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悪役令嬢は穏便に暮らしたい 10
しおりを挟む「……聞いていたのと随分ちがうな」
レグザは、先程まで会っていたエカテリーナを思い出す。
こんな田舎街にも轟く彼女の噂。
稀代の悪女。宵闇の淫婦。王都に蔓延る毒婦、黒薔薇。
そんな悪辣な異名を欲しいままにする御令嬢がやってくると知らされ、別邸の者達はパニックに陥った。
『とにかくっ! 御無礼のないよう、みんな気をつけるんだぞっ?!』
レグザに言われても戦々恐々で怯える使用人達。
そんな邸の者等を追い立て、手抜かりないよう準備させたレグザは、やってきた件の毒婦に軽く驚いた。
『ありがとう。では、部屋に案内してちょうだい』
……空耳か? 貴族が礼を言う?
金を払って雇っているのだ。貴族が使用人に礼を言うことなど全くない。それも目の前にいるのは悪名高い御令嬢。
しばし放心したものの、すぐにレグザはエカテリーナを部屋に案内した。
そこでも彼は驚愕のシーンを目撃する。
大きな主寝室は完璧に整えられており、一部の隙もない。しかし、王都貴族は寝室や私室を分けると聞く。下手をしたら応接室や娯楽室まで。
そんな生粋の貴族様には、狭苦しくてみすぼらしい部屋に思われるのではないかと、恐縮しきりなラグザ。だが……
『良い部屋ね』
これまた意表をつくエカテリーナの言葉。
……これが良い部屋?
驚きを隠せないラグザの前で、エカテリーナはぐだぐだと靴を脱ぎ、ソファーに寝転ぶ。素足をさらすはしたなさに、再びレグザは眼を丸くした。
『んあ~っ! つっかれたぁっ! フー、御茶をよろしく』
唖然とするレグザを余所に、御令嬢と共に来た若い侍従が厨房に向かう。
言葉もなく立ち尽くすレグザを悪戯げに見上げ、彼女は蠱惑的な紅い唇で、身も蓋もないことを言った。
『んふ~? 驚いた? アタシねぇ、窮屈な貴族の暮らしが苦手なのよ。だから、ここでは息を抜いていたいの。そう邸中に周知しておいてもらえるかしら?』
『……かしこまりました。そのように言い含めておきます』
そうとしか返事の出来ないラグザである。
「あれが、稀代の悪女? ……悪い冗談だ」
そう独りごち、彼は見たまま聞いたままを邸の者に伝えた。それを聞いた者達も、思わず顎を落としまくる。
「は? え……? いや、だって! 私の親戚が伯爵家本邸に仕えていますが、むちゃくちゃばかりやる御令嬢らしいですよっ?」
「そうそう、再起不能にさせた下働きも多いって…… 実際、隣街で物乞いをやってる老人もその一人でしょ? ……両足の爪先を落とされて働けなくなって」
「そういった貴族らの犠牲者は、こういう僻地に流れて来るもんなぁ。あれが現実だ。執事様、騙されてますよ」
口々に放たれる苦い言葉。
貴族の横暴による犠牲者は後を絶たない。そんな人々は暮らしに喘ぎ、流れ流れて僻地の場末に落ちるのだ。
娼婦や物乞いに身を窶し、その日暮らしの悲惨な状況に。
この邸の者達は、それを散々目にしてきた。レグザが見聞きしたとはいえ、気楽に過ごしたいというエカテリーナを、簡単には信じられないのだろう。
それはレグザも同じである。
「だが、我々にとやかく言う権利もない。真っ当にお仕えしなさい。決して怒らせることのないように」
神妙な顔で頷き、使用人達は仕事に戻っていく。
それを複雑な顔で見送りながら、レグザは小さな溜め息をついた。
だが彼らの受ける衝撃は、ここからが本番である。
「うわあぁぁーっ、良いね、良いねっ! こういうのを待ってたんだよぅぅっ!!」
レグザの視界に映るのは感涙に噎ぶ御令嬢。
彼女の前には手摑みで食べられるよう作られたバゲットやドッグが並んでいた。
……お望みされたので作りましたが。まさか本当に食されるとは。
手摑み系で貴族が口にするモノと言えば、たいてい一口サイズ。小さなサンドイッチやカナッペなど、上品なモノばかり。
なのにエカテリーナは、パンに沢山の具材を挟んで欲しいと望んだのだ。
「こうさ? パンに切れ込み入れて、野菜やハムとか惣菜を挟んでさ? バクっと食べられる物を作って欲しいの。出来る?」
身振り手振りの説明でレグザの脳裏に浮かんだのはバゲットやドッグの類。労働者が片手間に食べられよう考案された平民食だ。貴族の御令嬢に出すような代物ではない。
……そんな物を口にしたら、紅やお化粧が崩れてしまうではないですか。……ん? 紅や?
よくよく見るとエカテリーナは化粧をしていなかった。全くの素っぴんである。
……え? 化粧もしない貴族? そういえば……
彼女がやってきてから数刻。楽な服装に着替えたらしいエカテリーナが着ていたのは木綿のドレス。平民が着ている物とは仕立ても素材も雲泥だ。
しかし、それなりに豪奢なドレスだが比較的装飾は少ない。胸元下からストンっと布の垂れる奇妙な形のドレスをレグザが不思議そうに見つめる。
俗に言うマタニティドレスの貴族版。それでも貴族なら絹で作り、余分な装飾をゴテゴテつけるものだ。
……なんか。え? おかしくないか? この御令嬢。なんで木綿のドレスなんて着てるんだ?
シンプルなドレスに化粧もなく、これでは貴族というより、どこぞの裕福な平民のようである。
どうしたものかと口ごもるレグザに、達観めいたフーが口を開いた。
「心中お察しします。ですが、エカテリーナ様は言い出したら聞かないので…… バゲットとドッグをよろしく」
こちらは平民なのか、そういった食事を知っているようだった。
「えっ? ドッグとかあんのっ? うわあっ、じゃあさ、こう、腸詰めの長いのを焼いて、みじん切りにした玉ねぎをどっさり載せてさ、トマトソースとマスタードを垂らした物作ってくんない?」
またもや身振り手振りをつけて必死に説明する御令嬢。
……腸詰めに玉ねぎ? 聞いたことない食べ方だな。
困惑しつつも頷き、レグザは料理人に指示して作らせた。
「んあ~っ! 最っ高! 貴族のカロリー過多な贅沢食より、こんなジャンクのがまだマシだわあっ! アレに酒までカブのみなんだから、死亡率高いわけよなあ」
もっしゃ、もっしゃとドッグを頬張りつつ、意味不明なことを呟くエカテリーナ。それに胡乱な視線を向け、レグザは魂の抜けたような顔をする。
「お気に召されたようで…… ようございました」
「レグザさん、しっかりして。まだ触りです」
小さな従僕に肘で突かれ、レグザは、いぃっ? と眼を剥いた。
「フーっ! 御茶じゃなくて果実水っ! グラスは嫌よ? コップでよろっ!」
「かしこまりました」
そう答えながら、フーは果実水のピッチャーを傾けてコップに注ぐ。そして、それを受け取ったエカテリーナが、一気に呷った。
喉が動くのを見せつけるかのように豪快な飲み方で。
「ぷはーっ! ん~っ、幸せぇぇっ!」
「御嬢様、ソースが口元に…… あああ、触らないでっ! 垂れますっ! もうぅぅっ!」
慌ててナフキンを掴み、丁寧に拭いてやる従者。
規格外れに庶民臭い御令嬢を呆然と眺め、どう対応したら良いのか、全く分からないレグザである。
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