朝がくるまで待ってて

夏波ミチル

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5 「好き」ということ

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 なにをするでもなくぼんやりと座っていたら、二十分ほどしてから運転席のドアがあいた。
「小夜子、ミルクティーでよかったか?」
 差し出されたミルクティーの缶に、私は少々困惑する。

「もう買ってあるわ」
 先ほど自ら買った缶を見せると、志岐は目を丸くした。

「ごめん、余計なお世話だったか」
「まさかとは思うけど、これも一緒に買った?」
 緑色の炭酸の缶も見せると、志岐は笑った。
「えっ、なんで?」
 久々に見る、屈託のない笑顔だった。

 よく見たら、運転席のドリンクホルダーにも同じ缶が入れられている。
 私たちは、示し合わせてきたかのように、自分の分と相手の分、同じものを買っていたのだ。
 一応これでも幼なじみ。相手の好みは把握していたせいだ。

「いらなかったかしら?」
「いいや、もらうよ。ありがとう」
 助手席との間にあるドリンクホルダーも引っ張り出して、志岐はそこに、私が差し出したジュースを入れる。

「いい大人になったのに、子供の頃から好みは変わらないのね」
 緑の缶を見ていたら、妙に感慨深くなってしまった。
「ジュースぐらい、大人でも年寄りでも飲むだろ」
 笑みを浮かべたままシートベルトを締めて、志岐はエンジンをかける。

「そうだけど……コーヒーとかは飲まないの?」
 顔は少し童顔気味の志岐だが、佇まいはすっかり大人びている。スーツを着ている姿だとなおさらだ。ちゃんと、大人の男になったように見える。
「会社で、誰かにコーヒーを出されたら飲むよ。でも、自分で選んでは飲まないな」

 車を駐車場から出す動きも慣れたもので、そういうところもやっぱり大人だと思う。
「大人になりたくないのね」
「……」
 志岐は答えなかった。答えないことが、彼の『答え』なのだろう。

 兄を失った時、志岐はまだ十七歳だった。
 兄の年齢は十七で止まったまま。
 自分だけ年を重ねて成長するということを、受け入れがたいというのだろう。

 私はもうすぐ、あの時の兄と同じ年齢になる。
 来年には、兄の年を追い越してしまう。
 幼い頃は永遠に追い越せないと思っていた憧れの人を追い越してしまう。
 それは、筆舌にしがたい感情であった。
 だから、志岐の気持ちも、なんとなく察することができる。

「……この間、朋美がね、おかしなことを言っていたのよ。私と志岐が偽装カップルになればいいんじゃないか、って」
 車が国道にさしかかったところで、私はふと思い出して、口を開いていた。
 いつもは家につくまで一言も喋らないなんてことは珍しくないけど。なんとなく、今日は無駄なおしゃべりをしたい気分になったのである。

「……偽装カップル?」
 志岐は怪訝そうな声を返してくる。
「私も志岐もそれなりにモテるでしょう? でも、誰とも付き合う気なんてない。だから、『付き合ってる』って嘘をつけば、めんどくさい告白とかが減るんじゃないかって」

「……でも、七歳も年上の男と付き合ってるなんて、小夜子にとっては不名誉なことなんじゃないのか?」
「あら? 女子高生と付き合っているってことにしたら、志岐は犯罪者呼ばわりされてしまうかしら?」

「……小夜子が小学生の時に恋人疑惑をかけられて、ロリコン呼ばわりされたことならあったけど」
「そういえばそんなことあったわね」

「でも、ホモ呼ばわりされて玲司まで『そういう』目で見られた時の方がキツかったかな」
「もちろん否定したのよね?」
 フロントミラー越しに志岐を睨む。
 志岐がなんと言われようと気にしないが、兄さんが巻き込まれたのであれば許しがたい。

「そりゃあ、うまいこと誤魔化したさ。玲司は『そういうこと』にしといてもいいぞ、って言ってくれたけど。……玲司は優しいから」
 声音に、温かみがこもる。
 ああ、この男は、本当に兄のことが好きだったのだ。

「……志岐は、兄さんと付き合ってたわけじゃないの?」
 ずっと、聞かない方がいいと思っていた話だった。だけどいま、ようやく確かめてみたくなった。
「違う、と思う」
「思う?」
 ずいぶんと曖昧な答えに、私は首をかしげる。

「……あの頃は、付き合っていると思い込んでた。……いや、ちょっと違うかな? 『オレの気持ちを受け入れてもらってる』って思ってた。でも多分、オレが一方的に好きだっただけだ。玲司はオレのこと、嫌いじゃなかったと思うけど、たぶん、オレの『好き』とは違った」
 フロントミラー越しに見た志岐の顔は、切なげにどこか遠くを見つめていた。

 ――手に入らないものに焦がれる。自分だけが一番特別だったと思いたかった。でも違った。
 その気持ちは、私にも覚えがあるものだった。

「……私もあの頃、兄さんの『一番特別』になりたかった。だから、実の兄弟でもないくせに兄さんにまとわりつく志岐のことが嫌いだった」
 窓の外に視線を移しながら、私は呟いた。

「嫌われてるのは、なんとなくわかってたよ。ごめん、小夜子と玲司の二人だけの時間を奪って」
「今さら謝ったって遅いわ。譲る気なんてなかったくせに」
「うん。でも結局、手に入らなかった」
「私が兄さんを殺したから」
「違うよ。オレが玲司よりも小夜子を助けることを選んだからだ」

「どうせ、兄さんに『小夜子を頼む』って頼まれたからでしょ?」
「そうだよ。本当は……小夜子を置き去りにしてでも……玲司の脚を切ってでも、玲司を助けたかった。そうしていればよかったと、事故のあと何度も考えた」
「私も、そうしてもらった方が嬉しかったわ」
 苦しそうな志岐の声。ずっと言えなかった言葉なのだろう。
言ってくれてもよかったのに口にしなかったのは、多分、兄さんと同じくらい、志岐も優しいからだ。

「玲司じゃなくておまえが死ねばよかったのに……なんて、誰も私には直接言わなかったけど、みんな同じこと思ってるのを感じてたわ。父さんも母さんも……みんな、私よりも兄さんのことが好きだったから。でも、それでもよかったの。私も、私自身のことよりも兄さんのことが好きだったから。私も、なんで生き残ったのが私なんだろう、ってずっと考えてた」

「そんなこと言うな」
 懺悔にも似た言葉を淡々と吐き出す私に向けられたのは、冷たく厳しい声だった。
「玲司が、小夜子が生き残る未来を、オレや小夜子やみんなに選ばせた。オレは、玲司の決断が間違いだったとは思いたくない……」

 彼の兄への愛は、信仰に似ている、と思った。
 いや、昔はそうじゃなかったのかもしれない。ごくありきたりな、子供じみた恋愛感情だったのかもしれない。
 しかし、兄を失ったあとの長すぎる時間が、彼の愛を神聖で、狂信的なものへと変えてしまったのかもしれない。

「……私、志岐と付き合ってあげてもいいわよ」
 たとえ嘘でも志岐とそういう関係になるなんてありえないと思っていたけど、気が変わった。

「……なんだって?」
 聞き間違いだとでも思ったのか、赤信号で停車したところで、志岐はわざわざ振り返ってこちらの顔色を窺ってくる。

「偽装じゃなくて、本物の恋人にしてあげてもいいわ」
「……小夜子は別に、オレのことが好き、ってわけじゃないよな……?」
 声からは戸惑いがにじみ出ている。

 性格はともかく顔だけは美しい、とよく言われる女子高生からアプローチされたというのに、ずいぶんと間抜けな反応をするものだ。
「そうね。でも、私が兄さんを好きなのと同じぐらい志岐も兄さんが好き、っていうのは認めているわ」


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