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二、ノートとスマートフォン

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 夏休み一週間前。
 うちの母が買ってきた問題集二冊を抱えた放課後。
 私は陰が伸びた長い廊下を歩きながら、図書室へ向かっていた。
 正確には旧図書室。来年から図書の本もバーコード管理するらしく、去年から購入している本はバーコード化され、旧図書室の本は業者に依頼して夏休み中に終わるらしい。
 なので七月中に全ての蔵書の返却が行われる予定だ。
 校庭から聞こえる声がだんだんと遠くなっていくのと埃臭くて光が遮っていく校舎の奥は少し不気味で、そして少しだけ新鮮でわくわくしてしまう。
 本棚だけが並んだ埃臭い旧図書室は、夏休み中は生徒会が体育祭の準備室に使うと、信海くんが言っていた。
 そこに呼び出された私は、少しおどおどしながら挙動不審で廊下を歩いていたと思う。
 誰にもすれ違わない学校の廊下は、とても不気味だった。
 中に入ると、カーテンが開いていて、大きく風に揺れている。窓が開いているようで、外で部活しているサッカー部の声が聞こえてきた。
 太陽の光で、空中の埃が浮かんでいるのが見える中、空の本棚の向こうのテーブルと入り口入ってすぐのカウンターに、今週返却された蔵書が数十冊置かれている。  
 それとーー。
「あんた、誰?」
 冷たく乾いた声に、図書室に入る前に立ち止まった。
 窓辺の机の上に、大きな部活鞄が置かれ松葉杖が立てかけられている。
「あっ」
 一年四組の橘大地(たちばな だいち)君だ。 驚いて問題集を落としてしまった。
 風によってページがめくれているが、身動きできない。
 信海くんと対照的に、猫のようにつり上がった瞳。サッカー部だからか少し日に焼けて、髪も茶色く傷んで見える。
 整った顔立ちだって先輩も一年生たちも騒いでいたけど、こんな風にまじまじと観察するように見たことはなかった。
 身長が私より頭一個分高くて、違うクラスなのにどこにいても目立つ存在感がある。
 同じ四組の友達がいつも授業中は眠っているって言っていた。
「あの、一組の相原夏空です。生徒会長の信海くんにここに呼び出されたんだけど」
「ああ、あんたも」
 彼の方は納得したようで、ドカッと椅子に座ると窓の方を向いた。
 確か七月に入った頃には松葉杖だったような気がする。ただ小学校も違うから、彼とは全く知り合いの友達も居ないので話すタイミングは今までなかった。
 それにサッカー部の男子ってクラスの中でも一番声が大きくて騒がしくて、どちらかといえば苦手だ。
 私と対極的な人だと思っている。
 彼もいつも男子に囲まれているし、一年生なのにサッカー部のレギュラーに入っているって聞いたけどあまりに情報が少なすぎるし、関わりがない。
 ここに入っていて良いのか、居心地が悪い。入り口に立ってもじもじしてしまった。
 信海くんはいつ来るのかな。早く来て欲しい。
「生徒会長も、ただの真面目くんかと思ったら、すげえよな」
 にやりと笑う橘くんが怖くて、小さく身体が揺れた。
 どんな意味だったのかな。
 ただ少し悪意を感じて図書室に入るのを戸惑った。
「ああ。俺が邪魔か」
 急に冷たい声になったと思うと、テーブルの上に置いてあった鞄を首に提げて片足で立ち上がった。そして松葉杖を腋に挟んで器用に歩いて行く。
「……通れないんだけど」
「あっごめんなさい」
 避けるために一歩図書室に入る。
 大地くんはそのまま無言で出て行ってしまった。
 こ、怖かったあ。
 自分がいると私が入れないって分かって不機嫌になって出て行ったって事は、怒らせてしまったかな。
 うわあ。どうしよう。
 発言力がありそうな人を怒らせてしまった。
「お、夏空。突っ立ってなにしてんだ」
「信海くん」
 大地くんが出て行った反対側のドアから信海くんが旧図書室に入ってくる。
 そして中を見て怪訝そうに眉をしかめた。
「もう一人、呼び出してたんだけど来てなかった?」
「うん。来てたんだけどごめん。私が驚いたから、出て行ってしまった」
 そうか。彼も信海くんに呼び出されてたんだ。
「困ったな。明日から二人はここで作業して貰うからさ。仲良くしてよ」
 困った、と言いながらも何故か嬉しそうに苦笑している。
 明日から私と彼はここ?
「なんで?」
「大地は、足の骨折で体育が二ヶ月見学だったから、レポート提出があるんだけど、全く出してないから。ここなら自由に書けるし。サッカー部の練習が見えるだろ」
 そっか。足が怪我しているから部活に参加できないんだ。
 そういえばさっき、窓越しにサッカー部の練習を見ていたのかも知れない。
「でもなんで私も?」
「家で勉強できないんだろ。雅兄(まさにぃ)も受験でピリピリしてるって言ってたし」
「えええ。なんで分かったの」
 一階は妹二人が五月蝿いし、上では大学受験の兄がピリピリしている。一ヶ月ぐらい、
会話らしい会話をしていない。
「わかるよ。雅兄は夏休みから毎日塾だろうから、夏休みが始まるまで、そうだね、七月中はここを使って良いよ。夏空も七月中に問題集を終わらせないと、携帯が使えないの困るでしょ」
「ありがとう! わーん。持つべき物は、素敵な幼馴染みだね」
 海信くんの回りをぴょんぴょん跳ねると、信海くんは穏やかに微笑んでいた。
「もちろん、お願いはあるよ。大地がレポートを書き終わるように見張っててもらいたいってお願いが」
 なるほど、なるほど。
 それぐらい、スマホを解約されなかったことと比べれば朝飯……。
 大地くんのレポートの監視?
 さっきのあのぶっきらぼうで、らんぼうそうで、怖い目つきのあの人とここで?
「む、無理! 怖い。怖かった! 大地くん、怖いってば」
「あはは。怖くないよ。大地は目つきが悪いだけで基本的に良い奴だし」
「でもお」
「レポート三枚だから、監視してればすぐに書き終わるんだよ。大丈夫。でもまあ夏休みまでに書き終わらなかったら大地は赤点だからさ、頼むよ」
 赤点。
 運動神経良さそうな彼が体育赤点は確かに可哀想。
 でも今まで一言も喋ったことないし。
 関わりがない人とずっとこの旧図書館で一緒って気まずい。
 他の人にばれたら、からかわれたりしないかな。私なんかとからかわれたら更に大地くん、怒りそうだけど。
「これはさ。夏空にしかできないことなんだ」
「ええ……でも」
「俺でも、大地の友達でも、先生でも、親でも駄目。これは夏空にしか頼めないことなん
だよ」
 なぜ私なんだろう。
 信海くんは、それだけは私に教えてくれなかった。
 信海くんは、生徒会の引継ぎと、体育祭の準備を夏休み中は手伝うらしく、そのまま生徒会室へ戻っていった。
 私は、勉強して良いよって旧図書室に取り残された。
 信海くんが冷房は好きに入れていいよって壁に差してあったリモコンを渡してくれた。
 古い冷房からは乱暴で大きな稼働音がする。その音が窓を閉めた今、蝉の声よりも私の耳を支配していた。
 奥に本棚が並んでいて、四人掛け机が窓際に二か所。一か所は本が沢山積み重なって置かれているので、私と彼が座る席は此処しかない。
 狭くもなく広くもない、古いけれどぼろくもない不思議な図書室。
 埃臭く生暖かい風を感じながら、問題集を広げてみた。
「……あれ」 
 先ほどまで大地くんが座っていた席の四人掛けの机の引き出し。
 その引き出しの中に、ボロボロになった大学ノートが一冊入っていた。
 最初の二枚は破れた痕がある。
 そして何も書かれていないページをめくると、急いで書いたような走り書きが一言。
『君と話がしたい』
 誰の文字だろう。かくかくした字。少なくても女の子ではないな。
 ただ、私はその文字に何故か見覚えがあった。
『夏になった日の、朝の匂いが好きだった』
 また急いで書いたような走り書き。まるで誰かに見られないように急いで書いた文字だ
った。
 そして次のページには、柔らかい丸い字。
『私は、朝起きて貴方の文字を読み返すのが好き』
 こちらは落ち着いて書いたのか次のページに微かに字の痕が着いている。下敷きを使っていないのが字の圧力が強いのかな。
 どちらにせよ、一ページずつ一言しか書いておらず、あとは真っ白で、大胆な使い方というか、勿体ないというか。
『ありがとう。私のお願いを叶えようとしてくれて』
『お礼はこのノートを書き終わるまで、言わないで』
『誰かお願い。私の代わりに彼のために、書いてね』
 そこでノートは終わっていて、また一ページ、ノートが破れていた。
 大学ノートは三十枚綴りの薄いノート。三十枚のうち三枚は破られ、六枚が文字が書かれていた。
 残り十一枚は真っ白で、何も書かれていなかった。
 変なノート。
 誰かのノートだとしたら古いのかな。
 旧図書室だし、蔵書を業者に渡すときに発見されて、此処に無造作に置かれたような感じ。
 表紙も裏表紙も名前は書いてないし、隅はすり切れてボロボロ。
 不思議でヘンテコなノートだった。
「おーい。進んでいるのか?」
 信海くんが呆れた声を上げながら、十冊ほどの本を持ってきてカウンターに乗せた。
 そしてファイルを開けて、本の表紙の番号をチェックし出した。
「信海くんは受験生で生徒会長で、大忙しでしょ。蔵書チェックは私がしといてあげるよ」
「……赤点だった夏空には、黙って問題集を解いてて欲しいな」
 辛辣。
 確かにいつも学年一番の信海くんには、私に任せられないかもしれないけどさあ。
「うーん。この十冊合わせても、まだ三十冊は返ってきてないな」
「三十冊も」
「紛失リストはもっとあるよ。あと修理に出したリストや壊しちゃったり汚して読めなくなった破損リスト。紛失リストはここの図書室の歴史だね。創立から何十冊も紛失されてる」
 ふうん。
 そんなファイルでリスト化していたんだ。
 それも夏休み後は、パソコンで管理できるんだよね。不思議不思議。
「そうだ。こんなノート見つけたんだけど、どうすればいい?」
「ん? ノート?」
 ファイルと返却されたノートを交互に見ながら、信海くんはこちらに視線を向けることなく答える。
「名前も無いノート」
「ああ。誰かが取りに来るんじゃない? そのままにしといていいよ」
 誰かが取りに来る、かあ。
 こんな旧図書室に誰が入ってくるのかな。
 少なくても年単位で放置されてそうなノートだよ。
 明日からは私と大地くんと、信海くんしかはいってこないのに。
「古いからずっとここに置いてあるんじゃないかな」
「じゃあ尚更。そこに置いてあった方がいいのかもね。よし。チェック終わり。僕、今か
ら会議に参加するから。夏空は部活の終わる十九時まではいていいからね」
 ファイルを勢いよく閉めると、慌ただしく廊下を走っていった。
 有能な人は忙しそうで大変だ。
 じゃあこの大学ノートはこのままなのかな。
 交互に書かれたメッセージは、なんだかとても心が引き寄せられた。
 このまま、この旧図書室と共に誰にも発見されずに眠ってしまいそうで、それはそれで勿体ない気がした。
 上手く言葉に出来ないけれど。

 ***

 十九時に家に帰ると、玄関からでも分かる良い匂いに、吸い寄せられるようにキッチンへ向かった。
「あら、おかえり。先にお風呂入っちゃって」
 エビフライにクリームコロッケにポテトサラダ、そしてパエリア?
 栄養やバランス無視のメニューに首を傾げる。
「全部、お兄ちゃんの好きなおかずでしょ」
 母の機嫌がいいし、言葉の端々が踊っている。
 エビフライを一つつまみ食いしたら怒られたけど、諭すように優しい口調。
 なるほど。受験生である兄の成績がとても良かったんだ。
 それとは正反対で成績の悪かった私はスマホ解約の危機だった。本当に天と地の差がある。
 エビフライの尻尾を三角コーナーに捨てながら、二学期はもう少し成績を上げようと決めた。
 兄は、いつもならご飯おかわりするぐらい好きなおかずにも関わらず、後で食べるからと食卓に現れなかった。
「そんなに雅兄の成績良かったの?」
 妹二人がエビフライに飛びつきながら、不思議そうに尋ねると母はやはり上機嫌で頷いた。
「そうね。県で百番以内って言っておこうかしら」
「百番!」
 学年でさえ百番からはみ出した私には、県の成績なんて分からない。
「お兄ちゃん、国立医大に受験するらしいから応援してあげて」
「医大っ」
 お兄ちゃんは大学は遊ぶって宣言してたのに。ラーメン研究部ってサークルを作って毎晩ラーメンを食べるって宣言していたのに。ゆくゆくは全国のラーメンを食べ歩き、ヒッチハイクで日本一周するとか夢も語っていた。
 体力があまりないので、喘息で偶に入院してしまう兄は学校を休みがちだったので、少しずつ体力がついた今、遊びたいと言ってた。
 少なくても医大に受験って、今までお医者さんになりたいって言ったことなかったのに。
 大学でバイトして海外を旅して回って、石油を掘ってお金持ちになるって笑い話もよくしていたのにね。兄の大学のイメージは遊びつくすって感じで、難しい医大とはかけ離れている。
 医大かあ。お兄ちゃんが働く病院に行ったら、安く受診できるのかな。
 なんて、呑気な事を考える私は、未だに問題集は一ページで止まったままだった。
 明日はもう少し問題を解いていかなければいけない。
 熱くて寝苦しい夜だったけれど、お父さんからパソコンを借りて、メールを確認した。
 うー。
 やっぱスマホみたいにすぐに確認できないのは不便だなあ。皆が会話で盛り上がっているグループメッセージを確認しつつ寂しくなった。
 昔から仲良しだし、私の成績が悪かったことも知っててくれている。ただ一緒に盛り上がる時間を共有できないのが寂しいんだよね。
 問題集頑張ろう。問題集が終わったら夏休みの宿題も沢山出ている。問題集のせいで宿題が苦しくなるために頑張ろう。
 その晩、私の夢に問題集が現れて、漬物石のように私にのしかかった。

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