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 最悪から始まる転生 2

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「まずは状況整理かな」

 衰えた筋肉のリハビリをしつつ、薫はノートに情報をまとめる。

 目覚めてからしばらくしてメイドが部屋を訪れ、意識のあるエカテリーナに声を失い、倒つまろびつ医師を呼んだのだ。そして診察を受けながら、薫は記憶喪失で押し通そうと決めた。
 事実、彼女はエカテリーナではないし、記憶を継承しているものの、それに対する責任まで負うつもりはない。どれもこれも無茶苦茶過ぎて、負う気にもならないというのが正直な所でもある。
 
 ……なんでアタシが良心の呵責を感じる必要があるのさ。やってらんないわよ。

 というわけで、彼女は過去の見知らぬ女と、すっぱり縁を切るつもりなのだ。だが、放置出来ないアレコレもある。
 忘れ病との診断を聞いた伯爵夫妻は、酷く驚きつつも微かな安堵を浮かべた。

 ……これがこの女の両親か。……ったく、娘の躾ぐらい、ちゃんとしやがれよな。

 豪奢な衣服に身を包み、静かに薫を見つめる二対の双眸。そこはかとない憐憫を滲ませた慈愛の瞳に、なんとなく薫はいたたまれない。

「お前が気にすることはないぞ。今は養生して昔のように元気になっておくれ」

「そうよ? 確かに貴女の行動は過ぎたモノだったかもしれないわ。でもそれだって、殿下を慕うあまりの暴走ですもの。 ……忘れ病を得たのも神々の思し召しでしょう」

「ああ、そうだな。嫌な思い出など忘れてしまった方が良い。これからは邸で穏やかに暮らしなさい。なんなら新たな玩具を飼っても良い」

 そう言いつつ、父親だという伯爵は部屋の隅に視線を流した。そこには一メートル四方の箱。ん? と思いつつ、薫はエカテリーナの記憶を反芻する。そして次の瞬間、ザーッと血の気を下げた。
 もはや父母だと名乗る人々の言葉も耳に入らない。薫は、手早く話を終わらせて両親を追い出すと、近くに控えていたメイドに箱を開けさせた。
 その箱は生き物を飼う封印箱。汚物などを吸収して清潔を保ち、水分とか必要最小限を与える飼育箱だ。 

 ……つまり、この中には生き物がいる。 

 エカテリーナの記憶にあるソレを脳裡に描き、薫は背筋を震わせる。
 主から指示されたメイドは、如何にも嫌そうな顔で箱の鍵を開けた。このメイドは男爵令嬢だ。箱の中身を知っていたのなら、この顔にも頷ける。

 ……アタシだって嫌だものね。……奴隷とか。

 バクンっと観音開きで開いた箱の中に蹲る生き物。それは年端も行かぬ少年だった。エカテリーナが昏睡状態に陥ってから三ヶ月。誰にも関心を持たれなかったのだろう。最小限の生命維持しかしない真っ暗な箱の中に、彼はずっと閉じ込められていたのだ。

 ……ほんっと、最悪な女だわ。

 何度か瞬きして、箱の中の少年は身動いだ。そして虚ろな瞳に時折ふっと宿る朧気な光。だが、それも一瞬。彼の瞳はすぐにどろりと胡乱に濁っていく。

「ぁ…ぅ…? あ……」

 しかし、弛緩した唇から零れる微かな呻きが、彼の生存を薫に知らせた。

 ……良かった、まだ生きてる。

 凄まじい安堵に胸を撫で下ろし、この三ヶ月で弱りきった身体に鞭打ちながら、薫は覚束ない足取りで箱に近寄った。

「いけません、御嬢様っ! 汚らわしい奴隷に近寄ってはっ!」

「そう? なら奇麗にしてきてちょうだい」

 しれっと振り返り、薫はメイドを見る。

「え? ……私がですか? こんな奴隷を?」

 あからさまに狼狽えるメイドを見据え、薫はエカテリーナの記憶をサルベージした。奴隷の世話は下働きの平民の仕事のようである。

「ん~? アタシ、記憶がないから、どうしたら良いのか分からないのよ。取り敢えず奇麗にしてもらわないと遊べないでしょ? 貴女に御願いするわ。誰かを呼ぶなり、なんとかしてちょうだい?」

 薫の言葉に頬を緩め、メイドは畏まりましたと部屋を出ていく。それを見送り、再び薫は視線を箱の中の少年に戻した。

「ごめんね、もう少しの辛抱だから」

 温かな指で額を撫でられ、少年は無意識に顔を傾ける。ソレが離れそうになった瞬間、彼は必死に薫の指を掴んだ。
 温かく柔らかい指。それのくれた慈愛に少年はとりすがる。

「……たすけ…て」

 ポロポロと涙を零す大きな眼。箱のシステムによる最低限しか糧は与えられていなかったのだろう。痩せ細り、枯れ枝のような彼の手足。
 エカテリーナの昏睡中、身動きもとれない狭く暗い箱の中で本当に死なない程度の世話しかされていなかったようだ。永遠に終わらない暗闇と孤独は、この少年の心を壊していてもおかしくない。

 ……あんの、ド外道ども……っ!

 沸々と滾る怒りを抑えつつ、薫は少年の頭を撫でた。

「ダイジョブよ。すぐに温かい寝床に入れてあげるからね」

 すんすんっと鼻を鳴らして彼女の手に取りすがる少年。

 彼の名前はフー。エカテリーナが戯れに召使いから取り上げた子供である。

 数年前のある日、下働きの一人が散歩中のエカテリーナに小枝を飛ばしてしまった。その下働きは庭師で、庭園の大木を剪定しているところだったのだ。
 彼がバチンっと切った枝の小枝が折れ、エカテリーナのドレスの裾に当たり、激昂した彼女はメイドらに鞭を用意させる。そしてシャツや背中が裂けるほど、庭師の下働きを打ち据えた。

 上がる絶叫、飛び散る血飛沫。

 だが、誰も庭師を庇わない。

 貴族に粗相をしたならば、当たり前の仕置だからだ。仲間の下働きらは顔を俯向け、耳を塞ぎ、嵐が過ぎ去るのを待つほかなかった。
 しかしそこに、つ…っと小さな影が走る。
 その影は庭師の男にかぶさり、必死な面持ちでエカテリーナを見上げてきた。

「お父さんをいじめるなぁっ!」

 涙にけぶる真っ黒で大きな瞳。

「よせ… 離れな…さいっ、フーっ」

 諫める庭師の男。それを見た周囲の下働きらから、ひっと小さな悲鳴が上がる。
 貴族に逆らうなど狂気の沙汰だからだ。小さな子供であろうと容赦はされない。ゆえに、皆、自分の子供達にも口を酸っぱくして言い聞かせてある。

 御貴族様に無礼を働いてはならないと。

 なのに目の前の子供は、あからさまに眼を剥き、怒りの眼差しでエカテリーナを睨んでいた。
 きっとあの子は父親もろと殺されてしまう。誰もがそう思った瞬間、エカテリーナの薄い唇が、蠱惑的な笑みに歪んだ。

「ふうん。お父さんねぇ。助けたいの?」

 こくりと大きく頷く少年。

「良いわ、許してあげます。その代わり、お前が私に仕えなさい」

 ほけっとエカテリーナを見上げる少年。エカテリーナの台詞に反応したのは、虫の息の父親だった。

「お許しくださいっ、息子はまだ幼いのです、御無礼のだん、平に御容赦をっ!」

「幼いから良いんじゃない。私好みの玩具にして差し上げますわ。最高の夜の玩具に仕込みます。光栄に思うのね」

 当時エカテリーナは十三歳。少年は七歳。既に悪女の片鱗を隠しもしない彼女に、周りの下働きらは全身を凍りつかせる。

 こうして無理やり両親から引き離されたフーはエカテリーナの慰み者となり、五年に亘る年月を貴族らに奉仕する生贄として過ごしてきたのだ。
 あらゆる無体を強要され、些細な抵抗も許されず、救いといえば、折檻でズタズタにされても、可愛いペットに傷が残るのを厭うたエカテリーナが高度な魔法で治癒してきたことくらい。そんなものは焼け石に水で、毎日生傷がたえないフーの救いにもならないが。

 だけど、身体の傷は癒せても心の傷は癒せない。

 歳を減るにつれ少年の感情は死んでゆき、無表情な人形のようになってしまった彼に苛立ち、エカテリーナの無体がさらにエスカレートしていくという悪循環を生み出していった。

 ……あああああっ! もう、ほんっとーっに最悪な女だわね、こいつっ!!

 生まれたばかりの子犬よのうに必死にすがるフー。長年与えられてきた虐待や何ヶ月も小さな暗闇に閉じ込められる凄惨な日々。いったい、彼の恐怖は如何ばかりなものだったか。

「ダイジョブよ? ダイジョブ。お母ちゃんがいるからねぇ」

 鈴を転がすかのような声音に誘われ、フーは、すうっと眠りに落ちた。

 ……夢かもしれない。夢でも良い。このまま死ねたら、どんなに幸せだろう。

 えも言われぬ温かさに包まれ微睡みに身を委ねたフーは、次に起きた時、信じられないモノを目にする。



「起きたわね? さっ! しっかり食べなさいっ!」

 そこには恐怖の対象でしかない御令嬢の屈託ない微笑み。そして大きなテーブル一杯に載せられた御馳走。

 ……何が起きた?

 訳が分からず縮こまり、ダラダラと冷や汗を流すフーである。
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