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8 始まりと終わりの場所
しおりを挟むこの季節特有のなまぬるい雨が降りそそぐなか、俺たちは山道を登った。
命日には墓参りをするのではなく、事故現場まで赴いて花を捧げる。それが、八年前から続く俺たちの決まりだった。
「大丈夫か?」
昨日、豪雨が降ったばかりの道は予想以上にぬかるんでいて、防水仕様の登山靴が泥に半分ほど沈み込む。
「平気」
差し出した手を前に、小夜子は首を振っただけで取らなかった。
事故現場に行く時は、誰の手も借りず、必ず自分の足で歩いて行く。それが小夜子の決めたルールで、この状況でも変わらないらしい。
まだ小学生だった頃、転んで膝から血を流しても頑なに俺の手助けを拒んだ少女は高校三年生になった今もその意志は変わらないらしい。
ただ、昔に比べると、その姿はだいぶ逞しくなった。
半年前くらいから急に身長が伸びて、百七十センチ近くになった。
玲司が同じぐらいの年だった頃に比べると圧倒的に華奢だが、身長は近くなっていた。
顔立ちも。凜々しく見えるのは、髪を短く切りそろえているからだけではない。頬や目元から幼さが抜けて、冴え冴えとした美貌を引き立たせているからだ。
「志岐、そこ」
小夜子が指さした先に視線を向けると、ぬかるんだ地面に、明らかに人間のものではない足跡が刻まれていた。
「……熊かな?」
「急ごう。できるだけ気をつけて」
引き返そうという考えが浮かばないのは二人とも同じだった。
今日は、玲司に会いに行く日。そして己の罪を確かめる日。
たとえ台風が来ようが、今日だけは行かなければいけなかった。
雨は、それから少ししたあとにやんだ。
目的地が近づいてくると、雨のあとの濃い土の匂いにまじって、何かが焦げたあとのような嫌な匂いが近づいてくる。
炎上したバスはとうの昔に撤去されていたが、近くの木にはまだ焦げ跡が残り、そこにあった死臭を吸い込んだかのような陰鬱さでたたずんでいた。
目の前にそびえる崖の途中から生えた木の枝には、比較的新しそうな花束が引っかかっていた。
おそらく、ここで死んだ誰かの遺族が、崖の上の車道から花束を投げたのであろう。
ここは、たくさんの人間の墓場なのだ。
もっとも、下からわざわざ獣道を掻き分けてくる者など、俺と小夜子ぐらいである。
どこからか、動物の鳴き声が響いてくる。それは死者の呻きにも似ていて、どんよりとした空と背の高い木々に覆われた山の中の一角を、さらに不気味に演出していた。
「兄さん……」
小夜子が、リュックに詰め込んでいた花束を取り出して、最後に玲司が倒れていたはずの場所にそっと置く。
二人して手を合わせ、黙祷を捧げた。
伏せた目蓋に、再び降り始めた雨がパラパラと落ちてくる。
「兄さん、僕、兄さんが行くはずだった大学に行くよ」
目蓋を持ち上げた小夜子が静かに語った。
紡がれる声は細く凜としている。
男として考えるなら高めの声だが、その口調は少年そのもの。
八ヶ月ほど前まで、少女そのものだった彼女の面影はずいぶんと薄くなっている。
「本当は兄さんに勉強を教えてもらいたかったけど、兄さんは忙しそうだから、志岐にでも手伝わせるね」
その言葉に、俺は苦笑をこぼした。
「俺は、玲司ほど頭はよくないけど、がんばるよ」
ぽつりぽつりと近況を語っている間に、雨が激しくなってきた。
玲司に捧げた花は、あっという間にびしょ濡れになっていく。
最後にもう一度手を合わせて、俺たちはいつもよりも少し早めにその場を去ることにした。
服も靴も防水仕様で来たが、それだってすべての水分を体から弾けるわけではない。
足場の悪い山道を歩き続けた疲労もあり、俺たちは近くの宿で休ませてもらうことにした。
小さな旅館だ。団体客がきているので一部屋しか用意できないと言われ、どうするか話し合う余地もなく、俺たちはひとつの部屋に通されることになった。
「ごめん。大丈夫か?」
「なにが?」
部屋に通されるなり、小夜子はすぐにレインウェアを脱ぎ始めた。
夏だから、アウターの下は薄着だ。汗で張りついた長袖のアンダーウェアが、体のラインをハッキリと浮き上がらせている。
なんとなく視線をそらした俺に、小夜子はクスリと笑った。
「大丈夫。さらし代わりのインナーを着けてるから」
なんのためらいもなく、小夜子はシャツをぺらりとめくってみせた。
そこにあるのは黒い下着――だが、胸の膨らみを包むというよりも、胸を潰すような構造になっている。
もともと、小夜子の胸は豊満とは言えないまでも、人並みに育っているように見えた……気がしたのだが、いま見せつけられた状態では、膨らみはほとんど目立たない。男のタンクトップ姿とさほど変わらないように見えた。
「なに赤くなってるの?」
「ご、ごめん……」
「女の体に見えなくて安心した?」
「うん……正直」
「かわいいね、志岐は」
からかうような仕草で指先で顎をくすぐられたあと、触れるだけのキスをされる。
高校の時からほとんど身長が伸びていない俺に対し、ここ数ヶ月で急成長を遂げた小夜子の身長は、もう少しで俺に追いつこうかというほどになっている。
こうしていると、目の前にいるのは誰だろうか、と不安を覚える。
「小夜子……」
「そういえば、名前のことなんだけど」
存在を確かめるように名前を呼んだ俺に、小夜子は思い出したように首をかしげてみせた。
「この格好で、女の名前で呼ばれると知らない人に変な顔をされることが多いから、これからは『よる』って呼んでくれない?」
「よる……?」
「そう、夜。それなら、男の名前にも聞こえるよね?」
悪戯っぽく笑う小夜子――いやよるは、今まで自分が呼ばれ続けていた名前が変わることに、なんの未練もないみたいだった。
「……小夜子はそれでいいのか?」
人間だから、永遠に不変なんてことはない。変化はいいことだ。
だけど、短い期間の間に幼なじみの少女のなにもかもが変わってしまったようで、俺はおそろしさをすら感じる。
「……私、もうすぐで十八になるのよ」
彼女が女らしい口調で喋るのは、実に八ヶ月ぶりのことだった。
「兄さんの人生が終わりを迎えた『十七歳の夏』もじきに追い越してしまう。ここにいる私は、もう兄さんが知っている私じゃない。だったらそんなもの、いつ終わってのいいのよ。……私を『小夜子』と呼ぶただ一人の人は、もう夢の中の兄さんだけでいい」
俺たちは、胸の中にいつまでも、時を止めた宝石のようなものを抱え込んできた。
それは玲司との思い出であり、玲司への想いであり、玲司への執着そのものでもあった。
変わっていく世の中、変わっていくまわりの人間、変わっていく自分自身の中で、その宝石との間に軋轢が生まれ始めていることは自覚していた。
その宝石を『過去の出来事』として昇華させることはできなかったから、癒着して皮膚の一部のようになった自分自身ごと、小夜子は切り離そうとしている。
捨てるためではなく、永遠に聖域として守っていくために。
その想いを否定することなど、俺には到底できなかった。
「……わかった、これからは『よる』って呼ぶよ」
これでいいのだろうか、という疑問は消えない。
それでも、ぎこちないながらも頷けば、小夜子、いやよるは、ほっとしたような表情を見せる。
「志岐なら、わかってくれると思ってたよ」
発せられた言葉は、もう少年のような口調に戻っていた。
反射的にその細い体を抱きしめてしまったのは、愛情などではなく、哀れみ、あるいは共感に近い何かだったのかもしれない。
群れからはぐれた寂しい獣たちが身を寄せ合うように、俺たちはしばし、互いのぬくもりを確かめていた。
「志岐、冷たい」
しかし、よく考えたら俺は、濡れた服を着たままの格好だった。
「ごめん」
「大浴場の方に行ってきなよ。部屋のお風呂は僕が使わせてもらうから」
「うん……そうだな」
よるにも大浴場を勧めたいところだったが、男なんだか女なんだか曖昧な今の彼女、いや彼が大浴場で好奇の視線に晒される可能性を考えると、安易な言葉は口にできなかった。
俺は浴衣に着替えて大浴場に向かう。
そのあいだに、よるは部屋のシャワールームにさっさと入っていた。
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