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第三話 血みどろの都
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「はあはあ・・・」
獣道にカドワロンの吐息が漂う。
一歩一歩踏みしめる度に、森は仄暗くなり、木々は妖しく揺らめく。
「もう、おれは歩けるぞ」
カドワロンに背負われたエドウィンが話しかけた。
「大丈夫ですよ、せっかくここまで来たのですから、最後まで行かせてください」
カドワロンの額の汗が薄暗い森の中で時々光る。
カドワロンの背に揺られながら、エドウィンは懐かしい感情を抱いた。
バーニシア軍に追われてからというもの、こうして一息つくのは初めてだった。このカドワロンという少年を完全に信用したわけではない。国を亡くし、心身が疲弊の極致に達した状態でブレトワルダになれといってくる目の前に少年に心を許すわけがない。
今日、飯にありつけるかどうかという生活を一ヶ月も続けていたのだ。そんな自分がブレトワルダ、つまりブリタニアのハンバー川以南であるサウサンブリアに君臨する盟主となるなど、どう考えてもまともではない。
運が良くて敵であるバーニシア王エゼルフリッドを討ち取れるかどうかである。悪ければ、人知れず餓死するだけ。
「僕のこと、疑っていますよね」
カドワロンの言葉にエドウィンはどきりとして。目に力が入った。
「当然ですよね、逃亡の身のあなたにブレトワルダなどと、僕があなたの立場でも怪しみますよ」
「お前はいったい何を望んでいるんだ」
「だから僕はマーリンになるんですよ、アーサー王伝説のマーリンにね、そのためにあなたを王へと導くのです」
「ならばエゼルフリッドの元に行けばよかろう、それに現ブレトワルダのエゼルベルト王がいるではないか」
「確かに、ブレトワルドでもある最大勢力のケント王エゼルベルト、それに今や飛ぶ鳥を打ち落とす勢いのバーニシア王エゼルフリッド、取り入るならこのどちらかでしょう」
「ああ、戦上手なエゼルフリッドはまるで枯れ草に広がる野火のように、我がデイラを呑みつくした」
「ええ、エゼルフリッド王率いるバーニシア軍はデイラに留まらず、北のスコットランドでピクト人を打ち払い、南西のカムリ・・・失礼、あなた方が言うところのウェールズに進入し、略奪を繰り広げています。あなたが住んでいたデイラの首都ヨークを抑えると西進、リーズ、マンチェスター、そして間もなくリバプールも占領されます」
「そうか、オレは逃げるのに必死で知らなかったよ、ずっと人目を避けて山道を進んでいたからな」
「このままではブリタニア南東の諸国家も時間の問題でしょう」
「アングリア、東サクソン、そしてこのケント王国か」
「豊かな穀倉地帯が広がるアングリア、ブリタニア最大の都市ロンディニウムを擁する東サクソン、大陸との交易拠点ドーバーの恩恵による最先進地域ケント、狙われないはずがありませんね」
「ああ」
エドウィンは改めて自身の仇を確認した。なんと大きな存在であるのか、惨めな自分の現状と比べるのも恐ろしい。
「しかし、それだけ恨みを買っているということでもあります、ピクト人、ブリトン人、そして同族のアングロサクソンからもね」
「ほう・・・」
カドワロンの卓見にエドウィンも目が覚めるような思いだった。
「まあ、覇王エゼルベルトならばバーニシアを破ることができたでしょうね、彼の若い頃ならば・・・」
「なるほど、両雄並び立たずか、2つの国家が相争えばどちらが勝っても無事ではおれまい。しかし、おれにブレトワルダほどの王となる素質があるのか」
「それについては上手く言えませんが・・・」
カドワロンは立ち止まった。
「そう囁くんですよ、僕の精霊達が」
「・・・」
眉をひそめたエドウィンは黙ったまま、再びカドワロンの背に揺られた。
「エゼルフリッド様、準備が整いました」
深くフードを被った女が控えめな声で言った。鼻先がぎりぎり見えるか見えないか、はっきり見えるのは唇だけ、口元のほくろが妙に艶っぽい女である。
「そうか」
答えるとエゼルフリッドは切り株から腰を上げた。
日の光が点々と差す林の中で、ゆるりと瞑想に耽っていた彼は目の前の女を見ると、一度深呼吸をした。
「では、行こうか」
二人は歩き始めた。エゼルフリッドがだんだんと覚醒する感覚を楽しんでいるとすぐに目的地へとついてしまった。
それは大きくはない。かといって安っぽくもない小屋である。しかし、古いものなのだろう。壁には少しだが苔がついている。大した装飾もないのにどこか厳かな感触を得るのは、その施設の用途に由来する。
中に入ると、中央に大量の肉の塊が幾重にも重なっていた。
山の様な犬の死骸である。
血と泥で赤黒くなったそれらは一瞥しただけでは、犬のそれとは分からない。
「ひどい匂いだ」
「申し訳ございません」
「では、さっそく始めてくれ、アクハよ」
「イエス、ユアマジェスティ」
アクハと呼ばれた女は死骸の山に近づくとなにやらぶつぶつと唱え始めた。古の言葉で紡がれたスペルを聞き取ることはエゼルフリッドにも他の者にもできはしない。
ポウッ。
だんだんと部屋の中が明るくなっていった。日光ではない、松明でもない。
死骸を中心とした魔方陣、そこに書かれた不思議な形の文字が妖しく光を滲ませながら浮かび上がっていた。それらは直線と幾何学図形の組み合わせのようなルーン文字。
「ほう」
エゼルフリッドは改めてアクハの魔術に歓心した。
海の向こう、遥か東の地で生まれたこの呪術の調べ。単に美しいというものではないが、どこか聞くものを魅了する。
「うううぅぅぅうぅ」
突然、犬の唸り声が響いた。
死骸の山の上に黒い靄のようなものが現われ、次第に固まり、犬の群れとなってアクハを睨み始めた。
「行きなさい、カンタベリーへと」
アクハの指示に従い、犬の形をした死霊の群れが出入り口へ向けて疾走。扉をすり抜けたのか、儀式の場にはもういない。
カンタベリー、現ブレトワルダであるエゼルフリッド王が治めるケント国の首都。ベルガが達が住む町である。
「見事だ、アクハ」
「光栄であります、陛下」
アクハが用いるのはルーン呪術、戦争と死を司るオーディンが編み出した魔術である。死霊の使役をその真髄とする、禍々しき技法。
アクハはその生まれ持った資質が故に、家族からですら忌み嫌われていた。高貴な生まれでありながら、彼女のこれまでの人生において華々しいものは全くない、ただ一点、エゼルフリッドと出会ったことを除いて。
「これからも、この私を支えておくれ、アクハ」
エゼルフリッドの手がアクハのフードの中に入り込み、鬢を撫でる。彼の声は愛撫の手よりも優しかった。
「いけません、陛下」
アクハは後ろへ退いた。
「儀式を終えたばかりのこの身は穢れています」
「なら、ゆっくり身を清めてから、私のところへおいで・・・アクハ」
エゼルフリッドは軽い足取りでその場を後にした。
「さあ、服を脱いで下さい」
既に裸になったカドワロンがエドウィンに向かっていった。
「なぜ、脱がねばならない」
「あなたの体を癒すためですよ、さあ早く」
そこは清浄なる泉。百年以上誰一人として足を踏み入れていないのではないかと思えるが、カドワロンがエドウィンを連れてきたかったのはここなのだ。
ついてすぐ、カドワロンは身に着けているもの一切を外した。そして泉に入り、今は腰まで浸かっている。
「男同士ですよ、ためらうことないでしょう」
「そうだが・・・」
エドウィンは渋々承知した。
エドウィンが衣服を一枚脱ぐたびに傷が露になってゆく。カドワロンはあまりの惨さにそのまま見入ってしまった。
塞がったものもあるが、ほとんどが生傷だ。矢に刺さった後もある。今まで山の中で木の実と僅かな露で飢えを凌ぎ、薬草を噛んで唾液と混ぜたもので傷を癒してきた。
自分が死んでいるのか生きているのかも分からなくなっていた。ベルガにダガーを向けたのはそんな時だったのである。
エドウィンも泉に入った。
「さあ、ここまで来てください」
エドウィンはカドワロンの前まで来た。
清らかな泉の中で、一糸まとわぬ姿で向き合う少年。
カドワロンはエドウィンの両手を握って目を閉じた。
「万能たる太陽神ルーの祖にして、医術と鍛冶を司るディアン・ケヒトよ、この者を癒し給へ」
カドワロンの言葉が引き金となり、泉が騒がしくなった。
いや、実際に音がするのではない。ただエドウィンは異様な気配を察したのである。
泉の中から暖かなものが込み上げてきた気がした。
静かにカドワロンが目を開けると、エドウィンの両手を離して泉の水を掬ってそれをエドウィンに頭からかけた。
エドウィンは体の奥、芯から熱くなるのを感じた。中心から末端へ、今まで止まっていた血流が突然迸るように、脈打つ鼓動は全身を震わせる。
エドウィンを癒すのは、女神ダヌより生まれしダーナ神族の中で随一の知恵者ディアン・ケヒト。かつてブリタニア全土を巻き込んだ神々の戦いにおいて、死をも打ち消した治癒の泉。神とて死からは逃れられない、しかし首を失っていなければ現世へ蘇る。
フォモール族との戦争においてダーナ神族軍が勇猛に戦ったのも、この治癒の泉が故である。
ドンッ。
エドウィンの全身から力が抜け、カドワロンに寄りかかった。
優しい眼差しで彼を受け止めるカドワロン。
「すま・・ない・・」
「いえ、今はただお眠りなさい、ゆっくりと、安らかに・・・」
頭の中がだんだんと白く塗りつぶされて行くなかで、エドウィンの耳にカドワロンの声だけが響いた。
「おやすみなさい、僕の王子様・・」
夜。
月の光によって浮かび上がるカンタベリー大聖堂は神々しく、厳かでもあり、何より近づき難い不気味さも合わせ持つ。
周辺の民家には光すら無い。祭りがあるわけでもないのだから、当然明日の農場働きに備えて寝入っている。
ここにもひとつの家屋がある。父母と兄弟が2人の4人家族。麦や野菜を生業とし、働き者の父に料理の上手な母。兄は去年から父の手伝いをするようになり、弟はまだ母にべったりだ。
幸せな家庭。ただ、その一言に尽きる。これから起こる惨劇など、嘘のようにただ静かな夜であった。
「どうした、おしっこに行って来たのか?」
「・・・・」
弟は答えなかった。
先ほど独りで外に出た弟が子供部屋に戻ってきたのだが、動かない。
弟がベッドから抜け出す音で目を覚ましていた兄は、帰ってきた弟がベッドへと戻らずにドアで立ち尽くしていることに不信な眼差しを向けざるを得なかった。
兄は弟が漏らしたのかと思った。
「うぅぅうぅううううう」
「?」
弟が苦しむような呻き声をあげた。いや、正確には弟の形をしたそれが、である。
一歩、また一歩。ゆっくりと、歩き方をひとつひとつ確かめるような素振り。
だんだんと歩きが滑らかになって行く。
二人の距離が近づくにつれ、兄は自身の運命を少しづつ理解し始めた。
弟は不気味に喉を鳴らしながら、奇妙な足取りで近づいてくる。はっきりと見えるようになった、その時、兄は思った。
弟の顔が犬のそれになっていることになぜ気づかなかったのかと。
思ったのは一瞬だけ。
犬面の怪物は兄に悲鳴すら出させずに、その命を食らった。
「何の騒ぎですっ」
衛兵に怒鳴り声を上げるベルガに普段の優美さはなかった。火の様な覇気に衛兵も槍を握る手に力がこもる。自室から廊下へ飛び出てきたベルガは、睡眠中だったこともあり下着に近い格好だ。
ベルガをそうさせるほどに、城内の騒ぎがあまりにも大きかったのである。
「城内、城外に魔物、多数!見境無く人を襲っています」
「魔物ですって!」
「姫様、無闇に出歩かんで下さい、危険です」
「離しなさい、負傷者の手当てを、人手が要るでしょっ」
羽交い絞めにする衛兵にベルガは叫んだ。
「ぐるるるぅうぅうう」
二人の耳に獣の声が届いた。
近い。
一方の廊下の先に人影がある。いや、人に見えるものの影だ。篝火がいくつか消えていたからぼんやりとしか見えない。
「姫様、私の後ろにっ」
衛兵の判断は正しかった。こちらが慌てて動くとそれに呼応して駆けてくる、それ。一目で分かる、人の速さではないことに。
「この化物めっ!」
衛兵が剣を打ち下ろすが空を切った。
「ガルっ」
その魔物、犬の頭をした男は軽々と避けて、衛兵の喉へ牙を立てた。
「!?」
すると、突然、ベルガは言葉を失った。目の前の惨状にではない。聖女であっても、戦国の世を生きる姫。血は見慣れている。
では、何が彼女を驚愕させたのか?
「お前・・・ケルベルだな」
噛まれた衛兵は魔物と抱き合うような格好でなんとか言葉を絞りだした。
「この者、やはり衛兵の一人なのですね?」
ベルガが場違いにも、ゆっくりと確認するように問うた。当然衛兵に答える余裕はなかった。
そう、この犬面の魔物はあろうことか城内を警護する衛兵隊の衣服と装備を身に着けている。噛まれた衛兵はこのケルベルと呼ばれた魔物と知り合いであった。
顔は変わり果てても体格や個人の装身具までは変わらないから、この衛兵は気付いたのだが、それに気付いたのが運の尽き。その事実は衛兵の初太刀を鈍らせるのに十分であった。
ドサッ。
血まみれの衛兵は力を失った。
ベルガは後ずさりするが、逃れることなどできようもない。ケルベルの体を乗っ取った魔物は赤く染まった衛兵が絶命したのを確認すると、ベルガの姿を捉えて一息に飛び掛ってきた。
「くっ」
歯を食い縛りながら、間一髪で身を翻したベルガはその勢いのままに倒れた衛兵へと向かった。丁度、位置が入れ替わったベルガと魔物。
ベルガは近くに落ちていた衛兵の剣を拾い上げた。
真っ直ぐに立つベルガ。見下ろすような目つきで、剣の切っ先をそれへと向けた。
「控えよっ、下郎!」
体中がビリビリと痺れ、熱くなるのをベルダは感じた。
「我が名はベルガ、高貴なるこの身に触れんとすればこの剣の錆にしてくれる!」
再び魔物は唸りながら牙を露にしながら地を蹴った。
「はあ・・・、はあ・・・、はあ・・・、くっそぉぉおお」
ライラは肩で息をしながら、犬面の魔物の群れを睨みつけた。斬っても斬ってもきりが無い。早くベルガを迎えに行かなければならないのに、王族の寝室へと続く廊下を兵士や農民の格好をした魔物共が陣取っている。
「少しづつではあるが、近づいているぞ」
隣で衛兵の一人がライラを励ます。普段は奴隷上がりのライラを見下す衛兵達も今回ばかりはそんなことを言ってられない。衛兵数人と共に、ライラはベルガの寝室を目指している最中だ。
「わかっちゃいるがよーーーー」
叫びながら、ライラは槍で魔物の頭を殴打した。
「こいつら、何匹も何匹もしゃしゃり出やがって」
別の固体の胴を貫いた。
「くっ、なに!?」
ライラが胴を貫いたが、引き抜く前にそいつは槍を両手で掴んだ。死を覚悟しながらもニヤッと笑ったように、ライラには見えた。別の奴がライラの横へ回りこんでくる。
隙をついて横から迫り来る剣、ライラにはそれが牛の歩みのように遅く感じた。
「しまっ・・・」
がきいぃぃいいん!
「貴様は失うに惜しい男だ」
ライラは目を丸くして、交差する二振りの剣を見た。一方の剣は化物が、そしてもう一方のライラを守ったその剣を持つものは・・・。
「お前、エドウィンじゃないか」
と、ライラが言う前にエドウィンは、そのまま鍔迫り合いになった魔物を蹴り飛ばした。
「従士如きが、このオレを呼び捨てか?このデイラ王位第一継承者のエドウィンを」
「ったく、死にかけてるお前を看病してやったのは誰だよ」
「だから、今その借りは返しただろ」
ふんっと、エドウィンは鼻で笑い、ライラはこめかみをピクピクさせながらエドウィンを睨みつけた。
「喧嘩してる場合じゃありませんよ」
殴り合いを始めそうな二人にカドワロンが声をかけた。
「あ、お前は今朝のっ」
「説明は後です、早くベルガ姫を助けなければ」
「なにっ、お前ら・・一体」
「説明は後と言ったでしょ!」
真剣な目で訴えるカドワロンにライラは信用するしかなかった。
「こっちだ、この先に王族の寝室がある、お嬢もそこにいるはずだ」
ライラは魔物の群れを指しながら言った。
「分かりました、では、どいて下さい」
カドワロンが二人を押しのけて先頭に立った。
「なにっ?一体何するつもりだよ」
「黙っていろ」
エドウィンに制せられたライラは不満げに口を尖らせた。
カドワロンは大きく息を吸い込んだ、深く腹の底まで。そして右の掌を奴等へ向けた。
「リッド!」
風。
ほんの一瞬だけカドワロンの右手に向かって風が走る。
ボンッ!
と空気が爆ぜる音とともに、紅の塊が魔物のグループを襲った。
「なっ!」
ライラは間抜けな声を上げざるを得なかった。
炎は魔物全てを焼き尽くすことはできないが、火傷そしてさらに混乱状態にするには十分であった。
「さあ、行くぞ、ライラ」
「お・・、おう」
驚いて動くことを忘れたライラにエドウィンは声を掛けた。
「あいつ、お嬢がするようにオレを呼びやがって」とライラは心の中で舌打ちをした。
二人は蟻でも踏み潰すかのような容易さで、戦意喪失状態の魔物に一匹づつ止めを刺して行った。
「はあ、はあ、はあ」
「ん?」
群れの大半を絶命させたライラは疲弊したカドワロンに気がついた。群れの残りは散り散りになって逃げ惑っている。
「大丈夫か?」
「ええ、今は息が上がっているだけですから」
ライラに魔術の心得はなく、カドワロンが疲れているということしか分からなかった。
一行は迫り来る魔物に対応しつつ、先へ進んだ。エドウィン、ライラ、カドワロンを先頭グループにしてその後を衛兵5人が付いて行った。先ほどと違い、大きな群れには出くわさず、2、3匹の徒党のみが散発的に襲ってきた。
エドウィンとライラが対応し、カドワロンは適宜魔術でサポートをした。先ほどのような全体攻撃でなければ連発が可能なのだ。
「そろそろだな」
ライラが言った。
「あの角を右に曲がれば・・・」
T字交差するところへ走りながらライラは言ったが、言い終わる前に寝室がある方から人影が現われた。
濃厚な血の匂い。一行はすかさず身構えた。しかし・・・。
「お嬢様!」
駆け寄ろうとするライラ。
「待て、様子が変だ」
エドウィンが重く落ち着いた声で止めた。
現われたのはまさに皆が求めるベルガ本人であった。彼女はこちらに気付いたのか異様な雰囲気でこちらに近づいてくる。
血で満たされた桶を頭からかぶったかのように、その美しい髪も肌も鮮血で穢れている。虚ろな目、そして力なく引きずるように握る、というより指先を引っ掛けた剣。
「ああああ・・・」
ベルガの寝ぼけている様な声が辺りに響く。
「無事なのはいいが・・・厄介だな」
ライラがぼやいた。
「エドウィン、あと魔術師さん・・カドワロンっていったか?とりあえず、あの人を捕り押さえてくれ、あの人を元に戻す方法ならオレが知ってる」
ライラの言葉には確信が篭っていた。
「ならば、任せよう」
ライラを信じ、エドウィンはじりじりと間合いを詰めて行った。目の前の少女は明らかに今朝とは違う。今まで相手にしていた下級の魔物とは一線を画す、純粋な暴力を秘めた魔性の力に体中の皮膚がひりひりする。
「っがあぁぁあああ!」
咆哮、そして雷のような剣戟。ベルガの華奢なその身からは想像もできない疾風怒涛。エドウィンは防ぐので手一杯だ。カドワロンの治癒の泉に入る前なら5秒ともたなかっただろう。
鬼神。
それ以外に形容する言葉が見つからない。
恐ろしい速度で白刃がエドウィンの喉元へ喰らいつかんとするが、寸でのところで身を捩り、逃げ回る。女相手に恥も外聞もない。
ダンッ、トッ、トンッ、ダッ、ダンッ。
死へと誘う舞踏。
軽やかな歩調は正確無比、滑らかな所作は変幻自在、撓やかな剣身は電光石火
エドウィンは全身全霊をもってパートナーをつとめるが、長くは持たない。しかし、段々と目が慣れてきた。
ベルガは細いその体をバネのように伸縮させて剣を繰り出す。膂力ではなく、類まれな運動センスがなせる技。だが、それ故に動きの緩急が悟られやすい。また、野獣の如き動きは速いが単調で工夫がない。
エドウィンが大きく後ろへ跳んだ。
ベルガも即座に彼を追いかけて跳びかかった。
伸びやかな突き。膝のバネを最大限活かした神速の剣。
予測していたエドウィンは逆に踏み込むながら掻い潜ると、伸びきったベルガの腕に絡みつき引き倒した。
背中を強打して内臓の痛みで悶絶するベルガに馬乗りになったエドウィンは顔面を殴打。
鈍い音と共にベルガは沈黙。エドウィンの行動に一同唖然とした。暴れてはいるが、王女なのである。
「淑女として育てられはしたが、それでもお嬢はブレトワルダの血を受け継ぐ者」
全員で気を失ったベルガの手足を縛り、ライラは説明を始めた。とは言っても男数人で縛られた少女を囲っている。はたから見ると色々と問題のある光景だ。
「最初はエゼルベルト王も飲み込みの速さに喜んでいたんだが、剣技の上達に合わせて父の血が騒ぎだして凶暴な性格になってな」
ライラがベルガのそばに寄り、体を揺すって起こし始めた。
「お嬢の母、王妃ベルダ様は無理やり信仰によって性格を矯正したんだ」
ポケットから小さな十字架を出した。
丁度、ベルガは目を覚まし、再び暴れようとしたが全員で押さえる。
「天にまします我らの父よ。願わくは御名を崇めさせ給え。 御国を来たらせ給え。御心の天になる如く、 地にもなさせ給え。 我らの日用の糧を、今日も与え給え。 我らに罪を犯す者を、我らが許す如く、 我らの罪をも許し給え・・・」
十字架をベルガの目の前に見せて、祈祷を唱えるライラ。悪魔祓いさながらにベルガから溢れ出る狂気を取り除く。
段々、ベルガの荒く浅い呼吸が穏やかで深いものに変わってゆく。
「ライラ・・・」
「気分はいかがですか、お嬢様」
我に返ったベルガは父に甘える幼子のような目でライラを見た。
「縄はもういいですね」
カドワロンが縛っていた縄をナイフで切った。
ベルガは体を起こし、周囲を見渡した。ライラと衛兵達、そして今朝消えたエドウィンとカドワロン。
「一体、どうなっているのですか?」
ベルガはライラに問うたが、ライラも答えられない。
「僕が説明しますよ」
カドワロンがベルガの前に出た。
「今朝は大変失礼をしました」
カドワロンが跪く。
「先ずは、この事態について」
ベルガは息を呑んでカドワロンの言葉に耳を傾け始めた。
「これらの魔物はコボルト、犬の死霊が人にとり憑いたのです」
「コボルト?」
「はい、お姫様には想像もできませんでしょうが、この世界には魔術というものが存在するのです。僕は火や雷など自然現象の操作、発現、増幅を得意としています。しかし、このコボルトは死霊の使役、つまりルーンの魔術によるものだと思われます」
「ルーン魔術・・・だと」
エドウィンが思わず声を漏らした。
「ええ、ルーン・・・あなた達アングロサクソンの遠き故郷で育まれた魔術です」
すかさず、カドワロンが答えた。
現在のブリタニアでルーンの魔術を操る者など何人もいない。そしてその術者にエドウィンは心当たりがある。またカドワロンにも見当はついているのだ。
「この惨劇、もちろん偶然にこのカンタベリーが襲われたわけではありません。術者は明確な意図をもって古の術を使ったのです。このカンタベリーを首都とするケント王国を虎視眈々と狙う者、バーニシアのエゼルフリッドですよ」
「なぜ、彼だと?この豊かなケントを狙う者は他にもいるでしょう」
「このルーン魔術を実行したのはな」
急にエドウィンが二人の会話に割って入った。ここからはオレが、と目が力強く主張するのでカドワロンは彼に任せた。
「エゼルフリッドのライラ侵攻に荷担した・・・」
言い辛そうにエドウィンは目を伏せた。しかし、意を決して口を再び開く。
「裏切りの魔女、我が妹のアクハなんだ・・・」
エドウィンの言葉が虚しく辺りに響いた。
次回予告
カドワロン
「いやぁ~、今回は魔術の連発で疲れちゃいましたよ。『まほうのせいすい』とか『エルフののみぐすり』とかあると楽なんですけど、現実にはそんな便利なものないんですよね。全体攻撃とかやっちゃうと息止めて、100mダッシュしたみたいな状態になるんでホント辛いんですよ、単体攻撃連発しても体は動いてなくてもマラソンしてるくらい体力使うんです。こういう魔法とか魔術キャラって体貧相なイメージが一般的に流布してますけど、あれ嘘ですから、戦士並に肉体酷使しますからね、僕も結構鍛えてるんですよ。
おっと、関係ないこと喋っちゃいましたね。それでは次回、
『鯨面の刺客』
みなさん見て下さいね」
獣道にカドワロンの吐息が漂う。
一歩一歩踏みしめる度に、森は仄暗くなり、木々は妖しく揺らめく。
「もう、おれは歩けるぞ」
カドワロンに背負われたエドウィンが話しかけた。
「大丈夫ですよ、せっかくここまで来たのですから、最後まで行かせてください」
カドワロンの額の汗が薄暗い森の中で時々光る。
カドワロンの背に揺られながら、エドウィンは懐かしい感情を抱いた。
バーニシア軍に追われてからというもの、こうして一息つくのは初めてだった。このカドワロンという少年を完全に信用したわけではない。国を亡くし、心身が疲弊の極致に達した状態でブレトワルダになれといってくる目の前に少年に心を許すわけがない。
今日、飯にありつけるかどうかという生活を一ヶ月も続けていたのだ。そんな自分がブレトワルダ、つまりブリタニアのハンバー川以南であるサウサンブリアに君臨する盟主となるなど、どう考えてもまともではない。
運が良くて敵であるバーニシア王エゼルフリッドを討ち取れるかどうかである。悪ければ、人知れず餓死するだけ。
「僕のこと、疑っていますよね」
カドワロンの言葉にエドウィンはどきりとして。目に力が入った。
「当然ですよね、逃亡の身のあなたにブレトワルダなどと、僕があなたの立場でも怪しみますよ」
「お前はいったい何を望んでいるんだ」
「だから僕はマーリンになるんですよ、アーサー王伝説のマーリンにね、そのためにあなたを王へと導くのです」
「ならばエゼルフリッドの元に行けばよかろう、それに現ブレトワルダのエゼルベルト王がいるではないか」
「確かに、ブレトワルドでもある最大勢力のケント王エゼルベルト、それに今や飛ぶ鳥を打ち落とす勢いのバーニシア王エゼルフリッド、取り入るならこのどちらかでしょう」
「ああ、戦上手なエゼルフリッドはまるで枯れ草に広がる野火のように、我がデイラを呑みつくした」
「ええ、エゼルフリッド王率いるバーニシア軍はデイラに留まらず、北のスコットランドでピクト人を打ち払い、南西のカムリ・・・失礼、あなた方が言うところのウェールズに進入し、略奪を繰り広げています。あなたが住んでいたデイラの首都ヨークを抑えると西進、リーズ、マンチェスター、そして間もなくリバプールも占領されます」
「そうか、オレは逃げるのに必死で知らなかったよ、ずっと人目を避けて山道を進んでいたからな」
「このままではブリタニア南東の諸国家も時間の問題でしょう」
「アングリア、東サクソン、そしてこのケント王国か」
「豊かな穀倉地帯が広がるアングリア、ブリタニア最大の都市ロンディニウムを擁する東サクソン、大陸との交易拠点ドーバーの恩恵による最先進地域ケント、狙われないはずがありませんね」
「ああ」
エドウィンは改めて自身の仇を確認した。なんと大きな存在であるのか、惨めな自分の現状と比べるのも恐ろしい。
「しかし、それだけ恨みを買っているということでもあります、ピクト人、ブリトン人、そして同族のアングロサクソンからもね」
「ほう・・・」
カドワロンの卓見にエドウィンも目が覚めるような思いだった。
「まあ、覇王エゼルベルトならばバーニシアを破ることができたでしょうね、彼の若い頃ならば・・・」
「なるほど、両雄並び立たずか、2つの国家が相争えばどちらが勝っても無事ではおれまい。しかし、おれにブレトワルダほどの王となる素質があるのか」
「それについては上手く言えませんが・・・」
カドワロンは立ち止まった。
「そう囁くんですよ、僕の精霊達が」
「・・・」
眉をひそめたエドウィンは黙ったまま、再びカドワロンの背に揺られた。
「エゼルフリッド様、準備が整いました」
深くフードを被った女が控えめな声で言った。鼻先がぎりぎり見えるか見えないか、はっきり見えるのは唇だけ、口元のほくろが妙に艶っぽい女である。
「そうか」
答えるとエゼルフリッドは切り株から腰を上げた。
日の光が点々と差す林の中で、ゆるりと瞑想に耽っていた彼は目の前の女を見ると、一度深呼吸をした。
「では、行こうか」
二人は歩き始めた。エゼルフリッドがだんだんと覚醒する感覚を楽しんでいるとすぐに目的地へとついてしまった。
それは大きくはない。かといって安っぽくもない小屋である。しかし、古いものなのだろう。壁には少しだが苔がついている。大した装飾もないのにどこか厳かな感触を得るのは、その施設の用途に由来する。
中に入ると、中央に大量の肉の塊が幾重にも重なっていた。
山の様な犬の死骸である。
血と泥で赤黒くなったそれらは一瞥しただけでは、犬のそれとは分からない。
「ひどい匂いだ」
「申し訳ございません」
「では、さっそく始めてくれ、アクハよ」
「イエス、ユアマジェスティ」
アクハと呼ばれた女は死骸の山に近づくとなにやらぶつぶつと唱え始めた。古の言葉で紡がれたスペルを聞き取ることはエゼルフリッドにも他の者にもできはしない。
ポウッ。
だんだんと部屋の中が明るくなっていった。日光ではない、松明でもない。
死骸を中心とした魔方陣、そこに書かれた不思議な形の文字が妖しく光を滲ませながら浮かび上がっていた。それらは直線と幾何学図形の組み合わせのようなルーン文字。
「ほう」
エゼルフリッドは改めてアクハの魔術に歓心した。
海の向こう、遥か東の地で生まれたこの呪術の調べ。単に美しいというものではないが、どこか聞くものを魅了する。
「うううぅぅぅうぅ」
突然、犬の唸り声が響いた。
死骸の山の上に黒い靄のようなものが現われ、次第に固まり、犬の群れとなってアクハを睨み始めた。
「行きなさい、カンタベリーへと」
アクハの指示に従い、犬の形をした死霊の群れが出入り口へ向けて疾走。扉をすり抜けたのか、儀式の場にはもういない。
カンタベリー、現ブレトワルダであるエゼルフリッド王が治めるケント国の首都。ベルガが達が住む町である。
「見事だ、アクハ」
「光栄であります、陛下」
アクハが用いるのはルーン呪術、戦争と死を司るオーディンが編み出した魔術である。死霊の使役をその真髄とする、禍々しき技法。
アクハはその生まれ持った資質が故に、家族からですら忌み嫌われていた。高貴な生まれでありながら、彼女のこれまでの人生において華々しいものは全くない、ただ一点、エゼルフリッドと出会ったことを除いて。
「これからも、この私を支えておくれ、アクハ」
エゼルフリッドの手がアクハのフードの中に入り込み、鬢を撫でる。彼の声は愛撫の手よりも優しかった。
「いけません、陛下」
アクハは後ろへ退いた。
「儀式を終えたばかりのこの身は穢れています」
「なら、ゆっくり身を清めてから、私のところへおいで・・・アクハ」
エゼルフリッドは軽い足取りでその場を後にした。
「さあ、服を脱いで下さい」
既に裸になったカドワロンがエドウィンに向かっていった。
「なぜ、脱がねばならない」
「あなたの体を癒すためですよ、さあ早く」
そこは清浄なる泉。百年以上誰一人として足を踏み入れていないのではないかと思えるが、カドワロンがエドウィンを連れてきたかったのはここなのだ。
ついてすぐ、カドワロンは身に着けているもの一切を外した。そして泉に入り、今は腰まで浸かっている。
「男同士ですよ、ためらうことないでしょう」
「そうだが・・・」
エドウィンは渋々承知した。
エドウィンが衣服を一枚脱ぐたびに傷が露になってゆく。カドワロンはあまりの惨さにそのまま見入ってしまった。
塞がったものもあるが、ほとんどが生傷だ。矢に刺さった後もある。今まで山の中で木の実と僅かな露で飢えを凌ぎ、薬草を噛んで唾液と混ぜたもので傷を癒してきた。
自分が死んでいるのか生きているのかも分からなくなっていた。ベルガにダガーを向けたのはそんな時だったのである。
エドウィンも泉に入った。
「さあ、ここまで来てください」
エドウィンはカドワロンの前まで来た。
清らかな泉の中で、一糸まとわぬ姿で向き合う少年。
カドワロンはエドウィンの両手を握って目を閉じた。
「万能たる太陽神ルーの祖にして、医術と鍛冶を司るディアン・ケヒトよ、この者を癒し給へ」
カドワロンの言葉が引き金となり、泉が騒がしくなった。
いや、実際に音がするのではない。ただエドウィンは異様な気配を察したのである。
泉の中から暖かなものが込み上げてきた気がした。
静かにカドワロンが目を開けると、エドウィンの両手を離して泉の水を掬ってそれをエドウィンに頭からかけた。
エドウィンは体の奥、芯から熱くなるのを感じた。中心から末端へ、今まで止まっていた血流が突然迸るように、脈打つ鼓動は全身を震わせる。
エドウィンを癒すのは、女神ダヌより生まれしダーナ神族の中で随一の知恵者ディアン・ケヒト。かつてブリタニア全土を巻き込んだ神々の戦いにおいて、死をも打ち消した治癒の泉。神とて死からは逃れられない、しかし首を失っていなければ現世へ蘇る。
フォモール族との戦争においてダーナ神族軍が勇猛に戦ったのも、この治癒の泉が故である。
ドンッ。
エドウィンの全身から力が抜け、カドワロンに寄りかかった。
優しい眼差しで彼を受け止めるカドワロン。
「すま・・ない・・」
「いえ、今はただお眠りなさい、ゆっくりと、安らかに・・・」
頭の中がだんだんと白く塗りつぶされて行くなかで、エドウィンの耳にカドワロンの声だけが響いた。
「おやすみなさい、僕の王子様・・」
夜。
月の光によって浮かび上がるカンタベリー大聖堂は神々しく、厳かでもあり、何より近づき難い不気味さも合わせ持つ。
周辺の民家には光すら無い。祭りがあるわけでもないのだから、当然明日の農場働きに備えて寝入っている。
ここにもひとつの家屋がある。父母と兄弟が2人の4人家族。麦や野菜を生業とし、働き者の父に料理の上手な母。兄は去年から父の手伝いをするようになり、弟はまだ母にべったりだ。
幸せな家庭。ただ、その一言に尽きる。これから起こる惨劇など、嘘のようにただ静かな夜であった。
「どうした、おしっこに行って来たのか?」
「・・・・」
弟は答えなかった。
先ほど独りで外に出た弟が子供部屋に戻ってきたのだが、動かない。
弟がベッドから抜け出す音で目を覚ましていた兄は、帰ってきた弟がベッドへと戻らずにドアで立ち尽くしていることに不信な眼差しを向けざるを得なかった。
兄は弟が漏らしたのかと思った。
「うぅぅうぅううううう」
「?」
弟が苦しむような呻き声をあげた。いや、正確には弟の形をしたそれが、である。
一歩、また一歩。ゆっくりと、歩き方をひとつひとつ確かめるような素振り。
だんだんと歩きが滑らかになって行く。
二人の距離が近づくにつれ、兄は自身の運命を少しづつ理解し始めた。
弟は不気味に喉を鳴らしながら、奇妙な足取りで近づいてくる。はっきりと見えるようになった、その時、兄は思った。
弟の顔が犬のそれになっていることになぜ気づかなかったのかと。
思ったのは一瞬だけ。
犬面の怪物は兄に悲鳴すら出させずに、その命を食らった。
「何の騒ぎですっ」
衛兵に怒鳴り声を上げるベルガに普段の優美さはなかった。火の様な覇気に衛兵も槍を握る手に力がこもる。自室から廊下へ飛び出てきたベルガは、睡眠中だったこともあり下着に近い格好だ。
ベルガをそうさせるほどに、城内の騒ぎがあまりにも大きかったのである。
「城内、城外に魔物、多数!見境無く人を襲っています」
「魔物ですって!」
「姫様、無闇に出歩かんで下さい、危険です」
「離しなさい、負傷者の手当てを、人手が要るでしょっ」
羽交い絞めにする衛兵にベルガは叫んだ。
「ぐるるるぅうぅうう」
二人の耳に獣の声が届いた。
近い。
一方の廊下の先に人影がある。いや、人に見えるものの影だ。篝火がいくつか消えていたからぼんやりとしか見えない。
「姫様、私の後ろにっ」
衛兵の判断は正しかった。こちらが慌てて動くとそれに呼応して駆けてくる、それ。一目で分かる、人の速さではないことに。
「この化物めっ!」
衛兵が剣を打ち下ろすが空を切った。
「ガルっ」
その魔物、犬の頭をした男は軽々と避けて、衛兵の喉へ牙を立てた。
「!?」
すると、突然、ベルガは言葉を失った。目の前の惨状にではない。聖女であっても、戦国の世を生きる姫。血は見慣れている。
では、何が彼女を驚愕させたのか?
「お前・・・ケルベルだな」
噛まれた衛兵は魔物と抱き合うような格好でなんとか言葉を絞りだした。
「この者、やはり衛兵の一人なのですね?」
ベルガが場違いにも、ゆっくりと確認するように問うた。当然衛兵に答える余裕はなかった。
そう、この犬面の魔物はあろうことか城内を警護する衛兵隊の衣服と装備を身に着けている。噛まれた衛兵はこのケルベルと呼ばれた魔物と知り合いであった。
顔は変わり果てても体格や個人の装身具までは変わらないから、この衛兵は気付いたのだが、それに気付いたのが運の尽き。その事実は衛兵の初太刀を鈍らせるのに十分であった。
ドサッ。
血まみれの衛兵は力を失った。
ベルガは後ずさりするが、逃れることなどできようもない。ケルベルの体を乗っ取った魔物は赤く染まった衛兵が絶命したのを確認すると、ベルガの姿を捉えて一息に飛び掛ってきた。
「くっ」
歯を食い縛りながら、間一髪で身を翻したベルガはその勢いのままに倒れた衛兵へと向かった。丁度、位置が入れ替わったベルガと魔物。
ベルガは近くに落ちていた衛兵の剣を拾い上げた。
真っ直ぐに立つベルガ。見下ろすような目つきで、剣の切っ先をそれへと向けた。
「控えよっ、下郎!」
体中がビリビリと痺れ、熱くなるのをベルダは感じた。
「我が名はベルガ、高貴なるこの身に触れんとすればこの剣の錆にしてくれる!」
再び魔物は唸りながら牙を露にしながら地を蹴った。
「はあ・・・、はあ・・・、はあ・・・、くっそぉぉおお」
ライラは肩で息をしながら、犬面の魔物の群れを睨みつけた。斬っても斬ってもきりが無い。早くベルガを迎えに行かなければならないのに、王族の寝室へと続く廊下を兵士や農民の格好をした魔物共が陣取っている。
「少しづつではあるが、近づいているぞ」
隣で衛兵の一人がライラを励ます。普段は奴隷上がりのライラを見下す衛兵達も今回ばかりはそんなことを言ってられない。衛兵数人と共に、ライラはベルガの寝室を目指している最中だ。
「わかっちゃいるがよーーーー」
叫びながら、ライラは槍で魔物の頭を殴打した。
「こいつら、何匹も何匹もしゃしゃり出やがって」
別の固体の胴を貫いた。
「くっ、なに!?」
ライラが胴を貫いたが、引き抜く前にそいつは槍を両手で掴んだ。死を覚悟しながらもニヤッと笑ったように、ライラには見えた。別の奴がライラの横へ回りこんでくる。
隙をついて横から迫り来る剣、ライラにはそれが牛の歩みのように遅く感じた。
「しまっ・・・」
がきいぃぃいいん!
「貴様は失うに惜しい男だ」
ライラは目を丸くして、交差する二振りの剣を見た。一方の剣は化物が、そしてもう一方のライラを守ったその剣を持つものは・・・。
「お前、エドウィンじゃないか」
と、ライラが言う前にエドウィンは、そのまま鍔迫り合いになった魔物を蹴り飛ばした。
「従士如きが、このオレを呼び捨てか?このデイラ王位第一継承者のエドウィンを」
「ったく、死にかけてるお前を看病してやったのは誰だよ」
「だから、今その借りは返しただろ」
ふんっと、エドウィンは鼻で笑い、ライラはこめかみをピクピクさせながらエドウィンを睨みつけた。
「喧嘩してる場合じゃありませんよ」
殴り合いを始めそうな二人にカドワロンが声をかけた。
「あ、お前は今朝のっ」
「説明は後です、早くベルガ姫を助けなければ」
「なにっ、お前ら・・一体」
「説明は後と言ったでしょ!」
真剣な目で訴えるカドワロンにライラは信用するしかなかった。
「こっちだ、この先に王族の寝室がある、お嬢もそこにいるはずだ」
ライラは魔物の群れを指しながら言った。
「分かりました、では、どいて下さい」
カドワロンが二人を押しのけて先頭に立った。
「なにっ?一体何するつもりだよ」
「黙っていろ」
エドウィンに制せられたライラは不満げに口を尖らせた。
カドワロンは大きく息を吸い込んだ、深く腹の底まで。そして右の掌を奴等へ向けた。
「リッド!」
風。
ほんの一瞬だけカドワロンの右手に向かって風が走る。
ボンッ!
と空気が爆ぜる音とともに、紅の塊が魔物のグループを襲った。
「なっ!」
ライラは間抜けな声を上げざるを得なかった。
炎は魔物全てを焼き尽くすことはできないが、火傷そしてさらに混乱状態にするには十分であった。
「さあ、行くぞ、ライラ」
「お・・、おう」
驚いて動くことを忘れたライラにエドウィンは声を掛けた。
「あいつ、お嬢がするようにオレを呼びやがって」とライラは心の中で舌打ちをした。
二人は蟻でも踏み潰すかのような容易さで、戦意喪失状態の魔物に一匹づつ止めを刺して行った。
「はあ、はあ、はあ」
「ん?」
群れの大半を絶命させたライラは疲弊したカドワロンに気がついた。群れの残りは散り散りになって逃げ惑っている。
「大丈夫か?」
「ええ、今は息が上がっているだけですから」
ライラに魔術の心得はなく、カドワロンが疲れているということしか分からなかった。
一行は迫り来る魔物に対応しつつ、先へ進んだ。エドウィン、ライラ、カドワロンを先頭グループにしてその後を衛兵5人が付いて行った。先ほどと違い、大きな群れには出くわさず、2、3匹の徒党のみが散発的に襲ってきた。
エドウィンとライラが対応し、カドワロンは適宜魔術でサポートをした。先ほどのような全体攻撃でなければ連発が可能なのだ。
「そろそろだな」
ライラが言った。
「あの角を右に曲がれば・・・」
T字交差するところへ走りながらライラは言ったが、言い終わる前に寝室がある方から人影が現われた。
濃厚な血の匂い。一行はすかさず身構えた。しかし・・・。
「お嬢様!」
駆け寄ろうとするライラ。
「待て、様子が変だ」
エドウィンが重く落ち着いた声で止めた。
現われたのはまさに皆が求めるベルガ本人であった。彼女はこちらに気付いたのか異様な雰囲気でこちらに近づいてくる。
血で満たされた桶を頭からかぶったかのように、その美しい髪も肌も鮮血で穢れている。虚ろな目、そして力なく引きずるように握る、というより指先を引っ掛けた剣。
「ああああ・・・」
ベルガの寝ぼけている様な声が辺りに響く。
「無事なのはいいが・・・厄介だな」
ライラがぼやいた。
「エドウィン、あと魔術師さん・・カドワロンっていったか?とりあえず、あの人を捕り押さえてくれ、あの人を元に戻す方法ならオレが知ってる」
ライラの言葉には確信が篭っていた。
「ならば、任せよう」
ライラを信じ、エドウィンはじりじりと間合いを詰めて行った。目の前の少女は明らかに今朝とは違う。今まで相手にしていた下級の魔物とは一線を画す、純粋な暴力を秘めた魔性の力に体中の皮膚がひりひりする。
「っがあぁぁあああ!」
咆哮、そして雷のような剣戟。ベルガの華奢なその身からは想像もできない疾風怒涛。エドウィンは防ぐので手一杯だ。カドワロンの治癒の泉に入る前なら5秒ともたなかっただろう。
鬼神。
それ以外に形容する言葉が見つからない。
恐ろしい速度で白刃がエドウィンの喉元へ喰らいつかんとするが、寸でのところで身を捩り、逃げ回る。女相手に恥も外聞もない。
ダンッ、トッ、トンッ、ダッ、ダンッ。
死へと誘う舞踏。
軽やかな歩調は正確無比、滑らかな所作は変幻自在、撓やかな剣身は電光石火
エドウィンは全身全霊をもってパートナーをつとめるが、長くは持たない。しかし、段々と目が慣れてきた。
ベルガは細いその体をバネのように伸縮させて剣を繰り出す。膂力ではなく、類まれな運動センスがなせる技。だが、それ故に動きの緩急が悟られやすい。また、野獣の如き動きは速いが単調で工夫がない。
エドウィンが大きく後ろへ跳んだ。
ベルガも即座に彼を追いかけて跳びかかった。
伸びやかな突き。膝のバネを最大限活かした神速の剣。
予測していたエドウィンは逆に踏み込むながら掻い潜ると、伸びきったベルガの腕に絡みつき引き倒した。
背中を強打して内臓の痛みで悶絶するベルガに馬乗りになったエドウィンは顔面を殴打。
鈍い音と共にベルガは沈黙。エドウィンの行動に一同唖然とした。暴れてはいるが、王女なのである。
「淑女として育てられはしたが、それでもお嬢はブレトワルダの血を受け継ぐ者」
全員で気を失ったベルガの手足を縛り、ライラは説明を始めた。とは言っても男数人で縛られた少女を囲っている。はたから見ると色々と問題のある光景だ。
「最初はエゼルベルト王も飲み込みの速さに喜んでいたんだが、剣技の上達に合わせて父の血が騒ぎだして凶暴な性格になってな」
ライラがベルガのそばに寄り、体を揺すって起こし始めた。
「お嬢の母、王妃ベルダ様は無理やり信仰によって性格を矯正したんだ」
ポケットから小さな十字架を出した。
丁度、ベルガは目を覚まし、再び暴れようとしたが全員で押さえる。
「天にまします我らの父よ。願わくは御名を崇めさせ給え。 御国を来たらせ給え。御心の天になる如く、 地にもなさせ給え。 我らの日用の糧を、今日も与え給え。 我らに罪を犯す者を、我らが許す如く、 我らの罪をも許し給え・・・」
十字架をベルガの目の前に見せて、祈祷を唱えるライラ。悪魔祓いさながらにベルガから溢れ出る狂気を取り除く。
段々、ベルガの荒く浅い呼吸が穏やかで深いものに変わってゆく。
「ライラ・・・」
「気分はいかがですか、お嬢様」
我に返ったベルガは父に甘える幼子のような目でライラを見た。
「縄はもういいですね」
カドワロンが縛っていた縄をナイフで切った。
ベルガは体を起こし、周囲を見渡した。ライラと衛兵達、そして今朝消えたエドウィンとカドワロン。
「一体、どうなっているのですか?」
ベルガはライラに問うたが、ライラも答えられない。
「僕が説明しますよ」
カドワロンがベルガの前に出た。
「今朝は大変失礼をしました」
カドワロンが跪く。
「先ずは、この事態について」
ベルガは息を呑んでカドワロンの言葉に耳を傾け始めた。
「これらの魔物はコボルト、犬の死霊が人にとり憑いたのです」
「コボルト?」
「はい、お姫様には想像もできませんでしょうが、この世界には魔術というものが存在するのです。僕は火や雷など自然現象の操作、発現、増幅を得意としています。しかし、このコボルトは死霊の使役、つまりルーンの魔術によるものだと思われます」
「ルーン魔術・・・だと」
エドウィンが思わず声を漏らした。
「ええ、ルーン・・・あなた達アングロサクソンの遠き故郷で育まれた魔術です」
すかさず、カドワロンが答えた。
現在のブリタニアでルーンの魔術を操る者など何人もいない。そしてその術者にエドウィンは心当たりがある。またカドワロンにも見当はついているのだ。
「この惨劇、もちろん偶然にこのカンタベリーが襲われたわけではありません。術者は明確な意図をもって古の術を使ったのです。このカンタベリーを首都とするケント王国を虎視眈々と狙う者、バーニシアのエゼルフリッドですよ」
「なぜ、彼だと?この豊かなケントを狙う者は他にもいるでしょう」
「このルーン魔術を実行したのはな」
急にエドウィンが二人の会話に割って入った。ここからはオレが、と目が力強く主張するのでカドワロンは彼に任せた。
「エゼルフリッドのライラ侵攻に荷担した・・・」
言い辛そうにエドウィンは目を伏せた。しかし、意を決して口を再び開く。
「裏切りの魔女、我が妹のアクハなんだ・・・」
エドウィンの言葉が虚しく辺りに響いた。
次回予告
カドワロン
「いやぁ~、今回は魔術の連発で疲れちゃいましたよ。『まほうのせいすい』とか『エルフののみぐすり』とかあると楽なんですけど、現実にはそんな便利なものないんですよね。全体攻撃とかやっちゃうと息止めて、100mダッシュしたみたいな状態になるんでホント辛いんですよ、単体攻撃連発しても体は動いてなくてもマラソンしてるくらい体力使うんです。こういう魔法とか魔術キャラって体貧相なイメージが一般的に流布してますけど、あれ嘘ですから、戦士並に肉体酷使しますからね、僕も結構鍛えてるんですよ。
おっと、関係ないこと喋っちゃいましたね。それでは次回、
『鯨面の刺客』
みなさん見て下さいね」
応援ありがとうございます!
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