バオバブの夢と叫ぶ愛の唄

篠原愛紀

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二、水は溢れるぐらいが丁度いい

二、水は溢れるぐらいが丁度いい④

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*****


「お待ちしておりましたよ」
 奥から花束を持って戻ってくると、こぼれ落ちそうな向日葵の花束を抱えて戻ってきた。
 お上品な着物の女性だからもっと豪華な花束かと思ったのに意外でついまじまじみてしまう。そんな私を見て着物の女性は上品に微笑んだ。
「間藤さん、メッセージカードはどうされます?」
「そうね。夏っぽいのがあれば適当に」
 豪快な返答に秦平くんのお母さんは慣れた手つきで引き出しからカードを取り出した。
 入道雲、かき氷、金魚、ひまわりと可愛らしいワンポイントのキャラクターとポストカードチックなものだ。
 水彩絵の具のようなタッチのイラストに、ごちゃごちゃした複雑な感情が胸を潰した。
綺麗、好き、可愛いといった正直な思いと、二度と見たくない、逃げたい、忘れたいという負の感情。水彩絵の具の匂いが鼻をかすめた気がした。
「柳瀬さん、アルバイトを雇ったの?」
 並べられたメッセージカードを吟味しながら会話していた二人だが、ふとレジ横の椅子に座っていた私の話題になった。
「いえ。今からお願いするところなの」
「あら、そうなのね。お嬢さんが素敵な選択をしますように」
 花束からひまわりを一本引き抜くと、女性は私に差し出してくれた。
 それを受け取ると私の手のひらより大きなひまわりの花に戸惑う。
「花瓶もレジの下に使ってないのがあるから好きなの持ってかえっていいわよ」
「ありがとうございます……」
 ポストカードを見た時のような複雑な感情。花を貰っても綺麗だなって正直に思えなかった。バオバブの植木鉢は嬉しかったけれど、花はどうしていいかわからず戸惑う。
「向日葵は良いわ。枯れても種が沢山取れるから、また咲いてくれる」
「……はあ」
 嬉しそうに花束を抱えて歩く後姿を見ても、何も感情が動かなかった。
「教えて。バイトは嫌?」
 バイト自体は嫌ではない。秦平くんにも伝えたけど引っ越しでお金が沢山かかったし親に渡したい気持ちが大きい。
 でも、秦平くんも秦平くんのお母さんもキラキラしてるし居心地が悪い。
 一緒に居たら劣等感で押しつぶされてしまいそうなほど、キラキラしてる。
 なので首を横に振るしかできなかった。
「藍香ちゃんの気持ちを勿論優先するんだけど、本音を言うとーー」
 言い終わらないうちに新しいお客様が来た。
 次のお客様は注文していた花の種の受け取りと育て方について色々聞いてきた。
 それが終わらないうちに来店されたお客様は、お店の中を吟味したあと、ポプリの棚で足を止めた。プレゼント用のハーバリウムの棚も見て、長期戦の様子。
 次から次に来店され、お店の中には八人の多種多様なお客様。
 タブレットを見ると予約受け取りもまだ四件ある。
「すみません。こっちのガラス瓶にポプリをいれてプレゼント用に作れるって聞いてきたんですけど」
「え、あ、はい」
 ボーっと居心地悪く店の隅に居た私に、若い女性のお客様が話しかけてきた。
「ねえ、花言葉見れるメニュー表どこ?」
「花言葉ですか」
 ちらりと秦平くんのお母さんの方を見ると、お会計でラッピングのリボンを取り出して説明始めている。
「あの、私バイトじゃなくて」
 もごもご話しながら下を向くと、小さなため息が聞こえてきて心臓が飛び跳ねた。
 怖い。もう顔を上げれない。
「おーい。二階にピザが届いたんだけど」
 店の奥の扉から、秦平君が現われた。
 慌てて秦平くんの後ろに隠れて、お客様ですと伝えると扉の向こうに逃げてしまった。
「ああ、ポプリのプレゼントならそっちのテーブルでできるけど、指導とか教室はサイトで予約してからだよ」
 ちらりとドアの隙間から覗くと、首に下げていたヘッドフォンを置いてタブレットを持つと花屋の手伝いを始めた。
「花言葉のメニュー表はさ、最近持って帰る奴らが増えたから無くなったんだよ。お店のレジ横に貼ってるし、どの花の花言葉知りたいのか言ってくれたら教えるよ」
「あーっと予約のお客来たからちょっと待ってて」
「家にある花瓶に合わせて切ってほしい? 測って来てんの? メジャー持ってくるから待ってて」
「あら、いらっしゃいませ。はい、できてますよ」
 二人がてきぱき対応している中、逃げてしまって申し訳なくなる。
 でも私の世話までさせてしまいそうで更に迷惑になってしまう。
「藍香ちゃん」
「は、はい、すみませんっ」
 申しわけなくてドアを閉めると、ドアの向こうで小さく笑う声が聞えた。
「ちょっとお店が忙しくなっちゃったから、二階の秦平の家にピザが届いてるらしいから冷える前に好きなだけ食べちゃって」
「え、そんな」
「防音室だけはびっくりしちゃうから開けない方が良いかも。あとは好きに部屋の中見て良いから」
 秦平くんもそう言ってくれたし、手伝うどころか忙しくなって奥に逃げてしまった私なんて邪魔なだけだろう。
 家に帰れって言わずご飯食べてっていうのか優しすぎてさらにダメージが大きい。
 手伝いましょうかって言えばいいのに、逃げてしまった。
 おずおずと扉の向こうへ進むと、外に出れる扉を見つけた。
 そのまま階段を上ると三つドアがあった。二階はアパートになってるのかな。
 秦平くんが住んでると言っていたけど、他の二部屋は空室なのかな。
 真ん中の扉だけ鍵が開いていたので入ると、ピザのいい匂いが漂ってきた。
 奥へ入ると、横に広がっているリビング。広さから推測して両隣の壁を取っ払って一つの部屋にしてそうだ。二階は改造して秦平くんの家しかないってことなのかな。
 黒で統一された家具と絵具が爆発したような抽象的な絵画が飾られていた。
 ピザは三枚重なっていて、一番上を開けると海老がたっぷり乗ったシーフードピザだった。
 うちは田舎だったからデリバリーサービスをしている飲食店なんて老夫婦のしているラーメン屋だけだったな。母は、あそこで平日の昼間にデリバリーしようものなら次の日には町中に贅沢した堕落した嫁のうわさが流されるって使おうとしなかった。
「え、おいしい」
 美味しい。
 美味しすぎる。
 田舎の古臭くて陰湿な出来事が馬鹿らしくなるぐらい、便利で美味しいサービスに気づけば両手にピザを掴んでいた。
 田舎の人って、本当にかわいそう。
 こんな綺麗なお花屋で、ハーバリウムが売ってるなんて知らない。
 誰にも気にせず朝から公園で音楽流して踊ってもいい。
 美味しいピザをデリバリーしても視線も噂も気にしなくていい。
「……おいしい」
 ああ、なんてちっぽけでくだらない町だったんだろう。
 美味しい幸せに、邪悪な何かがポロリと剥がれていく。
 爪でカリカリ掻いたら簡単に落ちていくような、ただただ気持ち悪いけれど不要なものたち。
 一枚丸々食べたら、お腹と何かがとても満たされてお洒落なリビングでうとうとしてしまった。
 蝉の声が子守唄に感じられるほどに、満たされて沈んでいく。

 ***
『心に芽生えていた小さな花の名前を』
 蝉の声がする。そして透明で綺麗な声。
『枯らす前に知りたかった』
 弾ける音と共に、その声が止まった。
『違うな。なんだろう。枯らす前に見つけ? んんー』
 何かを弾く音と蝉の声。そして冷房の稼働音。
『枯らす前に叫んでほしかった、かな』
 まだ納得できなさそうに声の主は唸ると、音を弾く。
 何の音だろう。ギターかな。ピアノかな。
 分からないけれど、電子レンジがポーンと鳴ってその音は一時中断された。


 **

『ふっ』
『お前、やめろよ』
『だって。あんただって笑うの止めなさいよ』
 クスクス。
 ぷっと吹き出す声につられて笑い出す声。
 手が震えているので必死に拳を作るが、顔は上げられない。
 クラス中の笑い声が私に注がれている。怖い。
 視界がぐにゃりと揺れた。
『だって横顔だよ』
『しっ。聞こえるよ』
 私の方へ振り返るのが分かって更に俯く。俯いて必死にシャットダウンしたいのに、聞こえてくる。
 蝉の声よりも自分の胸が大きく鳴っている方が聞こえてくるのに。
 それなのに笑い声や私に向ける視線や声がはっきり聞こえてくる。聞きたくないのに。
『えーっ梔子さんって遊日くんが好きなの?』
『隠れて似顔絵描いてたんだって。沢山』
『うわ、気色悪い』
 ――気色悪い。
 笑い声と共に聞こえてくる悪意のある声。
 あの日忘れたいと思った記憶だ。これは夢だ。
 心の奥に隠れていた記憶だ。
 夢だ。早く覚めて。覚めて。
 耳鳴りのように蝉の声が大きくなっていく。
 夢なんだ。だからはやく、起きてーー。


「藍香ちゃん?」

 耳鳴りが止んだ。
 蝉の声なんて全くしていなかった。
 目を開けて最初に見たのは、ピザを頬張っている秦平くんだった。
 黒いタンクトップにダボダボのジーンズに着替えて、ほかほかのピザを頬張っている。
「……秦平くん」
「なんかうなされてたから起こしちゃった。やっぱ寝るなら布団の中じゃないと」
 チーズを伸ばしながら一切れ取ると空になっていたピザの箱に置いてくれた。
 そのまま汚れていない方の手で、ベランダのカーテンを閉める。
 白のカーテンには黒で沢山花が描かれている。
「……ピザが美味しすぎて、満腹になって眠ってしまったみたいです」
「あはは。ここのピザ美味しいだろ? なんか五つ星レストランで働いていた人のお店で、一番はパスタだんだけどさ。ピザしかデリバリーしてくれないんだよな」
 彼が食べているピザは、モッツァレラチーズとバジルのシンプルな見た目。なのに世界一美味しそうな匂いをしている。
「美味しいです。美味しい」
 どれぐらい眠っていたのか分からないし、少しだけ喉が渇いていたけれど分けてもらったピザを頬張ると涙が滲んだ。
「美味しすぎて、馬鹿みたい」
「ん?」
 私の前後不透明な言動に困惑した様子で笑ったけれど、夢の中のような胸が痛くなるような笑い声じゃなかった。
 私を馬鹿にするような笑い声じゃなかった。
「なんで泣きながらピザ食べてんの。あ、飲み物」
 私の横に座ろうとして、キッチンへ踵を返した。
 その時に小さくいてっと言いながらソファの横に立てかけていたギターに小指を当てていた。
「さっき歌ってました?」
「ああ、そう。これは案件じゃないから暇なときに作ってんだけど。牛乳と麦茶と緑茶どれがいい?」
「牛乳っ」
 秦平くんが持って来てくれた牛乳は、ヨーヨーみたいなお洒落な柄のグラスに入っていた。
「俺の唄よりも、藍香ちゃんが泣いていた理由聞いても大丈夫?」
 牛乳を飲みながら胸がうねる。
「ただの悪夢とかならいいんだけど、俺ってば鈍感だからさ。今後も気を使わなきゃいけないことがあるなら最初からNG知っておきたいし、伝えといてくれないとお隣さんだし」
 今後も仲良くしたいからさって言われて、心臓が壊れるかと思った。
 裏表のない本音だなって感じるほど、秦平くんはなんだろう。
 私の知っている同級生とか男性の中で、一番綺麗だ。
 心も造形もひねくれた部分もなく、綺麗で汚れを知らない。
 田舎のあの悪臭漂う人間立ちに触れてこなかった広くてなんでもある綺麗な都会の空気で育った綺麗な人。
 秦平くん本人が会った時からそんな風に感じ取れた。
「悪夢です。情けないけど、悪夢になって何度でもあの日を夢で見ちゃうんです」
 言葉にするとあの日を思い出して手足が震えていた。
 思い出すと泣いちゃうから両親に迷惑かけてしまうし、ずっと心の奥へ閉まっていた。
「逃げちゃったから悪夢になって現実に現れちゃう。あれは夢じゃないよって」
 言葉が上手く出てこなくなった。
 周囲の視線を気にしてしまうようになった。だから誰の目も見れなくなっていた。
 ここに逃げてきても、キラキラした現実の中、あの悪夢で目が覚める。現実なのに目が覚める。
 お前はここにふさわしくないよって。
「なんで悪夢になっちゃうんだろうね、それ」

 麦茶の氷を鳴らしながら秦平くんは首を傾げる。
「何を守りたくて、何を傷つけたくなくて、藍香ちゃんはそれを悪夢って感じちゃうんだろうね」
 もっと話してくれたら分かるのかなってチーズをびろーんと伸ばしてぱくっと食べた。
 何を守りたくて何を傷つけて、か。 
 秦平くんは賢いしきっと色々分かっちゃうんだね。
 会ってまだ二日なのにもう私の核心に触れようとしてるんだもん。
「話すより誰とも話さない方が楽だなって思うのは、変?」
 一言二言で理解してくれる両親以外とは会話するのが怖い。
 弱い自分を知られるのは怖い。
 あの日の友達みたいに私を蔑んで笑う空気を察して、放課後にはそそくさと避けて帰っちゃうように。
「変なわけないよ。自分を守る方法はその人によって色々でしょ」
 気づけばホールのピザをほぼ食べ終わった秦平くんはもう一箱のピザを開いた。
 次のピザにはパイナップルが乗っていたので驚いていると、一つ分けてくれた。
 そのピザを受け取りながら、恐る恐る彼の顔を見ると驚くぐらい優しくて、なんていうんだろう。慈しむって言葉があうような、穏やかな顔。満たされて不満もなく余裕がある彼のその顔は、私の不満や傷を全部受け止めてくれそうな懐の深さが見えた。
「俺の前では、しゃべらなくても良いし喋れるなら喋っても良いし」
 叫んでも、歌ってもいいんだよって言ってくれた。
 それが嬉しくて、私の居場所を残してくれているようで涙が零れた。
 しょっぱいパイナップルのピザは、ちょっとだけ苦手で、ちょっとだけ好きになった。



 ***

 ピザを二人でほぼ平らげてしまったので、秦平くんのお母さんの分のお昼ご飯を買いに行くことにした。
 冷蔵庫に何もなかったけれど、廊下にはお茶の段ボールや栄養ドリンクやお菓子の箱買いの痕跡が見られた。秦平くんはそれらを『ファンの人からの貢ぎ物』とありがたやと何度も拝んでいたので首を傾げてしまった。
 まあ秦平くんほど綺麗な男性ならば、生き神さまのように祭られて貢ぎ物が貰えるんだろう。
 田舎の神社のお祭りでも、御長寿の老人に色々と贈り物を渡す人たちが多かったし、一番良いものを渡さなきゃ何を言われるか分からないから必死で高級品を揃えていたっけな。
「バオバブの植木鉢、お世話面倒じゃない?」
「全然! 毎朝ちゃんとおはようって言ってるよ」
 歩いて数分の場所にあったお弁当屋さんの前でそう言われちゃったから驚いた。
 自分でも声のボリューム間違えちゃったかなって口を押える。
「あはは。毎朝ってまだ一日目なのに」
 大げさだなって言いながらも秦平くんはどこか嬉しそう。
 和食、洋食と様々な種類のお弁当が並んでいるお店で、秦平くんは自分の夜ご飯も購入していた。
 細いわけではないけど、唐揚げ弁当と野菜炒めを購入していたので思わず見てしまった。
「あ、俺が自炊しないと思ってんの?」
「いえ、よく食べるんだなって思っただけで」
 さっきピザ完食したのに、もう夜ご飯考えててすごい。
 私は夜ご飯食べれるか不安なぐらい満たされている。
「今ちょっとね、自分の曲だけじゃなくて案件の仕事もしてて」
「案件? 秦平くんの歌がすごいって雫ちゃんも言ってた気がするけどお仕事もしてるんですか」
 今朝は余りに緊張していて雫ちゃんとどんな会話したかうろ覚えだ。
 でも花屋のバイトができないぐらい忙しいってお仕事もしているからなんだ。
 大学生って聞いてたけど、バイトではなく仕事?
「防音室、歌、部屋に置いてあったギター、貢ぎ物の段ボールの山、名探偵藍香ちゃんはどう推理するかな」
「推理?」
 どんなお仕事ってことか。歌関係なのは無知な私でも分かるけど大学生が出来る歌のお仕事ってなんだろう。
「頭を使うには糖分が必要だよ」
 ほらって渡されたのはお弁当屋さんで売られていたソフトクリーム。
 それを食べながら花屋に戻るんだけど、全然わからない。
 秦平くんは声が綺麗だから歌のお仕事なのかな。
 テレビで見たことないからプロの歌手ってわけじゃないだろうし、歌の編曲とか編集とかするお仕事なのかな。
「お、藍香ちゃんの推理のために蝉の声が止んだね」
「……ほんとだ。朝はあんなにうるさかったのに」
「明日は雨だね」
 くるくると変わる会話の話題に、取り残されないように必死に追いかけていく。
 目まぐるしい。けど嫌ではない。
 秦平くんの隣では嫌な悪夢を見る暇がないほど、新鮮なことばかり。
「分かった! 作詞家とか作曲家!」
 才能でできることならば大学生でもできる。
 本当に才能がある人は、高校生でも絵のコンクールで賞貰ってたりするしね。
「半分ぐらい正解。作詞作曲はしてるよ。忙しくなかったときは自分で編曲してたし」
「すごい。どんな曲を作ってるの?」
「んー、どんな曲、かあ」
 蝉の声が止んだ空を見上げる。
 一緒になって見上げると、額に滲んだ汗がたらりと首まで流れていく。
 猛暑とまではいかないけれど、じりじりと皮膚が焼かれていく感覚。
 夏の暑さが今になって伝わってくる。
「どんなかあ。なんだろう。叫びたい事ばっかだな」
「叫びたいこと?」
「場所も人の目も気にせず叫ぶなんてできないけど、でも叫びたい衝動とかってあるじゃん。歌ならカラオケルームでもバスルームでも好きなだけ唄えるし」
 叫びたいこと。
 秦平くんの歌詞はどんな歌なのか聞いてみたい。
「どんな歌か教えーー」
「おかえり、藍香ちゃん、秦平」
 花屋の入り口で手を振る秦平くんのお母さんが見えた。
 隣にはスーツ姿の男性が、私たちに気づいてそそくさと立ち去ろうとしている。
「では、菖蒲(あやめ)さん、これで」
「はい。暑いので気を付けてくださいね」
 微笑む秦平くんのお母さんに、分かりやすいぐらい真っ赤になって帰っていくスーツの男性。その姿に秦平くんは目を細めて呆れた様子だった。
「仕事で忙しい中、花も買わずに何しに来たんだが」
「あら、お花の種を購入していったわよ。でもそうね、そろそろ休憩にしないと」
 Closeの看板を入り口に置くと、秦平くんがお弁当の入ったビニール袋の中を見せた。
 三種類のおかずを見て、「暑くてごんなにがっつり食べれないわね」とサラダうどんを取り出していた。
「午後は閉めようかと思ってるの。予約分は全部取りにきてくれたし、秦平も忙しいでしょ。私も打合せがあるし」
 割り箸を割る音とタブレットをスライドしてスケジュールを確認するのと、秦平くんがお茶のペットボトルを取り出すのをただただじっと見てしまう。
 テキパキしている二人の様子と、アイスを食べ終わって暇な自分があまりに正反対で滑稽に感じてしまう。
「……あのう」
「うん?」
 ずっと一人でお仕事していたにもかかわらず疲れた様子も見せずに、微笑んでくれた。
 その優しい笑顔はどこか秦平くんに似ていた。
「あのお仕事覚えて、レジの横のテーブルで夏休みの宿題してたら、その、少しは役に立てますか」
 覚えることは沢山あるだろうし、私は秦平くんみたいに要領がよくないので覚えるのに時間もかかるだろうけど、でもこんな素敵なお店がもう今日は閉店してしまうのは勿体ないと感じてしまった。
 開いていたらもっと客様も来るだろうし、本当に来たかった人も偶々見かけた人もがっかりせずに済む。
 おずおずと声を震わせながら言う私に、秦平くんのお母さんは目を丸く見開いた後、とっても嬉しそうに微笑んでくれた。
「もちろんよ。覚えるまではビシビシ厳しくいくから、私のことは菖蒲さんって呼んでちょうだい」
「は、はい、菖蒲さん」
「よろしくお願いね」
 うどんをつるんと食べながら、菖蒲さんは少女のように微笑む。
 自分で言っておきながら、自分の言った言葉の重さに身体が震えながらも、私もお願いしますって叫んだ。
 叫ばないと声が出ないと思ったからだけど、やる気があると二人は喜んでくれたのだった。 
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