ぱらぱら 初恋交換ノート

篠原愛紀

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七、覚えて忘れないで

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 ***
 誕生日の日、朝、妹二人にクラッカーで起こされて驚いてベッドから落ちるかと思った。
 妹二人が、料理本を見ながら、一生懸命に作ってくれたのはパンケーキ。
「お姉ちゃん、誕生日おめでとう」
「これ、二人で選んだんだよ」
 二人はイヤリングをくれた。ホワイトとブルーの紐で三つ編みに編み込んでリボン結びにしているマリンカラーのイヤリング。ハンドメイドで片耳ずつ作ってくれたと自慢げに説明してくれた。
「ありがとう。すごい可愛い!」
「もう中学生なんだから、ちょっとはお洒落しなきゃでしょ」
「う」
 お洒落、ね。妹二人は結構流行に敏感で、可愛い服をよく着るし似合う。
 でも私は伊藤と二人に比べたら地味な顔立ちだから、可愛い服を着ても似合わないだろうしなあ。
「じゃあ、これはお母さんから」
「え」
 そういえば今年はスマホ没収が頭の中でいっぱいで、欲しいものがとくに浮かばなかったっけ。
 母がくれたのは、水色のロングワンピース。胸元をリボンで締め付けて、くしゃっとした皺加工のワンピース。
 妹二人が作ってくれたイヤリングによく似合う。
 鏡越しに合わせてみても可愛い。可愛いけど、私に似合うか不安だ。
「私にこれって似合う?」
「着てみればいいじゃん」
 三人に促され、恐る恐る着替えた。
 胸元でリボンが揺れて、後ろを見ようと振り返るとスカートがふんわりと丸く風を吸って膨らむ。可愛い。暑い夏でも、涼しくなりそうな爽やかで甘くなり過ぎない服。
「これ! これでちょっと出かけてもいい?」
「もちろんよ」
 妹二人に可愛いと言われ、少し自分でも可愛いのではないかと錯覚してしまった。
 学校は制服で行かなきゃと思っていたけど、この前は旧図書室まで誰にも会わずに行けたから私服でも大丈夫な気がする。
「あと、夏空、これ」
 母が渡してくれたのは、没収されていたスマホ。
 実に半月ぶりぐらいの再会だ。私の中ではもう何十年も会えていなかった親友と再会した嬉しさが押し寄せてくる。
「わあ、ありがとう!」
「もうスマホばっか弄って勉強を疎かにしないでね」
「もちろんです!」
 すぐ調子に乗る、と母に呆れられたけど私には今、そんなことはどうでも良かった。
 半月ぶりの携帯は、電源をいれると電池が赤くなっている。でも電源が入るだけでも嬉しい。今は充電している時間さえ惜しかったから。
 携帯充電器と携帯電話と、プリントの宿題を持って、学校へ向かった。
「夕方のケーキまでには戻ってくるから」
 私がそういうと、母はエプロンをつけて泡だて器を手に頷いた。
 ケーキは母の手作りだから、楽しみ。
 今年は生チョコケーキとリクエストしてみたんだ。
 
 ***
 玄関から一歩外にでると、むんとした熱い日差しに皮膚が焼けそうだった。
 じりじりと焼ける中、学校へ向かう。
 どきどきした。大地くんに会える。
あれだけ悲しくてもう会えないと思っていた相手だ。会えるのが嬉しいという感情が持てるだけでも幸せ。
……このワンピース、可愛いって褒めてくれるかな。
 大地くんってお世辞とか言えなさそうだから、素直な感想を言ってくれそう。
 そこでお祝いしてもらって、スマホのメールアドレス交換して、メッセージアプリも友
達になってもらえたら、夏休みに会えなくてもメッセージ交換できる。
 部活で忙しいけど、けど私のメッセージは未読にしないよって宣言してもらえたから、
睡眠の邪魔にならない程度には、メッセージを送りたい。
 身体が熱いのは、きっと夏のせい。
 今年一番の最高気温だって言っていた気がするし。
 落ち着かない。はやく大地くんに会いたかった。
 学校の校門で誰もいないことを確認してから、旧図書室のある校舎へ向かう。
 生徒会室は今日もドアが開いていて、何人かの生徒が出入りしていた。
 そとの運動場もテントの下に沢山部活生が見える。
 そこで蝉の声を聞きながら、渡り廊下を横切って旧図書室へ向かう。
 中に入ると、むわっと熱気が広がっていたので、冷房を付ける。
 このむわっとした空気も、かび臭い生温かい冷房ももう慣れてしまったなってしみじみ思う。
 窓を開けようか悩んだけど、ここに誰かいるのを外から気づかれたくなくて、冷房だけ
にした。
 大地くんはまだ来ていなかったので、机に座って外を眺める。
 何時ごろに来るかな。外では陸上部は練習しているけど、サッカー部は練習していない。
ってことは今日は休みなのかな。
だったらすぐに会いに来てくれるかな。
 それまでは宿題の数学のプリントでもしていようと、カバンからプリントを取り出す。
「あっ」
 取り出すときに筆箱をカバンから落としてしまって、机の下に頭をいれ、奥まで転がっ
た筆箱を掴む。
 すると、机の引き出しの裏に相合傘が書いているのが見えた。
 相原雅人
 御園水音
「――これ」
 お兄ちゃんと彼女だ。彫刻刀で削ったように掘られている。
 流石に彫刻刀で刻まれた文字は、誰が書いたか判別できない。
 でも兄の字なのかな。信海くんの字にも少しだけ似てる気がした。
 この旧図書室は、兄と水音さんの思い出が沢山刻まれている気がした。
 私にはまだ分からないような、二人だけにしか分からないような。
 座り直して、引き出しにしまっていたノートを取り出す。
『君と話がしたい』
『夏になった日の、朝の匂いが好きだった』
『私は、朝起きて貴方の文字を読み返すのが好き』
『ありがとう。私のお願いを叶えようとしてくれて』
『お礼はこのノートを書き終わるまで、言わないで』
『誰かお願い。私の代わりに彼のために、書いてね』
『もう一度会いたかった』
 雅兄と信海くんと女の子の字。
 なんだろうか。不思議で、そしてどこか胸を締め付けられる。
 この最後の文字だけは、最近書かれているようにも思える。
『貴方の心の声を聞かせて下さい』
『夏空の綺麗な字が大好きだ』
 私と大地くんの文字だけは、その三人の世界から切り離されていて、別世界のように思えた。
『私は』
 そう書いたあと、どうしていいか分からなくてノートにぐちゃぐちゃの線を書いた後、どうしようもない行き場のない心が溢れてしまった。
『私は、大好きな人たちが幸せだと嬉しい』
『なぜなら私は皆のおかげでしあわせだから』
 だから次のページも使って、本音を書いた。
『だから、貴方は今、ちゃんと笑っていますか』
 このノートに書いた人たち全員、今笑っているのかな。幸せに笑っているかな。
 私は--くしゃっと笑った大地くんの笑顔も好き。
爽やかに笑う信海くんの笑顔を見ると、抱き着きたいほど甘えたくなる。
 どちらも好きなの。だからすっきりしないんだ。
 今、信海くんは何を考えているんだろう。
 今、信海くんは、幸せなんだろうか。
 私が今、幸せで満たされているからそう思ってしまうんだ。
 ノートに書いたあと、閉まって机に突っ伏した。
 雅兄たちに何があったのか分からない。
 でもあと数年したら、理解できるのか。理解できる気もしない。
 だから教えてほしい。教えてほしいよ、信海くん。
 宿題のプリントは一門も進まない中、太陽の位置が右から左に移動していく。
 カーテンの影が、床に落ちていく。段々と長く深く伸びていく。
 段々と、段々と。
 携帯充電器で充電していたスマホは、とっくに百パーセントになっている。
 時計はもう五時を回っていて、そろそろ帰らないと家で待っている妹たちが心配すると思う。
 一言、母にメールすれば大丈夫だろうけど、何をメールすればいいか考えはまとまらなかった。誕生日に、一目でも大地くんに会いたかったな。
 この空間で、会いたかったな。
 でも何かあったのかもしれない。
 こんな時に連絡出来たら安心できたのに。
 ……会いたかったな。
 じわっと涙がこみ上げてきそうで慌てて頭を振った。
『今日はもう帰ります。良い夏休みを過ごしてね。レポート頑張って』
 シャーペンを走らせ、あのノートを伝言ノートに使うと、椅子から立ち上がった。
 これで夏休みはもう会えないかな。
「……いや、違うか」
 スマホが戻ってきたんだから、大地くんに会えないなら信海くんに連絡先を教えてもら
えばいい。
 大地くんは、未読メッセージが多いから見てもらえずに未読の中に埋もれてしまったら、
それまでだ。
 見たいほどの相手じゃないと分かるんだから。
 そっか。自分から誰かに連絡先を聞けばいいだけ。
 今日、会えなかったのはきっと何かがあったんだと思う。
 そう思うことにしよう。
 少しだけ落ち込んでしまったけど、これで終わりなわけではない。
 重い足取りだったけれど、別に生涯の別れでもないかと気を取り直していた。
「夏空――っ」
「え?」
 旧図書室から出た瞬間、松葉杖を突きながらこちらへ向かってくる大地くんを見つけた。
「大地くんっ」
「悪いっ」
 私の正面まで松葉杖で歩いてくると、必死で息を整えていた。
 息を整える彼は、汗だくで急いで来てくれたのが伺えた。
「大丈夫?」
「駅からバス使って、でも渋滞してたからめっちゃ歩いた。走れたらもっと早く着いたんだけど」
 汗を拭った彼は、くしゃっと笑った。
「誕生日おめでとう。遅くなってごめんな」
 首に下げていたカバンから、ラッピングされたプレゼントをくれた。
「ええ、プレゼントまで!」
「お祝いするって言ったろ」
 当たり前じゃんと笑った彼の顔が眩しくて、プレゼントに視線を落とした。
 うわあ。直視できないぐらい笑顔が素敵。
 可愛過ぎて胸が締め付けられてしまったよ。
 もやもやしていたさっきまでの自分を思い出して申し訳なくなる。
 彼が忘れるわけもないし、理由があるに決まっているのに、会いたかった気持ちが会えなくなると思うだけでもやっとしてしまうんだから、私って心が小さいんだと思う。
「悪いな。サッカー部の試合が長引いちゃって。ここまで遅くなるとは思わなかったんだ」
「そうだったんだ。だったら後日で良かったのに。あ、でもそっか。連絡先知らないか」
「そうだよ。でも俺がどうしても今日、夏空に会いたかったんだ」
 当たり前だろと笑う彼の笑顔が見たくて、おずおずと顔を上げた。
「夏空、服も可愛いな。似合ってる」
「え、あ、このイヤリングは妹二人が作ってくれたの」
「へえ」
 大地くんが私の耳元を触ろうと手を伸ばした。
「誰かいるのか!」
 ひ。
 一階から先生の声がする。体育の先生だと思う。
 レポートも提出していない大地くんと私服で校舎に入っている私が、先生に見つかるのはあまり好ましい状況ではない。
 慌てていると「こっち」と、腕を掴まれて旧図書室へ入った。
 松葉杖の音が響かないように、手にもって片足で歩くのでそれを支えて、二人でカウンターの下に隠れた。
 先生の運動シューズがきゅっきゅっと廊下を擦る音が段々と近づいてくる。
「大丈夫」
 大地くんが、私を隠すように抱きしめてくれた。
 大地くんの体温を感じて、体中の血が沸騰しそうなほど全身が熱くなる。
 私、今、大地くんに抱きしめられてる?
 先生、早くどこかに行ってほしい。心臓が痛くて、どきどきして、一生分鳴ってしまいそうだ。
「あれ、先生、どうしたんですか」
 ――信海くん。
「橘か。お前、ここでなにしてる」
「旧図書室で勉強してたんです。もう帰りますよ」
 信海くんのおかげで先生の足が止まった。
「お前、勉強はしてるのか?」
「もちろんですよ。当たり前じゃないですか」
 驚くほどロボットみたいに感情のない声に、先生も一瞬黙ってしまった。
「まるで僕は勉強だけしてればいいって聞こえて、あまりその言葉が好きではないかな」
「学生に一番大事なのは、学業なのだから当たり前だろう」
「当たり前か。そうなんですね」
 信海くんはその言葉を口の中で転がすようにつぶやいた後、鼻で笑った。
「分かりました。精進しますね。では」
 先生はそれ以上は何も言わなかった。
 ただ帰っていく運動シューズの音が、来たときよりも荒々しく感じた。
「……ふう」
「大地くん、しっ」
 大地くんの口を押えると、信海くんが旧図書室に入ってきた。
 冷房は切ったばかりだからまだ涼しい。
 だから私たちがいると気づかれたのかと思ったけど違う。
 信海くんはまっすぐに机に向かって引き出しを開けると、あのノートをめくった。
 カウンターからこっそり顔を出すと、信海くんは私が書いた伝言を見て、笑っている。
そしてそのあと、片手で両目を覆い隠すと小さくため息をこぼした。
「水音さん」
 悲痛で痛々しくて、消えてしまいそうな微かな声で、その名前を呼んだ。
 ノートに何かを書くと、私たちがいることに気づかないまま旧図書室を出て行ってしまった。
「信海くん」
 なんであの言葉をこぼしたんだろう。
「大地くんは、信海くんがテストを白紙で出した理由を知っているんだよね?」
「あ、ああ。まあ」
「それって御園水音さんが関係してるの?」
 私が尋ねると、大地くんの反応が数秒なかった。
 けどすぐに、納得したように「ああ」とこぼした。
「もしかして、あの部屋にいたのが、その御園水音さんって人なのかな」
 なるほどと言うので、私は首を傾げる。
「病院のさ。免疫力が低下された人が入院する、無菌室って病室があるんだ。家族しか見舞いできないし面会も短くて、色々厳しいんだけど」
そのあと、言葉を選んで私の目を見た。
「その病室に、生徒会長だけはいつもお見舞いに行ってて、もう一人高校生ぐらいの男の人が病室の前で待ってたと思う」
 大地くんの言葉に、先日の信海くんの言葉がぶわっと溢れてきた。
『僕さ、効率重視の両親のせいで、親戚に預けられることが多くて。最終的には誰も預からなくなっちゃって』
『本当の家族のように僕に優しかったのは、ここだけど。その前に、僕のことを弟のようにかわいがってくれた人がいた。僕は、あの人の為なら、両親のような医者になりたかったんだ』
『もうどうでもよくなっちゃった。僕は。あの人のために医者になりたかっただけで、僕は』」
『ノートを見つけてくれてありがとう』
 それが――それが御園水音さんなんだ。
 今までの信海くんの言葉が一つ一つ結ばれていく。
 出ていった信海くんを確認してから、ノートの方へ向かった。
『私は』
『私は、大好きな人たちが幸せだと嬉しい』
『なぜなら私は皆のおかげでしあわせだから』
『だから、貴方は今、ちゃんと笑っていますか』
『今日はもう帰ります。良い夏休みを過ごしてね。レポート頑張って』
 私が書いたノートのあとに、走るように書かれた文字。
『大切な彼女を失って、上手く笑えなくなってしまった』
 本音。
 やっと信海くんの本音が聞こえた。やっと本音を教えてくれたんだ。
「信海くんっ」
「え、おい、夏空」
 大地くんの制止をふりはらって、信海くんを追いかけた。
 ゆっくりと靴箱から出て行こうとしていた信海くんの制服の後ろを掴んだ。
「信海くん」
「……ああ、夏空か。誕生日おめでとう」
「信海くん」
 震えた声で名前を呼ぶと、信海くんは笑いながら振り返ってくれた。
「夏空なら、ノートを見つけるんだろうなって思っていたんだ。夏空ならきっと気づけるんだろうなって思う」
「なんで」
「僕を本当の家族のように接してくれた水音さんのように無垢で、真っ直ぐで、嘘をつかないから」
 信海くんは笑いながら泣いていた。
「疲れちゃった。僕は、水音さんのために医者になりたかった。彼女の命をただただ救いたかった。親戚中にたらい回された僕を、弟のように包み込んで可愛がってくれたのが彼女だったから」
 信海くんは、眼鏡を外すと直接目を、手で覆い隠した。
「四月にお見舞いに行ったら、白血病だって言われて、もう薬の副作用で目を開けるのも苦しそうだった」
 カツカツと松葉杖の音もする。大地くんが私たちの後を追ってくれていたんだ。
「そこで雅兄がいた。家族しか面会できないから、雅兄は扉越しにしか水音さんを見れな
くて。でも僕は、たった数か月引き取ってくれていただけの僕は、家族だと水音さんが言
ってくれて、面会できた」
 泣いている信海くんを抱きしめた。背伸びして大きな背中に手を伸ばしても小さい私では、泣いている信海くんを包み込んであげられなかった。もっと大きくなりたい。もっと大人になりたいよ。
「彼女が生きている世界以外、どうでもいい。僕はもう医者を目指す必要はないから諦めるって、どうでもいいって思ったんだ」
 だからテストを白紙にしたんだ。それは信海くんの心の悲鳴だったのかもしれない。
「雅兄は逆に、彼女みたいに失ってはいけない命があるからと医者になりたいって。勉強なんて一夜漬けだったような雅兄が頑張る姿が、どうしても応援できなかった。否定したくなった。もう一緒に諦めて欲しかったんだ。僕は」
 僕は雅兄も大切な人だから。信海くんが泣いている。
 いつも私の相談に乗ってくれていた優しい人が泣いている。
 いつも私たちのことを考えてくれていた優しい人が泣いている。
 私たちに悲鳴を隠して、いつも微笑んでいた人が泣いてくれている。悲鳴を教えてくれた。
 お兄ちゃんも信海くんも、同時に大事な人を失っていたんだ。
「このノートは、お見舞いできなかった雅兄の伝言を伝えるために始めたノート。もう水音さんは目を開けるのも苦しそうだったから、ノートの真ん中に大きく見やすく、簡潔に書いていた。彼女も返信に何十分も書けて書いてくれたんだ」
「それがこのノートなんだ」
 大地くんが持って来てくれたボロボロのノート。
 それを見て信海くんは頷く。
「雅兄は、水音さんと一緒にこのノートを燃やしてほしいって言ったけど、僕は忘れたくなかった。忘れてほしくなかった。こんなに綺麗で切ない恋を、誰かに覚えていて欲しかった。失いたくなかったからだから、あの旧図書室に隠したんだ」
 誰かに見てほしくて。でも誰かに見てほしくて。
 忘れてほしくなくて。でも誰にもこの恋を汚してほしくなくて。
 複雑な信海くんは、それでも頑張っていたんだ。
「信海くん。教えてくれてありがとう。見せたくなかったのに、見せてくれてありがとう。
私、私が覚えてる。私が忘れないよ」
 信海くんが、消えていく命が何もできなくて、消失感でいっぱいだったこと。
 雅兄のこともおもってくれていたことも。
 そして私に叫びを気づいてほしかったこと。
 子どもの私には、信海くんと雅兄が失って、空いてしまった大きな心の穴を埋めること
はできないけど、それでも二人が今まで頑張ってきていたこと、このノートの存在を忘れない。
 少しでも心が軽くなるなら、私たちも受け止めるよ。信海くんを抱きしめながら、何度
も何度も私は言う。
 信海くんが大好きだから言う。
 私は覚えている。私が三人を覚えているよって。
 ***
 空は茜色に染まっていた。この時間は、蝉の声がしない。風も生ぬるくなっていた。信海くんと大地くんは、私を送ると言ってくれたけど、私はどうしても聞きたいことがあって図書館の前で待っていた。二人は心配そうにしてくれたけど、大地くんには帰ってもらって信海くんと二人で、兄を待った。
「夏空?」
 雅兄が私と信海くんを見て、図書館の入り口から走ってくる。
 なので私は小さく片手を上げて、手を振った。
「何してるの」
「雅兄を待ってたんだって」
 信海くんが代わりに言ってくれたので、頷いた。
「私の誕生日だから、やっぱりお兄ちゃんと一緒にケーキが食べたいなって」
 がむしゃらに勉強していた兄の邪魔をしたくなかったけど、でもどうしても会いたくなった。
「まあ、夏空の誕生日だし、この数か月、雅兄もずっと頑張ってきただろ。今日はケーキを一緒に食べてあげようよ」
 弟のように可愛がっている信海くんに言われたので、兄も嘆息しつつも了承してくれて、三人で家まで帰った。長く続く影が、三人分。邪魔したくないけれど、兄のノートを見てしまった手前、どうしても兄に会いたくなったんだ。
 兄は今、どんな気持ちなんだろうって。
「雅兄」
 最初に喋ったのは、信海くんだった。私は下を向いて、そして少しだけ横を向いて付いてくる影を見た。
「水音さんの願いを叶えたよ」
 ボロボロになったノートを、兄に渡していた。兄は、そのノートをパラパラと見た。
 ぱらぱら。
 そのノートは一ページに一行の大きな文章しか書いてない交換ノート。
 薬の副作用と病気の進行で、目を開けるのも辛かった少女と、病室越しに交わした交換
ノート。
 一行しかないけれど、その文章がとても大切でかげがえのない希望が綴っていた。
 そんな大切な文を、兄は簡単に読んでいく。
 ぱらぱら。
「ああ。埋めてくれて良かった。俺はもう開くのさえ、怖かったけど。良かった」
 兄の顔は見てはいけないと思ったんだ。代わりに兄はカバンから、紙切れを取り出した。
 それは、そのノートのやぶれた最初の二ページ。その二ページを兄は、最初のページに挟んだ。何が書かれているのかは、私たちには見れない。二人だけの文章なんだと思う。
「ありがとうな、夏空。信海」
 兄の震える声に、私は首を振った。
「僕の方こそ、水音さんの初恋の相手が雅兄で、良かった。僕の救いは、大好きな二人が幸せだった時間が確かにあったことだけだ」
 それだけが、兄と信海くんの救いだったんだ。二人はそれ以上は何も言わなかったけれど、聞いてはいけない。兄の今、がむしゃらに頑張っている理由を、邪魔してはいけない
から。
「俺と水音には、もう続きは書けなかったからさ。この先を埋めてくれたのが夏空と信海たちで良かったよ」
 柔らかい優しい声。少しだけ震えた優しい声に、私はただもう一度首を横に振るしかできなかった。
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