2 / 3
二夜、曰く付きの小指
しおりを挟む
黒井巳之夏(二十六歳)は、つい最近猫を拾った。それも我が儘で甘えん坊ときた……これが本当の猫ならば溺愛していたところ、しかし猫は猫でも"ネコ"の方だった。彼の辞書には遠慮という言葉が存在しているのか怪しいくらいにやりたい放題だ。
拾ってきた猫、もとい白井雪華(二十歳)が来てから三日、彼は性欲が強いため、あの日以来ほぼ毎晩と言っていい程夜這いしてくる。性欲は人並みにはあるが、自慰行為も普段あまりその気にならない巳之夏には、彼からのお誘いは体力的にきつかった。
「ぁのォー……セツカサン? アナタイツマデイルンデスカ?」
「ぅあ?」
三日目の朝食はカリカリのベーコンを添えたスクランブルエッグに、トーストと栄養バランスも考えてコーンとプチトマトが入ったレタスのサラダ。スクランブルエッグは卵を溶きほぐした後にティースプーン一杯分の蜂蜜を加え半熟状に火を通す事により、ほかほかとしていてふんわりと甘さが香る。
男性一人が作る朝食にしては食欲そそるお洒落なメニュー。雪華はお洒落なメニューを目の前にしても特に何とも思わず、「いただきます。」と一言言えばフォークでスクランブルエッグをすくい、トーストに乗せてから両手で掴んで大口を開ける。一口食べる前に声をかけられたため間抜けな声が出てしまい、雪華は眉間に皺を寄せ不貞腐れた顔になる。
「邪魔?」
「うんぶっちゃけ、……その前に、この奇妙な生活はなんなんだ。」
邪魔といえば頷くしかないのだが……それ以前に、この三日間シェアハウスでもないのに共に暮らしているにも関わらず、お互い名前しか知らないのもまず問題だ。巳之夏は彼の職業や住んでいる場所さえ知らない……そして、何故我が家に居座り続けているのかも聞きたかった。
雪華は再び口を開けるとトーストをサクッと齧った。外はサクサク中はふわふわ、丁度いい柔らかさだ。パンと一緒に口内へ入ってきたスクランブルエッグは、砕かれたパンと蜂蜜の甘味が混じり合いとても美味しい。そこそこ腹を空かせていた雪華は、一口食べれば二口、三口と止まらなくなり黙々と食べ始める。
巳之夏はその様子を暫く見つめていたが、"まぁ後でいいか"と考え軽く溜め息をついた後、自分も目の前のトーストに手をつけた……。
「さっきの質問なんだけどさ」
「え、今?」
朝食も済み、雪華にも食器をキッチンに運んでもらうとすぐに洗い始める巳之夏。数も少なく、木製のランチプレートと牛乳一杯に使ったコップのみなので洗い終わるのにそう時間はかからなかった。水切りラックからさっさと洗い終わったプレートをタオルで拭いていると、ソファーに横になりながらテレビをボーッと観ていた雪華が今頃になって話し始め、つい巳之夏は拭く手を止め振り返ってしまう。
「だって、さっきしょくじちゅーだったし、ゆっくりしてから話したかった。」
「あ、……そう」
巳之夏は正直、雪華が何を考えているのかいまいちわからなかった。彼がする行動も読めないし、急に話し始めたかと思えば内容も予想外のことばかり、巳之夏の中では苦手なタイプに入った。しかし、雪華本人がやっと話す気になってくれたのだから、いったいいつまで居座る気なのか聞こうではないかと、余計な言葉を漏らさぬよう黙る。
「逆に、いつまでここに居られる?」
"そうきたか"、つい声に出すところだった。どうやら彼はこちらが出て行けと言うまで居座る気らしい……なら簡単、たったそれだけの言葉で出て行ってもらえるのなら、今ここでそう言ってしまえばいい。
「──ぁ、と」
言えなかった。いざ言葉に出そうと口を開くまではできたが、先程までテレビに目を向けていたはずの雪華が気づいたらこちらに顔を向けており、あの鋭いながらもパッチリとした大きな目で見つめてくる。この目で見つめられると、どうも何も言えなくなるらしい。
例えるなら猫、雪華という捨て猫を拾ってきて暫く世話をしてやっていると、調子に乗ってきたのか好き勝手に部屋を荒らしたり、注意されそうになると甘えたりと人間の扱いを理解した狡賢い生き物だ。猫と違うのは、部屋中散らかさないところと、トイレは砂の上でしないところくらいか。
巳之夏は止めていた手を動かし、最後の食器をタオルで拭くと棚の中にしまう。ふきん掛けに使い終わったタオルをかけて、癖の強い髪を片手でクシャクシャと掻きながら雪華のいるリビングへ移動。ソファーで寝っ転がったままの雪華の前に来ると、カーペットの上にドカッと胡坐をいた。
雪華の顔を数秒間見つめていたかと思えば、無意識に頬に触れる。出会った時にあった痣はまだ残っていたが、少し薄くなっていた。「あのさ、まだ少し痛いんだけど。」と雪華が言うと、巳之夏は一言「ごめん」と謝り手を離す。
本当はもうそれ程痛くはない。雪華が嘘をついたのは、流石に見つめられながら頬に触れられるのが内心恥ずかしかったからだ。無意識とはいえ巳之夏も自分のした行動が恥ずかしくなってきたのか目を反らす。雪華が何を考えているのかいまいちわからず行動も読めないと考えていた巳之夏だが、彼も彼で無意識に行動するところもあるので、この二人は似た者同士なのかもしれない。
「で、アンタの質問に僕はちゃんと答えたワケだけど、どうなの?」
雪華はそう言いながらソファーから上半身を起こす。寝っ転がっていた時は自分の体温でソファーが少し温まっていたが、起き上がると急に寒さを感じたのか、「さみぃ~からコタツコタツ」と両肩を摩りながら立ち上がり炬燵へ移動し、掛布団を捲るとすぐに足を入れて座り背中を丸める。
巳之夏は雪華が退いた後のソファーに座ると、まだ残っている温もりを感じながら先程の話を続けた。
「今のところ女もいない。居座られて困る事も特にない。」
朝食の時に、雪華に邪魔かと聞かれそれに対し"うん"と答えたが、あれは本気で邪魔だと感じているから答えた訳ではない。あの時は何故雪華が此処に居座るのかを聞き出すために会話を続けたくて、相槌を打つ感覚で答えただけだ。
遠回しでハッキリしない言い方に「回りくどいな」と呟く雪華に、「急かすな」と最後まで聞くよう巳之夏が足を組みながら言う。
「別に好きなだけ居ればい──」
何となく壁の方向を見つめながら巳之夏が言い終わる前に、いつの間にか炬燵から出てきていた雪華が目の前に立っており、ニマニマとした笑みを浮かべて無言のままダイブしてきた。二人はそのままソファーに倒れ込む。
この時、雪華の読めない行動に対し"ほらきた、こーゆーとこだよ。"と心の中で呟く。しかし、何故か困惑しながらも、男性にしては軽すぎるこの身体を突き離せない。うんざりとした気持ちと、この男を精神的に支えてあげたいという気持ちが同時に存在し、そんな矛盾している自分自身にも苛立つ巳之夏。
「俺の胸の体温を堪能しているところ悪いが、一つ聞いていいか。」
体温を感じていると眠くなってきたのか、うつらうつらとしている雪華に声をかけるとムッとした表情でこちらを睨み上げてくる。巳之夏は雪華の両肩を掴み、ゆっくりと起き上がりつつ彼を膝の上に座らせ向かい合う。
「仕事とかしてないの?」
「昨日バイトやめた」
「ぁい?」
見たところ、大学生でもなさそうだ……今更だが、成人しているのだからこの男が何をしているのか気になった。若いのでバイトをしているのは驚く事ではないが、たった昨日辞めたと聞いて目を丸くする。
……話を聞くと、バイト先のコンビニで店長にセクハラを受けていたらしい。相手は男性、元々雪華は童顔な上どこか儚げな雰囲気が美しく、男性を惹きつける魅力があった。雪華は性行為の代わりに、家に泊まらせてもらう事を条件に出したが、店長には同棲している恋人がいたため断られてしまった。
恋人がいるのに他の……それも同性相手に手を出そうとするのが気に食わなかったらしい。雪華はセフレは作るが、必ず始めに"体でしか付き合えないから本命にはなれない。"と言うのだという。
ここで巳之夏は納得いかないところがあった。
(全てが、"中途半端"だ。)
誰かを本命にしているにも関わらず、他人と肉体関係になろうとするのが気に食わない。……そんな感情は持つのに、雪華は多くのセフレを作り依存するように転々としているというじゃないか。彼の行動はよく言えば割り切っていて、悪く言えば自分勝手だった。
気になる部分は沢山あるが、昨日バイトを辞めたという事は現在は無職になる。恋人関係でもないのに、流石にこのまま家に寄生されるのをただ黙っておく訳にもいかない。巳之夏は一つ提案する……。
「"ウチ"で働くか?」
「は?」
──巳之夏の家は店舗併用住宅。二階は居住スペースで、一階は喫茶店"しがまにょうぼう"のスペースになっている。巳之夏は前の店主である亡くなった祖父から引き継ぎ、店主として毎日いろんな客を迎えそれなりにこの生活を楽しんでいた。
暫く体調を崩していた巳之夏は休業していたのだが、三日程前……丁度雪華に出会った日には大分体力も回復したので、そろそろ営業を再開しようと思っていたところだ。バイトの募集はしていないが、家にただ寄生されるよりはマシ、働かざる者食うべからず、雪華には働いてもらう事にした。
休業中だったため一階は使用せず裏口の階段から出入りしていたので、此処が喫茶店だと気づきもしなかった雪華は初め驚いた。喫茶店で働くのは初めての経験なのか、ウチで働くかと誘われれば案外あっさりと引き受けた。
「どぉお? 僕似合うっしょ」
「自分で言うか、せめて"似合ってるじゃねぇか"と先に言わせてくれ。」
予備に作った雪兎柄のサロンエプロンを着用する雪華。自身の見た目が可愛いのをいい事に、ニヤリと生意気な笑みを浮かべ一度くるりと回ってみせるのがまたあざとい。不覚にも巳之夏は内心、可愛いと思ってしまった。
ただ、自分サイズにオーダーメイドした物なので、雪華には少々大きかったようだ。巳之夏は顎に手を当てながら、「今度同じデザインで注文するか……」と呟きながら見下ろす。
「ん……?」
巳之夏はふと、雪華の右手に何やら光る物があるのに気づく。右手の小指に指輪がはめられており、店を営む者として、指をさしながら指摘した。
「お気に入りの物なら、仕事が終わるまで外しておきなさい。」
飲食店ではアクセサリーを一切禁止している場所もある。指輪は指との間に細菌が入り込みやすいので、ここで働くのなら外しておくべきだ。普通の指摘をしたつもりだが雪華の表情は曇り、黙ったまま俯いてしまった。
"そういえば……"と、もう一つある事に気づいた。ここ三日間、彼と共に過ごしてきてあまり気にはしていなかったが、雪華は入浴中以外では、一切指輪を外していなかった。
何か理由でもあるのだろうか……、一応話だけでも聞いてみようと、巳之夏は苦笑いし雪華の頭に手を置いた。
「言ってごらん。」
暫く待っていたが、雪華は何も答えず黙ったまま二階へ駆け上がってしまった。どうしたものかと頭を掻きながら考えている内に、雪華がゆっくりと階段を下りてきた。その右手には指輪は無かったが、彼の表情は曇ったままでなんだかそわそわしている。
それから話を聞いている時も仕事をしている時も、無意識に彼は手が空くとすぐ右手の小指に触れていた。別にそれ以外は問題ない。いつもの生意気な笑みや態度はどこへやら、客の前では清々しい程の営業スマイルもできていた。てっきり普段の態度から、バイトも長続きしない問題児かと想像していで、なんだか申し訳ない気持ちになる。
……閉店時間は二十一時、巳之夏がドアにかけてある案内プレートを"営業外"の文字にひっくり返している間に、さっさと雪華は階段へ駆け上がってしまった。きっと指輪を取りに行ったのだろう。そうすぐに頭に浮かんでしまうのは、ずっと右手の小指に触れていたのを見かけていたからだ。
(指輪に、何か思い出でもあるのかねぇ)
気にはなる。しかし自分には関係のない事だともわかっているし、家に住まわせているといっても店主と従業員の立場、彼とは赤の他人で恋人でも家族でもない。他人の事情を深く調べる必要は──
「待て? 体の関係がある場合はどうなんだ。いや、体の関係があるからといって他人の事情を深く聞くのもそれはそれで図々しいな……」
厨房で食器を洗いながら、巳之夏はブツブツと独り言を漏らした。
結局散々悩んだ挙句、全てやる事を終え二階に戻って来た頃には聞く気等失せていた。それより仕事に雪華の事といい、今日は一段と疲れた。
シャワーを浴びた後に晩御飯でも軽く用意してのんびりしようかと考えていると、そういえば雪華はどうしたのだろうかとキョロキョロしながら姿を探す。先にシャワーでも浴びているのか、それか疲れてそのまま寝てしまったのか、一応寝室へ行ったがベッドに姿はなかったので別の部屋だろう。
疲労感で気づかなかったが、よく耳をすませばバスルームの方から音が聞こえてくる。シャワーを浴びているのかと思っていたが、ドアが開く音が聞こえ雪華が巳之夏に声をかけてきた。
「風呂そーじして、今お湯入れてるからァ」
この三日間、居候している彼が手伝った事等一度もなかった。その彼が掃除をして、さらに風呂の支度までしたなんて……幻聴か、または聞き間違えだろうか? いつまでも返事をしないで廊下で立ち尽くしていたら、「居ないのー? ねぇ~!」と少し苛立った様子で再び聞こえてきたので、これは幻聴でも聞き間違えでもなかった。
慌てて洗面所へ向かい、バスルームから出てきた雪華の姿を確認し、お礼を言い頭を撫でた。
「あのさ、子供じゃないから」
「ごめん」
子供扱いのつもりではなかったが、雪華は眉間に皺を寄せ巳之夏の手をそっと振り解いた。その右手の小指には、あの指輪がはめられていた。気にはなるが、今はまだいいだろう……タイミングがきた時にでも聞くとしようか。
拾ってきた猫、もとい白井雪華(二十歳)が来てから三日、彼は性欲が強いため、あの日以来ほぼ毎晩と言っていい程夜這いしてくる。性欲は人並みにはあるが、自慰行為も普段あまりその気にならない巳之夏には、彼からのお誘いは体力的にきつかった。
「ぁのォー……セツカサン? アナタイツマデイルンデスカ?」
「ぅあ?」
三日目の朝食はカリカリのベーコンを添えたスクランブルエッグに、トーストと栄養バランスも考えてコーンとプチトマトが入ったレタスのサラダ。スクランブルエッグは卵を溶きほぐした後にティースプーン一杯分の蜂蜜を加え半熟状に火を通す事により、ほかほかとしていてふんわりと甘さが香る。
男性一人が作る朝食にしては食欲そそるお洒落なメニュー。雪華はお洒落なメニューを目の前にしても特に何とも思わず、「いただきます。」と一言言えばフォークでスクランブルエッグをすくい、トーストに乗せてから両手で掴んで大口を開ける。一口食べる前に声をかけられたため間抜けな声が出てしまい、雪華は眉間に皺を寄せ不貞腐れた顔になる。
「邪魔?」
「うんぶっちゃけ、……その前に、この奇妙な生活はなんなんだ。」
邪魔といえば頷くしかないのだが……それ以前に、この三日間シェアハウスでもないのに共に暮らしているにも関わらず、お互い名前しか知らないのもまず問題だ。巳之夏は彼の職業や住んでいる場所さえ知らない……そして、何故我が家に居座り続けているのかも聞きたかった。
雪華は再び口を開けるとトーストをサクッと齧った。外はサクサク中はふわふわ、丁度いい柔らかさだ。パンと一緒に口内へ入ってきたスクランブルエッグは、砕かれたパンと蜂蜜の甘味が混じり合いとても美味しい。そこそこ腹を空かせていた雪華は、一口食べれば二口、三口と止まらなくなり黙々と食べ始める。
巳之夏はその様子を暫く見つめていたが、"まぁ後でいいか"と考え軽く溜め息をついた後、自分も目の前のトーストに手をつけた……。
「さっきの質問なんだけどさ」
「え、今?」
朝食も済み、雪華にも食器をキッチンに運んでもらうとすぐに洗い始める巳之夏。数も少なく、木製のランチプレートと牛乳一杯に使ったコップのみなので洗い終わるのにそう時間はかからなかった。水切りラックからさっさと洗い終わったプレートをタオルで拭いていると、ソファーに横になりながらテレビをボーッと観ていた雪華が今頃になって話し始め、つい巳之夏は拭く手を止め振り返ってしまう。
「だって、さっきしょくじちゅーだったし、ゆっくりしてから話したかった。」
「あ、……そう」
巳之夏は正直、雪華が何を考えているのかいまいちわからなかった。彼がする行動も読めないし、急に話し始めたかと思えば内容も予想外のことばかり、巳之夏の中では苦手なタイプに入った。しかし、雪華本人がやっと話す気になってくれたのだから、いったいいつまで居座る気なのか聞こうではないかと、余計な言葉を漏らさぬよう黙る。
「逆に、いつまでここに居られる?」
"そうきたか"、つい声に出すところだった。どうやら彼はこちらが出て行けと言うまで居座る気らしい……なら簡単、たったそれだけの言葉で出て行ってもらえるのなら、今ここでそう言ってしまえばいい。
「──ぁ、と」
言えなかった。いざ言葉に出そうと口を開くまではできたが、先程までテレビに目を向けていたはずの雪華が気づいたらこちらに顔を向けており、あの鋭いながらもパッチリとした大きな目で見つめてくる。この目で見つめられると、どうも何も言えなくなるらしい。
例えるなら猫、雪華という捨て猫を拾ってきて暫く世話をしてやっていると、調子に乗ってきたのか好き勝手に部屋を荒らしたり、注意されそうになると甘えたりと人間の扱いを理解した狡賢い生き物だ。猫と違うのは、部屋中散らかさないところと、トイレは砂の上でしないところくらいか。
巳之夏は止めていた手を動かし、最後の食器をタオルで拭くと棚の中にしまう。ふきん掛けに使い終わったタオルをかけて、癖の強い髪を片手でクシャクシャと掻きながら雪華のいるリビングへ移動。ソファーで寝っ転がったままの雪華の前に来ると、カーペットの上にドカッと胡坐をいた。
雪華の顔を数秒間見つめていたかと思えば、無意識に頬に触れる。出会った時にあった痣はまだ残っていたが、少し薄くなっていた。「あのさ、まだ少し痛いんだけど。」と雪華が言うと、巳之夏は一言「ごめん」と謝り手を離す。
本当はもうそれ程痛くはない。雪華が嘘をついたのは、流石に見つめられながら頬に触れられるのが内心恥ずかしかったからだ。無意識とはいえ巳之夏も自分のした行動が恥ずかしくなってきたのか目を反らす。雪華が何を考えているのかいまいちわからず行動も読めないと考えていた巳之夏だが、彼も彼で無意識に行動するところもあるので、この二人は似た者同士なのかもしれない。
「で、アンタの質問に僕はちゃんと答えたワケだけど、どうなの?」
雪華はそう言いながらソファーから上半身を起こす。寝っ転がっていた時は自分の体温でソファーが少し温まっていたが、起き上がると急に寒さを感じたのか、「さみぃ~からコタツコタツ」と両肩を摩りながら立ち上がり炬燵へ移動し、掛布団を捲るとすぐに足を入れて座り背中を丸める。
巳之夏は雪華が退いた後のソファーに座ると、まだ残っている温もりを感じながら先程の話を続けた。
「今のところ女もいない。居座られて困る事も特にない。」
朝食の時に、雪華に邪魔かと聞かれそれに対し"うん"と答えたが、あれは本気で邪魔だと感じているから答えた訳ではない。あの時は何故雪華が此処に居座るのかを聞き出すために会話を続けたくて、相槌を打つ感覚で答えただけだ。
遠回しでハッキリしない言い方に「回りくどいな」と呟く雪華に、「急かすな」と最後まで聞くよう巳之夏が足を組みながら言う。
「別に好きなだけ居ればい──」
何となく壁の方向を見つめながら巳之夏が言い終わる前に、いつの間にか炬燵から出てきていた雪華が目の前に立っており、ニマニマとした笑みを浮かべて無言のままダイブしてきた。二人はそのままソファーに倒れ込む。
この時、雪華の読めない行動に対し"ほらきた、こーゆーとこだよ。"と心の中で呟く。しかし、何故か困惑しながらも、男性にしては軽すぎるこの身体を突き離せない。うんざりとした気持ちと、この男を精神的に支えてあげたいという気持ちが同時に存在し、そんな矛盾している自分自身にも苛立つ巳之夏。
「俺の胸の体温を堪能しているところ悪いが、一つ聞いていいか。」
体温を感じていると眠くなってきたのか、うつらうつらとしている雪華に声をかけるとムッとした表情でこちらを睨み上げてくる。巳之夏は雪華の両肩を掴み、ゆっくりと起き上がりつつ彼を膝の上に座らせ向かい合う。
「仕事とかしてないの?」
「昨日バイトやめた」
「ぁい?」
見たところ、大学生でもなさそうだ……今更だが、成人しているのだからこの男が何をしているのか気になった。若いのでバイトをしているのは驚く事ではないが、たった昨日辞めたと聞いて目を丸くする。
……話を聞くと、バイト先のコンビニで店長にセクハラを受けていたらしい。相手は男性、元々雪華は童顔な上どこか儚げな雰囲気が美しく、男性を惹きつける魅力があった。雪華は性行為の代わりに、家に泊まらせてもらう事を条件に出したが、店長には同棲している恋人がいたため断られてしまった。
恋人がいるのに他の……それも同性相手に手を出そうとするのが気に食わなかったらしい。雪華はセフレは作るが、必ず始めに"体でしか付き合えないから本命にはなれない。"と言うのだという。
ここで巳之夏は納得いかないところがあった。
(全てが、"中途半端"だ。)
誰かを本命にしているにも関わらず、他人と肉体関係になろうとするのが気に食わない。……そんな感情は持つのに、雪華は多くのセフレを作り依存するように転々としているというじゃないか。彼の行動はよく言えば割り切っていて、悪く言えば自分勝手だった。
気になる部分は沢山あるが、昨日バイトを辞めたという事は現在は無職になる。恋人関係でもないのに、流石にこのまま家に寄生されるのをただ黙っておく訳にもいかない。巳之夏は一つ提案する……。
「"ウチ"で働くか?」
「は?」
──巳之夏の家は店舗併用住宅。二階は居住スペースで、一階は喫茶店"しがまにょうぼう"のスペースになっている。巳之夏は前の店主である亡くなった祖父から引き継ぎ、店主として毎日いろんな客を迎えそれなりにこの生活を楽しんでいた。
暫く体調を崩していた巳之夏は休業していたのだが、三日程前……丁度雪華に出会った日には大分体力も回復したので、そろそろ営業を再開しようと思っていたところだ。バイトの募集はしていないが、家にただ寄生されるよりはマシ、働かざる者食うべからず、雪華には働いてもらう事にした。
休業中だったため一階は使用せず裏口の階段から出入りしていたので、此処が喫茶店だと気づきもしなかった雪華は初め驚いた。喫茶店で働くのは初めての経験なのか、ウチで働くかと誘われれば案外あっさりと引き受けた。
「どぉお? 僕似合うっしょ」
「自分で言うか、せめて"似合ってるじゃねぇか"と先に言わせてくれ。」
予備に作った雪兎柄のサロンエプロンを着用する雪華。自身の見た目が可愛いのをいい事に、ニヤリと生意気な笑みを浮かべ一度くるりと回ってみせるのがまたあざとい。不覚にも巳之夏は内心、可愛いと思ってしまった。
ただ、自分サイズにオーダーメイドした物なので、雪華には少々大きかったようだ。巳之夏は顎に手を当てながら、「今度同じデザインで注文するか……」と呟きながら見下ろす。
「ん……?」
巳之夏はふと、雪華の右手に何やら光る物があるのに気づく。右手の小指に指輪がはめられており、店を営む者として、指をさしながら指摘した。
「お気に入りの物なら、仕事が終わるまで外しておきなさい。」
飲食店ではアクセサリーを一切禁止している場所もある。指輪は指との間に細菌が入り込みやすいので、ここで働くのなら外しておくべきだ。普通の指摘をしたつもりだが雪華の表情は曇り、黙ったまま俯いてしまった。
"そういえば……"と、もう一つある事に気づいた。ここ三日間、彼と共に過ごしてきてあまり気にはしていなかったが、雪華は入浴中以外では、一切指輪を外していなかった。
何か理由でもあるのだろうか……、一応話だけでも聞いてみようと、巳之夏は苦笑いし雪華の頭に手を置いた。
「言ってごらん。」
暫く待っていたが、雪華は何も答えず黙ったまま二階へ駆け上がってしまった。どうしたものかと頭を掻きながら考えている内に、雪華がゆっくりと階段を下りてきた。その右手には指輪は無かったが、彼の表情は曇ったままでなんだかそわそわしている。
それから話を聞いている時も仕事をしている時も、無意識に彼は手が空くとすぐ右手の小指に触れていた。別にそれ以外は問題ない。いつもの生意気な笑みや態度はどこへやら、客の前では清々しい程の営業スマイルもできていた。てっきり普段の態度から、バイトも長続きしない問題児かと想像していで、なんだか申し訳ない気持ちになる。
……閉店時間は二十一時、巳之夏がドアにかけてある案内プレートを"営業外"の文字にひっくり返している間に、さっさと雪華は階段へ駆け上がってしまった。きっと指輪を取りに行ったのだろう。そうすぐに頭に浮かんでしまうのは、ずっと右手の小指に触れていたのを見かけていたからだ。
(指輪に、何か思い出でもあるのかねぇ)
気にはなる。しかし自分には関係のない事だともわかっているし、家に住まわせているといっても店主と従業員の立場、彼とは赤の他人で恋人でも家族でもない。他人の事情を深く調べる必要は──
「待て? 体の関係がある場合はどうなんだ。いや、体の関係があるからといって他人の事情を深く聞くのもそれはそれで図々しいな……」
厨房で食器を洗いながら、巳之夏はブツブツと独り言を漏らした。
結局散々悩んだ挙句、全てやる事を終え二階に戻って来た頃には聞く気等失せていた。それより仕事に雪華の事といい、今日は一段と疲れた。
シャワーを浴びた後に晩御飯でも軽く用意してのんびりしようかと考えていると、そういえば雪華はどうしたのだろうかとキョロキョロしながら姿を探す。先にシャワーでも浴びているのか、それか疲れてそのまま寝てしまったのか、一応寝室へ行ったがベッドに姿はなかったので別の部屋だろう。
疲労感で気づかなかったが、よく耳をすませばバスルームの方から音が聞こえてくる。シャワーを浴びているのかと思っていたが、ドアが開く音が聞こえ雪華が巳之夏に声をかけてきた。
「風呂そーじして、今お湯入れてるからァ」
この三日間、居候している彼が手伝った事等一度もなかった。その彼が掃除をして、さらに風呂の支度までしたなんて……幻聴か、または聞き間違えだろうか? いつまでも返事をしないで廊下で立ち尽くしていたら、「居ないのー? ねぇ~!」と少し苛立った様子で再び聞こえてきたので、これは幻聴でも聞き間違えでもなかった。
慌てて洗面所へ向かい、バスルームから出てきた雪華の姿を確認し、お礼を言い頭を撫でた。
「あのさ、子供じゃないから」
「ごめん」
子供扱いのつもりではなかったが、雪華は眉間に皺を寄せ巳之夏の手をそっと振り解いた。その右手の小指には、あの指輪がはめられていた。気にはなるが、今はまだいいだろう……タイミングがきた時にでも聞くとしようか。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説

初恋はおしまい
佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。
高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。
※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。
今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。


嘔吐依存
()
BL
⚠️
・嘔吐表現あり
・リョナあり
・汚い
ー何でもOKな方、ご覧ください。
小説初作成なのでクオリティが低いです。
おかしな点があるかもしれませんが温かい目で見逃してください。ー


目覚ましに先輩の声を使ってたらバレた話
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
サッカー部の先輩・ハヤトの声が密かに大好きなミノル。
彼を誘い家に泊まってもらった翌朝、目覚ましが鳴った。
……あ。
音声アラームを先輩の声にしているのがバレた。
しかもボイスレコーダーでこっそり録音していたことも白状することに。
やばい、どうしよう。


フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる