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続き
花ノ宮伊久磨の言い分
しおりを挟む貴族の社交界では悪妻、悪女呼ばわりされている母だが、最初からそうだったわけではない。花ノ宮家に嫁いできたばかりの頃は、大人しく地味な女で、女主人としての威厳は何も感じられなかったと、伊久磨は乳母から聞かされていた。
――母が変わったのは、父上のせいだ。
昔から、父の女道楽に母は泣かされていた。国の要職に就いているため、表立って女遊びはしないものの、外で幾人もの美しい愛人を囲っていたのは身内の誰もが知っていた。
最初は見て見ぬふりをしていた母だったが、子どもを産んで自信を得たのか、ある時、夜遅くに愛人宅から帰宅した父を責めたことがあった。女としてのプライドを傷つけられたと言って喚く母を、父は二、三度頬をぶって黙らせると、何事もなかったかのように食事の席についたそうだ。
『あの人は、妻を妻とも思わない、人でなしよ』
そう言って泣きじゃくる母を、伊久磨は子どもの頃から何度も見てきた。母が少しでも愛人のことでヒステリーを起こしたり、父を責めたりすると、父は容赦なく母に暴力を振るった。父の虫の居所が悪い時には、気絶するまで殴られて、病院に運び込まれることもあった。
母は次第に口数が減って、父のことを怖がるようになっていった。
家族に何の相談もなく、父が妊娠した愛人の一人――胡蝶の母親を家に連れてきた時も、妾にすると言って彼女を家に住まわせた時も、母は何も言わなかった。代わりに、腸が煮え返るような怒りの矛先は父ではなく、妾に向けられた。
父の不在を狙って、母は妾の部屋へ行き、身重の彼女に罵詈雑言を浴びせた。直接手を下すことはなかったものの、お妾様が早死したのは母のせいだと言う使用人も少なくなかった。このことに危機感を覚えた父によって、貴族の古い慣習が持ち出され、生まれた子は早々に里子に出された。
けれどそのおかげで、しばらくの間、花ノ宮家には平穏が訪れた。
――そして母は、あの男に出会った。
蛇の目をした、混ざりもの。
あの男に出会って、母は変わった。
派手な着物を着て、厚化粧をし、時に滑稽なほど、きらびやかに自身を飾り立てた。
そんな母の姿を見て、親族たちは外聞が悪いと眉をひそめ、実の娘である摩璃子ですら、母のことを年甲斐もないと心底馬鹿にしていた。けれど伊久磨は違った。むしろこの変化を喜んでいた。
――母上も好きなことをすればいいんだ。父上と同じように。
そうすればもう二度と、父に殴られる母を見なくて済む。
自分の心にも平穏が訪れると、そう思っていたのに。
伊久磨は母の寝室を訪れると、軽く扉をノックした。
まもなく、「お入りなさい」という声が聞こえて、部屋の中に入る。
「母上、ご気分はいかがですか?」
「悪くないわ。お前がいつも良くしてくれるから」
娘には冷たいが、跡取りである息子、伊久磨にはとても優しい母である。子どもの頃から溺愛されて育ったせいか、伊久磨はどうしても、母を悪く思うことができなかった。
「ですが車椅子生活だと、何かと不自由でしょう」
「それは、そうね」
「以前プレゼントした男はどうでしたか? 気に入ったのなら、またホテルを予約しましょう」
「ああ、伊久磨……そのことなのだけど……」
「気に入りませんでしたか? だったらもっと年の若い男を――」
やめて、と今にも消えかかりそうな声で母は言った。
「お前の気持ちは嬉しいのだけど、もうやめてちょうだい」
「どうして?」
「一緒にいるところを知り合いに見られたわ」
「それで?」
「世間の目というものがあるでしょう? 恥ずかしいわ」
そんなの今さらだと思ったが、暗い目をして肩を落とす母を見、「ああ、まただ」と伊久磨は歯ぎしりする。以前の卑屈で、自信のない母に戻ってしまった。
こんな母の姿は見たくなくて、
「世間の目なんてどうでもいい。他人によく思われる必要なんてない。父上を見れば分かるでしょう?」
それでも母は下を向いたまま、こちらを見ようともしない。
「新しい愛人を作れば、また元気な母上に戻れます。約束しますよ」
「ごめんなさい、伊久磨。ごめんなさい」
しまいには泣き出してしまった母を見下ろしながら、伊久磨は懸命に考えていた。どうすれば以前の華やかで、強気な母を取り戻せるのかと。そして思いついた。
――蛇男とよりを戻せばいい。
混ざり者であるという以前に、容姿も雰囲気も何もかも気に入らなかったが、少なくともあの男は母に自信を与えてくれた。そばにいてくれた。
――けれど父上は許さないだろう。
混ざり者たちのことを蔑視しているし、その件で陛下に叱責されたことをまだ根に持っている。母が怯えて寝室に閉じこもっているのもそのせいだ。父と顔を合わせずに済むから。
『早く伊久磨が当主になればいいのよ。そうすれば、この屋敷はもっと居心地よくなるわ』
身勝手な姉の言葉を思い出して、伊久磨はため息をつく。
言うは易し行うは難しである。
――少しでも同情すると、すぐに付け上がる。
双子だからといって仲がいいとは限らない。摩璃子は自分をどう思っているかは分からないが、伊久磨は、昔から鈍くさくて要領の悪い姉のことを可哀想だと思っていた。親のいい所は全部自分が吸い取ってしまったから、悪い所は全部、姉のところへいってしまったのだと。
――それでもたまにはいいことを言う。
伊久磨はある決意を胸に、母の部屋をあとにした。
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