視線を向けられる。

「けど知らないだろ、居場所」
「旅館で働いていると、一眞さんから聞いたわ」
「姫さん、この温泉街にいくつ旅館があると思ってんの? 三十二だよ、三十二」

 一軒一軒回れば、いずれ兄のところへたどり着けるだろうと思っていた胡蝶だったが、七穂の言葉を聞いて、「そんなに?」と目を回しそうになる。であればなおさら、こんなところでゆっくりしている場合ではない。

「けどまあ、俺のほうで当たりは付けておいたから、そんなに急がなくても平気だよ」
「なら早くそこへ案内して」
「へぇへぇ」

 いまいちやる気のない返事をしながら、七穂は胡蝶を抜かして前を歩く。
 ゆっくりとした足取りに、次第に苛立ってきて、

「遅いわ。もっときびきび歩けないの?」
「手ぶらの姫さんと違って、大荷物だからなぁ、俺」
「自分の荷物は自分で持つと、さっきから言っているじゃない」
「そんなことさせたら、俺があいつに殺される」
「一眞さんには黙っていればいいでしょ」

 直後、七穂は怯えたように周囲を見回すと、

「姫さん、頼むから、これ以上俺を困らせないでくれよ」

 弱ったような声でたしなめられて、「子ども扱いしないで」と頬を膨らませる。

「貴方だって、早くこのお仕事から解放されたいはずよ」
「さあ、それはどうかな」
「子守にはうんざりしているんでしょ?」

 あてこすりのように言えば、七穂は吹き出すように笑う。

「そうでもない。俺、こう見えて子ども好きだから」

 ――やっぱり馬鹿にしてる。

 胡蝶がいくら急かしたところで七穂の速度は変わらず、仕方なく歩調を落とす。すると自然と周囲の景色が目に入り、なぜか肩の力が抜けてしまった。見知らぬ土地へ来たせいか、それとも母と虎太郎を仲直りさせなければと、知らず知らずのうちに気を張っていたのかもしれない。
 
 ――ひと月ぶりに兄さんに会うんだから、笑顔でいないと。

 そもそも兄が気に入っていついた場所を、ろくに見ないで素通りするなんて、兄に対しても兄がお世話になっている人たちに対しても失礼である。そう思い直し、胡蝶は道中を楽しむことにした。

 すると風に乗って、何やらいい香りがしてくる。香りに誘われてふらふらと歩いていけば、入口から奥のほうまで、ずらっと軒をつらねる屋台を見つけた。飲み物屋や食べ物屋、お土産屋まである。普段、見かけないようなものがたくさん売られていて目移りしそうだ。

 よく見れば屋台で買ったものを飲食できる場所もあり、

「せっかくだから、ここで食事をしていかない?」

 近くにいるはずの七穂に声をかけるも、応える声はない。

 はっとして見れば彼の姿はなく、胡蝶は戸惑って足を止めた。
 どうやら、彼とはぐれてしまったらしい。



 ***




「あれ、姫さんどこ行った?」

 やけに後ろが静かだと思ったら、胡蝶の姿が消えていた。
 もしや誘拐されたのかと、一瞬だけ肝を冷やしたものの、

 ――いや、蛇ノ目様の部下の仕業なら、姫さんを攫う前に俺を殺しているはず……。

 なにせ自分は始末されるべき裏切り者だから。
 だからこそ今回、一眞は自分を胡蝶の護衛につけたのだ。

 いざという時、彼女に害が及ばないようにするために。

 ――本当は自分が行きたがっていたけどな。

 混ざり者は恐怖を感じるが否かで相手の力量を図る。
 そもそも勝ち目のない喧嘩はしないのだ。

 龍堂院一眞がこの場にいれば、その気配だけでたいていの者が尻尾を巻いて逃げ出してしまう。
 しかしそれでは、皇子殿下の作戦が台無しだ。

 ――せっかくおびき寄せた獲物を逃がしたくはないからな。

 それで混ざり者としては非力で、尚且つ蛇ノ目関係者から恨みを買っている自分がこの場にいるわけである。ようするに相手からしてみれば、鴨がネギをしょって現れたようなものだろう。

 ――いうなれば姫さんが鴨で俺はネギ……ってところか。

 想像したら腹が減ってきた。
 それはともかく、

 ――早く姫さんを見つけねぇと。

 事の詳細を逐一上に報告する義務があるのだ。

 護衛対象からけして目を離すな、しかし胡蝶の姿をじっくり見つめるのは許さない――どっちだよ――と一眞からもきつく命じられている。もしこのことが奴にばれたら――今は考えるのはやめておこう。

 気を取り直して、来た道を引き返す。

 ――今のところ、近くに混ざり者はいないようだ。

 用心深く辺りを気配を探りながら進んでいくと、食欲をそそるいい香りがしてきた。
 もしやと思い、香りのする方へ足を向ける。

 案の定、ほくほく顔で温泉饅頭にかぶりついている胡蝶を見つけた。
 こっちの気も知らないで、楽しそうにしている。

「姫さん、俺の分も残しておいてくれよ」


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