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症状七、免疫力をつけましょう。
症状七、免疫力をつけましょう。③
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「珈琲を一つ」
小顔に見える大きなサングラスをして、ランチのピークの後にやってきたのは茜さんだった。
「いらっしゃいませ。畏まりました」
彼女はいつもの余裕のある笑顔だったけれど、私はもう不安に心を掻き乱されることは無かった。緊張はしてしまって珈琲を渡す手は震えてしまったけど。
「颯真の調律している時の顔が格好良くて声をかけたの。一緒に歩くと自慢になる見た目だし連れ回してたのよね。颯真も私のコンサートとかで人脈広げられてたし、私は颯真にエスコートされたら気分がいいし、で。お互い利用し合ってただけ」
珈琲に砂糖もミルクも入れないのに、手持無沙汰のようにスプーンで中を掻き混ぜる。
その姿は、いつも煌びやかで注目の中心にいる彼女の儚げに隠された弱い部分だった。
「触れてきたことは、ないよ」
サングラスで表情を隠しながら、転がすように言う。
「何度も仕掛けたけど、かわされちゃった。でもそれが正解よ。面倒くさい女だもの、私。きっと仕事より自分を優先してちやほやしなきゃ、許せないし」
「茜さん」
「だから、私を違う形で颯真の中に居たかったから、本のモデルに頼みこんだの。その時に、あのピアスをいつも付けてたから本に登場してって頼んだ。彼の記憶には残らなくても、――本の中には残るから」
プライドが、彼女の素直になりたい心を邪魔していたのかもしれない。
美貌も、才能も、名声もある彼女に、颯真さんが靡かなかったのだから。
「でも本当に残念。『オーベルジュ』の御曹司だなんてさ! これなら猛アタックすれば良かった! 玉の輿じゃん。仕事しなくても一生遊べるじゃん。あーあ。すっごい悔しい。ただの調律師時代にもっと優しく健気に面倒見てやればよかった」
サングラスを外して、ケースにも入れずに無造作にカバンに突っ込むと、珈琲に口も付けずに立ち上がった。
「なんてね。それでも、颯真は貴方だけなんだろうね。ご婚約おめでとう! 色々失礼してごめんね。もう来ないから」
ふっきれたと言わんばかりに腕を組み、私を見下ろしながら笑う。
「結婚式、高いけど弾いてあげるから。依頼してね」
爪先から頭まで完璧で隙のない彼女は、唯一ネイルもされていない手を振りながら会計へと向かう。
わざわざ、今までの事と、誰かから聞いたのかお祝いを言いに来てくれたんだ。やはり彼女は完璧で、私なんて足元に及ばない素敵な人なんだと思う。
「あ、――あと今日はあのグランドピアノないのね」
帰り際、気になる一言を残して言ったけど。
「もうあれ、調律じゃなくて修理ださなきゃ、酷い音だったよ」
17年以上も、音を奏で続けた私の思い出のグランドピアノに、決定打の一言を言って、去って行った。
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