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その後の話
胡蝶、お誕生日デートを満喫する
しおりを挟む「どうしよう、かあさん、この着物でいいかしら? それとも、もう少し華やかなものに変えたほうがいい?」
そわそわと落ち着きなく鏡を覗き込んでは、身だしなみを整えている胡蝶に、大衆新聞を読みふけっていたお佳代は呆れたように答える。
「少しもおかしなところなんてありません。お嬢様ったら、これで五度目ですよ」
「だって……」
「もうすぐ龍堂院様がお越しになりますから、観念なさいまし」
そうは言われても気になるものは気になる。
婚約後、一眞のご両親に会って挨拶したし、旅行へも行った。けれど誕生日のお祝いデートは初めてで、自然と頬が緩んでしまう。今日で20になる胡蝶のために、一眞がわざわざ休みをとってくれたのだ。
「あら、一眞さんがいらしたわ。それじゃあ、かあさん、行ってきます」
「帰りは遅くなるんですか?」
「ええ、お夕飯は食べて帰るから。虎太郎兄さんの分だけお願いね」
「分かりました。くれぐれもはしゃいで転んだりなさらないでくださいね」
「私、そんなに子どもじゃないわ」
言っているそばから廊下で転びそうになったものの、足に力を入れてなんとか踏みとどまると、その様子を微笑ましげに眺めている一眞に笑顔を向ける。
「準備はよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
厚めのショールを羽織り、彼にエスコートされながら外へ出ると、
「あら、いつもの車と違うわ」
「今回は私用なので」
「でしたら一眞さんが運転なさるのね」
胡蝶は喜んで助手席に座ると、物珍しげに車内を見回す。
「ホント、一眞さんの匂いがするわ」
「……窓を開けましょうか?」
「いいえ、このままで結構よ」
目的地はあえて聞かず、胡蝶は街までのドライブを楽しんだ。まもなく車が停まり、一眞が先に降りた。飛び出したいのをぐっとこらえて、貴族の娘らしく、扉が開くのを待つ。
「ここは?」
差し出された手を軽く取って降りると、目の前には西洋風の建物が建っていた。
「洋服店です。従姉妹のお気に入りの店で、何度も買い物に付き合わされました」
一眞の従姉妹、百合子ゆりこには一度だけ会ったことがある。まだ学生だが、絵に描いたようなモダンガールで、それはそれは可愛らしい女性だ。断髪した頭にクロッシェと呼ばれる帽子をかぶり、丈の短いスカートを履いて、すらりと伸びた長い足を魅力的に見せていた。
実を言えば、あまり洋服には魅力を感じないのだが、彼の好意を無下にしたくないと思い、
「そういえば、一眞さんの私服も洋装でしたわね」
興味のあるふりをする。
紫苑も普段から洋服を好んで着ていた。
「和服も嫌いではないですが、いざという時、洋服のほうが動きやすいので」
なるほどと頷く胡蝶の手を掴むと、
「胡蝶も試してみてください」
にこやかに言い、慣れたように店内に入っていく。
するとすぐさま、
「まあ、これはこれは龍堂院様」
「よくお越しくださいました」
「百合子様はお元気?」
お得意様らしく、すぐさま華やかな店員たちに囲まれてしまう。
「あら、そちらの女性は?」
「もしかして花ノ宮家の……?」
さすがは商いのプロ。
胡蝶のこともひと目見ただけで誰か分かったらしい。
「初めまして、胡蝶と申します」
「彼女に似合う服を見繕って頂けませんか?」
直後、ぱあっと瞳を輝かせた店員たちを前にして、胡蝶は逃げ出したくなった。けれど一眞に手を掴まれたままなので、動くに動けない。仕方なくじっとしていると、あれよあれよという間に試着用の服が積み重なっていく。
「一眞さん、ごめんなさい、私にモダンなものは似合わないと思うわ」
足が長く、スタイル抜群の百合子を思い出して、胡蝶は怖気づいてしまう。そもそも、いくら婚約者だからといって、まだ結婚もしていない相手に服をねだるなんて恐れ多いと、胡蝶は必死に「いらない」アピールをした。今は手持ちの服で十分だと。しかし一眞は聞く耳持たず、
「着るだけ着てみてください」
熱心に勧められ、気づけば試着室に押し込まれていた。
これでは逃げられない。
やむを得ず既製品を試着してみたところ、締め付け感がなく、まるで何も着ていないような錯覚に陥ってしまう。良く言えば開放的で動きやすい作りになっているが、着慣れていないせいか違和感がある。あまりの心許なさに落ち着かず、「やっぱり私には合わないわ」と胡蝶は早々に服を脱いでしまった。
「気に入りませんでしたか?」
「ごめんなさい、一眞さん、着慣れていないせいか、落ち着かなくて……」
「でしたら店を変えましょう」
あっさりとした一眞の態度に、胡蝶のほうが戸惑ってしまう。
「でも何も買わずに出るのも店の人に失礼なので……胡蝶、服がダメなら靴はどうですか? 例えばブーツとか」
「ぶーつ、ですか?」
「草履よりも歩きやすいし、今は和装に洋装の小物を取り入れるのが流行りみたいですよ」
そういえばお茶会の席で、そんな話を聞いたような……。
結局、商売熱心な店員たちの口車に乗せられてしまい、一眞に三足も靴を買わせてしまった。その上、レースの日傘や肩掛け用のおしゃれなショール、ハンカチまで。
――私ったら、一眞さんに散財させてしまったわ。
車の中で青くなっていると、
「よし、次はここにしましょう」
着いた先は老舗の呉服店で、「まさか」と胡蝶はめまいを覚えた。
「祖父の代からうちの家が贔屓にしている店で、ここならきっと胡蝶も気に入ると思います」
またもや強引に手を掴まれ、勝手知ったる我が家のように中へ入っていく。
すると即座に気づいた店の主人らしき中年女性がいそいそと近づいてきた。
「いらっしゃいま……まあ、龍堂院家のお坊ちゃんではありませんか」
「お坊ちゃんはよしてくれ」
「これは失礼いたしました、旦那様。それで、今日はどのようなものをお探しですか」
「……こちらの女性に似合うものを」
女性はちらりと胡蝶を見ると、
「まあまあ、花ノ宮侯爵家のお嬢様ではありませんか。この度はご婚約おめでとうございます」
「私のことをご存知なんですか?」
「それはもう……」
意味深にちらりと一眞を見ると、
「龍堂院家の方々にはいつもご贔屓にして頂いておりますから」
苦虫を噛み潰したような顔をする一眞とは対照的に、店主はおほほと嬉しそうに笑って「ではどうぞこちらへ」と奥の部屋へと案内してくれる。
するとそこには色とりどりの反物が敷き詰められていて、胡蝶は息を飲んだ。
花ノ宮家にいた頃は自分で自由に買い物などできなかったし、着物や持ち物――見合いの席で着るもの以外――は全て麗子が選んだ地味で目立たないものばかりだったので、着物がこれほど色鮮やかで美しいものだとは知らなかった。
「これは、迷うな」
「こちらなんかどうでしょう? 深い青色ですが、お嬢様の濃い黒髪が映えますわ」
いくつか既製品もあり、張り切る女主人の前で、胡蝶は着せ替え人形と化していた。最初こそは反物の値段を知って尻込みしていたものの、女主人がこれでもかというほどお世辞を言って持ち上げてくれるので、途中からまんざらでもない気持ちになってくる。
「この花柄模様、素敵ね」
「藤の花ですわ。花はお好き?」
「ええ、とっても」
「他にも椿や朝顔、百合や梅の花と、季節に合わせて様々な模様がございますのよ。ぜひお試しになって」
やはり洋服よりも和服のほうがしっくりくると、鏡を見ながら胡蝶は浮かれていた。そこから少し離れた場所では、一眞が座ってお茶を飲みながら、店主を呼び止めていた。
「どうやら楽しんでくれているようで、助かった」
「ええ、花柄の着物をいたくお気に召しようで……」
「彼女が気に入った反物は全て仕立ててくれ。それに合わせて帯や小物も見繕ってくれると助かる」
「さすがは龍堂院家の若旦那様、お買い上げありがとうざいます」
***
「お待たせしてごめんなさい、試着に時間がかかってしまって」
「俺から誘ったんですから、どうか気になさらず。それよりお腹減りませんか?」
呉服店での買い物が終わると、夜遅くまで営業している「カフェー」へ向かった。そこで夕食を摂ることになったのだが、渡されたメニューを見て、胡蝶の気分が一気に上がる。
「一眞さん、このアイリッシュシチューというのは何ですか?」
「羊の煮込み料理です。美味しいですよ」
「カフェーに来るのはとても久しぶりだから、嬉しいわ」
メニューを指差して浮かれる胡蝶に、一眞も嬉しそうな顔をする。
「せっかくなので色々と試してみましょう」
そう言って、一眞は慣れた様子で料理を注文していく。
まもなくして、卵のオムレツやローストチキン、イタリアンマカロニやビーフスープ、ベイクドポテトにアイリッシュシチューと、とても食べきれない量の食事が次々と運ばれてくるので、胡蝶は慌ててしまった。
「二人でこの量は多すぎます」
「食べきれなかったら残せばいい」
「そんなもったいないことできません」
結局、残ったものは店員に包んでもらい、家に持ち帰ることにした。貴族の娘としてはあるまじき行為だが、農家で生まれ育った者としては、これだけは譲れない。
「羊料理なんて滅多に食べられないから、母が喜ぶわ」
帰りの車の中、ほくほく顔の胡蝶を見て、一眞は目を細める。
「今日は楽しかったですか?」
「楽しかったわ。一眞さん、今日は本当にありがとう」
「俺も楽しかったです」
お腹がパンパンになるまで食べたせいか、それとも昨夜、興奮してあまり寝付けなかったせいか、会話が途切れると、ついうつらうつらしてしまう。
「眠ってもかまいませんよ、着いたら起こしますから」
「そんなもったいないこと、できません」
カフェーでも同じことを言った気がするが、束の間、我慢できずに眠りこけてしまったらしい。一眞に揺り起こされて目を開けると、そこはまだ家ではなく、
「ここからは少し歩きましょう。食後の散歩に付き合ってください」
一眞の、温かくて大きな手に引かれながら胡蝶は歩き出した。眠気が完全に覚めていないせいもあり、婚約者と手を繋いで散歩するなんて素敵だわと夢見心地になる。
「まだ眠いですか?」
「いいえ、ちっとも」
「そのわりに足がおぼつかないようですが」
苦笑され、優しく抱き抱えられて、胡蝶は素直に身体を預ける。
「しっかり捕まっていてください」
「一眞さん、これだと散歩にならないわ」
「俺にはいい運動になります」
うとうとし始めた胡蝶の耳に、一眞の優しい声が届く。
「……このまま家に連れて帰ろうかな」
「今、なんて、おっしゃいましたの?」
「うちが見えてきましたよ」
地面を擦るような忙しない足音が聞こえたと思えば、
「お帰りなさいませ、龍堂院様。まぁまぁ、お嬢様ったら、まるで子どもみたいに……」
呆れ返ったお佳代の声を聞きながら、胡蝶は再び夢の世界へと旅立っていくのだった。
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