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続き

それは血ではなくケチャップです

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 こういう時こそ冷静でいなければと思うのに、頭が働かない。目の前の光景を受け入れることでいっぱいいっぱいで、息をするのも苦しい。



「――かあさんっ」



 朝起きて台所に入ると、母が血まみれで倒れていた。

 一体何が起きたのか、訳がわからないまま母の身体に取り縋る。





「かあさんっ、かあさんっ」





 胡蝶の悲鳴を聞きつけて、一眞が風のように勝手口から入ってきた。

 彼はすばやく視線を走らせて、現状を把握すると、





「胡蝶様、どうか離れて。母君の身体を揺すってはいけません」

「でも……でも、こんなに血が流れて……」

「それは血ではありません。ケチャップです」



 言われてみれば確かに。

 手触りも匂いも、ケチャップ以外の何ものでもない。

 

「いやだわ、私ったら……」

「おそらく料理の最中に足を滑らせて転倒したのでしょう」



 そういえば、以前から膝が痛むと言っていたから、そのせいもあるのかもしれない。冷静な彼の声を聞いていると、自然と気持ちが落ち着いてきた。



「たったら大したことはないのね?」

「頭を打っている可能性もあるので、すぐに医師に診せたほうがいいかと」



 再び不安が頭をもたげ、胡蝶は母の手を強く握りしめる。



「虎太郎さんは今どちらに?」

「朝の仕事に出かけていません」

「でしたら俺が病院に連れて行きます。医師を呼びに行くよりそのほうが早いでしょう」

「私も一緒に行きます」

「同時に二人も運べません。胡蝶様はここでお待ちください」



  

 自分も付いていけば足でまといになると思い、胡蝶は泣く泣く一眞の指示に従うことにした。母は転んだだけで、命に別状はないのだと自分に言い聞かせるものの、時間が経つにつれて悪いことばかり考えてしまう。



 

 ――もしもかあさんが頭を打っていたら? 

 ――そのまま入院になるのかしら。

 ――最悪、目覚めないまま寝たきり、なんてことにも。





 胡蝶は心配でいてもたってもいられず、家の中を歩き回っていた。



「卯京兄さんのこと、まだ何も話していないのに……」



 こうなると分かっていたら、母を連れて店に行ったものを。

 

 ――そうだわ。卯京兄さんに知らせなくちゃ、今すぐ。



 虎太郎や辰之助には書置きを残しておけばいいだろう。胡蝶は大急ぎで出かける準備をすると、家を飛び出し、駅のほうに向かって走り出した。

 


 ***




 ――やっと着いた……。





 後先考えずに家を出てきたので、まさかこれほど時間がかかるとは思ってもみなかった。銀街にある「浅き夢見し」の前で胡蝶は立ち止まり、息を整える。



 ずっと小走りで移動していたので、息は上がっていたし、足も痛かったが、病院で治療を受けている母のことを思えば、少しも苦にはならない。

 

 店に入ると、出迎えてくれた女給に言った。



「お仕事中に申し訳ありません、私、柳原卯京の妹、胡蝶と申します。身内に不幸がありまして、急ぎの用で参りましたの。卯京兄さん……兄は今どちらに?」



 気が焦って早口になってしまったせいか、女給はきょとんとしている。



「うきょう? 兄? そんな人、ここにはいませんけど」



 困ったように首を傾げられて、そういえば兄はここでは女性として働いていたことを思い出す。当然、周りも彼のことを女性だと思っているはずで、

 



「あらいやだ、名前を間違えてしまったみたい。探しているのは兄ではなく、姉ですの。この店で働いている……名前は何だったかしら、うろろ? うりり? ダメだわ、思い出せない」





 不安と焦りで、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。このままでは不審者扱いされて、店から追い出されかねない。その前に兄に会わなければと、胡乱げな女給を押しのけて店の奥へと走った。





「卯京兄さんっ、どこなの? いたら返事してちょうだいっ。卯京兄さんっ」





 奥へ行けば行くほど何やら怪しい声が聞こえるが、一体彼らは何をしているのか。いやそれよりも今は、卯京を見つけることが先決だと声を張り上げる。





「卯京兄さんっ、いないの?」





 それにしても、奥の席はどうして分厚いカーテンで仕切られているのだろう。個室めいた雰囲気を出したいのだろうか。思い切って近くのカーテンを開けてみたところ、そこにはにやけた中年男性と半裸の女給がいて、思わず固まってしまった。





 この人たちは一体何をしているの? 

 食事をする場所で、どうして服を脱ぐ必要があるのかしら。。





「このお馬鹿っ、そんなとこで何してんのよっ」





 幸い、近くに卯京がいて、助け舟を出してくれた。





「お客様、申し訳ございません。どうぞアタクシたちのことは気にせず、お楽しみ遊ばせぇ」





 胡蝶をかばうようにして後ろの下がらせ、ニコニコ顔でそっとカーテンを締める。しばらくして、カーテン越しに女性の悩ましげな声が聞こえてきたが、胡蝶はそれどころではなく、「卯京兄さん、会えてよかった。ずっと探していたのよ」と涙ながらに兄に訴えていた。





「だーかーらー、その名前はここじゃ禁句だって言ってるでしょおっ。ってかあんた、ここには二度と来るなってあれほど――」



「卯京兄さんっ、大変なの。かあさんが……かあさんが……っ」

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