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第32話 帰郷

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 どこまでも広い大地に吹いていく心地よい風に、フェリックスは馬車の窓を開けながら外の空気を胸一杯に感じていた。

 まだフェリックスの体力は有り余っていたが、幼い体への負担を考慮して、旅路は大人だけの移動の時よりも多めの日程で組まれていた。出来るだけ宿に泊まりたかったが、フェリックスが一番喜んだのは馬車での寝泊まりだった。
 アルベルトが旅行用にとすぐに手配したのは、それは豪華な馬車だった。座面はフカフカのクッションで背面は適度に沈み込む柔らかい革が張られている。馬車の中で眠ったのはまだ一日だったが、フェリックスが気に入ったお陰で本来なら町に泊まれるという今日も、フェリックスとエルザと共に馬車で眠る支度をしていた。
 とは言ってもお風呂は入れる時に入っておきたい。結局宿屋の浴室を借りて、何故か町の中に停泊させた馬車の中で眠るという妙な事をしていたのだった。

「このベッドすっごいね! お父様すっごいね!」

 動き回るフェリックスの寝間着を掴むと、しっとりと濡れている。風呂上がりのせいかもしれないが、興奮しているせいで汗もかいているようだった。

「この町ならちゃんとベッドで眠れるのよ?」
「大丈夫だよ! お母様はこっちでエルザはこっちね」

 ちゃっかりと二人の真ん中に陣取ったフェリックスは、興奮冷めやらぬ様子で狭い中を右に左に体を動かしている。エルザは申し訳なさそうにフェリックスの隣に横になった。

「お嬢様、私はやっぱり他の者達と共に外にいます」

 馬車の護衛の為にベルトラン家の騎士達は外で番をしている。本当なら宿の中での護衛で済むはずが、フェリックスの我儘のせいで外にいさせている事に申し訳なく思っているというのに、エルザまで外に行くなど言語道断だった。

「駄目よ、狭くて悪いけれどここで眠って頂戴」
「そうだよエルザ。僕達と一緒に寝たくないの?」

 しょんぼりとした声にエルザはブンブンと大きく首を振った。

「嬉しいに決まっています! もう少しお小さい頃はよくこうして二人で眠りましたね。そんなに前の事ではないのに、なんだか懐かしく感じます。ッ、すみませんお嬢様、私本当に!」

 エルザとフェリックスが二人で眠っていた期間はカトリーヌはそばにはいられなかった期間そのものだった。少しだけ起き上がり、次第に微睡み始めているフェリックスの寝顔を覗き込むと、少し気の抜けたその表情はとても安らかに見えた。

「フェリックスが愛情深く育ったのは、他でもないエルザのお陰ね」
「お嬢様?」
「私がそばにいられなかった間もエルザがフェリックスを大事にしてくれたから、私やアルベルト様の事も恨まずにいてくれるんだわ」
「恨むだなんてありえません! フェリックス様はお二人の事が大好きなんですよ!」

 大きな声に二人で顔を見合わせると、フェリックスは全く気にした様子もなく寝息を立て始めていた。

「すみません、私ったら大きな声を出してしまいました」
「フフッ、フェリックスは本当に幸せ者ね。お母様が二人もいるんだもの」

 するとエルザは驚いたように目を丸くさせ、そしてきつく唇を噛んだ。

「私は勝手にあなたをフェリックスのもう一人の母親だと思っているの。フェリックスを愛してくれてありがとう」
「お、お嬢様、私、お嬢様も……フェリックス様も、旦那様も奥様も、モンフォール家の皆様も、ベルトラン家の皆様も、孤児院の皆も、皆大好きなんです」
「私達もエルザが大好きよ。これからも宜しくね」
「はい! 一生お仕え致します」

 声を殺すように泣き出したエルザの涙に手を伸ばして拭うと、フェリックスが小さく笑った気がした。

「何の夢を見ているのかしら」
「幸せな夢だといいですね」
「それはそうと、一生お仕えするというのはどういう事? 結婚はどうするの? まさか未婚のままずっと私達に仕えますという意味じゃないでしょうね?」

 するとエルザは気まずそうに目を逸した。

「まさかのまさかですが、いけませんか?」

 カトリーヌは堪らず溜め息を吐いた。

「エルザは結婚したいと思う相手はいないの? 私達のそばにいてくれるのはとても嬉しいけれど、それは結婚しても出来るじゃない。もし気になっている相手がいるのなら、諦めようとするのだけは止めて頂戴ね。私達はエルザが決めた人なら受け入れる準備は出来ているのよ」
「ありがとうございます。もしそういう相手に出会ったら、必ずお嬢様に一番にお伝え致します」
「私達の為にあなたの未来を諦めないでね」
「そうまで仰って頂けて私は幸せ者です」

 薄闇のせいではっきりとエルザの顔は見えないが、まだ泣いているのは分かる。その夜は、とても暖かくて優しい気持ちで眠りに付いたのだった。




「お――い! こっちですよぉ――!」

 遠くから大きな声が聞こえてくる。フェリックスと共に窓から顔を出した。
 遠くでは馬上から腕を振ったカールが叫んでいる。カトリーヌも手を振り返すと、振っていた腕は更に激しく振られた。

「お帰りなさ――い! お嬢様! エルザ! ようこそフェリックス様――!」

 距離はまだある。カトリーヌ達は疲れて一旦馬車の中に戻ったが、窓の外ではまだカールの声が聞こえていた。

「ほんっとうにもう! あんなにずっと叫んでいたら声が枯れるじゃない」

 ブツブツ言うエルザは、怒っているというのにどこか嬉しそうに見えた。


「長旅お疲れ様でした。フェリックス様には目新しい物ばかりだったんじゃないですか?」

 荷降ろしを手伝いながらカールは上機嫌で声を掛けてくる。フェリックスは警戒しているのか、片時もエルザのそばから離れようとはしなかった。

「お陰様で快適な旅だったわ。フェリックスも飽きずに楽しんでくれていたみたいだし、もっと早く連れて来ても良かったかも知れないわね」

 こんな長旅に耐えられる訳がないと勝手にフェリックスの限界を決め、心配だからというだけでフェリックスが外の世界と触れ合う機会を失う所だった。だからこそ今回の旅の目的がなんであれ、来て良かったと思っていた。

「街は随分変化したみたいね。もし今あの街に入ったら迷子になる自信があるわ」
「ハハッ、復興自体はうまくいっていると思います。詳しくは旦那様からお話があると思いますので、最初はお風呂にしますか? それとも何か食べられますか?」
「それならフェリックスとエルザをお願い。私はお父様に会ってくるわ」

 しかし大きな屋敷を前にフェリックスは身体を強張らせていた。

――やっぱり知らない場所ですぐに私と離れるのは不安よね。

「やっぱり私も……」
「フェリックス!? フェリックスなのね!」

 その瞬間、勢いよく玄関が開かれた。ドレスの裾を物ともせず小走りで向かって来たのは、セリーヌだった。

「フェリックス――! お顔をよく見せて頂戴。あらあらこんなに大きくなって、もうすっかりお兄さんの顔つきね」
「セーちゃん! セーちゃんだ!」

 “おばあちゃん”という呼び方を絶対に許さなかったセリーヌは、カトリーヌ達が呆れるのも物ともせず、フェリックスに自らを“セーちゃん”と呼ばせていた。もちろんおばあちゃんという容姿ではないのは誰もが分かっている。モンフォール領に帰って更に美しさに磨きがかかったようで、肌は更に艶が増しているように見えた。

「やっぱり自然の力は偉大よ。あなたもこちらに戻ってらっしゃい」

 フェリックスを抱きしめながらセリーヌは大真面目な顔で言った。

「お久しぶりお母様。私はお父様に会って来るのでフェリックスをお願いね」
「そんな事より着いたばかりなんだからゆっくりお茶でもしましょう。美味しいお菓子を準備して待っていたのよ。王都に負けないくらいのお菓子の名産を作ろうと思って試行錯誤中なの。でも今フェリックスの顔を見て思ったわ。あのクマのお菓子にも負けない可愛らしい物がいいわね!」

 久しぶりの子と孫との再会に興奮しているセリーヌをなんとか収めながら、カトリーヌは父親が仕事をしている執務室へと向かった。




「お父様! お久しぶりです!」

 執務室の中は、ここだけ時が止まっているように静かだった。父親は眼鏡を外して立ち上がると勢いよく抱き締めてきた。

「お帰りカトリーヌ。フェリックスも無事に到着したようで安心したよ。出迎えに行きたかったが急ぎの案件があってね」
「大丈夫です、お母様の熱烈な歓迎を受けてフェリックスも上機嫌でしたから」

 父親はそれを嬉しそうに聞きながらカトリーヌをソファへと誘導してくる。久しぶりに見るその顔はどこか緊張しているように見えた。

「何かあったのね?」

 いつの間にかしわが深く刻まれたその顔を真っ直ぐに見つめると、観念したように小さく笑った。

「時間を掛けた方が言い出しにくくなってしまうな。さすがはカトリーヌだ」
「話してお父様。何を聞いても私は大丈夫よ」

 握られていた手が離され、短い沈黙の後父親は声を抑えて話し出した。

「あの洞窟で発見した事なんだが、我が家門はグロースアーマイゼの血が混ざっているという事が分かったんだよ。我々のご先祖様はグロースアーマイゼ国から亡命してきたお姫様だったんだ」
「そうなのね」
「あまり驚かないんだな」
「実を言うとクロード王子から聞かされていたの。でもかなり昔の話だし、それに口にするのも怖くて言い出せなくて……ごめんなさい」

 父親は返事をする代わりに肩をポンと叩くと、机の引き出しから立派な薄い箱を取り出した。首に掛けていた鍵でその箱を開けると中から数枚の紙を取り出した。

「姿絵?」

 寄越されたのは数枚の家族の姿絵。幼い子供二人と両親だろうか。そのまま数枚を捲り、そしてその内の一枚で手を止めた。

「これは……」
「お前にそっくりだろう? おそらく、そのお方がこの地に亡命してきたお姫様だよ」

 背景は豪華な一室。幸せそうに微笑むのは、自分によく似た女性だった。年の頃は王都に行った頃に近い年齢だろうか。髪の色も瞳の色も、その姿は自分と瓜二つだった。

「もう一枚を捲ってごらん」

 最後の一枚には男女の姿が描かれていた。女性の方はもちろん自分に似た姫。そして隣の男性は、少し年上の貴族のような格好の男性。少し妙だったのは、紙の劣化のせいか男性の肌が褐色に見えた気がした。

「お二人は似ていないから、おそらく夫か婚約者かもしれないね。家族の絵姿と共に大事に持って来たという事は、特別なお方だったのだろう」
「一緒に亡命してきたという事はないかしら。お二人が私達のご先祖様という事はないの?」

 すると父親は残念そうに首を振った。

「男性の胸を見てごらん。蠍の紋章が入っているだろう」

 男性の心臓の位置には確かに蠍の紋章が刺繍されている。それによく見ると、衣装も見慣れない形をしていた。

「シャー・ビヤーバーンの一族の紋章だ。見た事があるかい?」
「昔に絵本で見た気がするわ。砂漠の寝物語の本だったと思うけれど」
「砂漠は寝物語が多いからね。便宜上我々は西の国と呼ぶが、実際は国でなく砂漠一帯をシャー・ビヤーバーン一族が治めているんだよ」
「なぜそんな一族の方が一緒に写っているのかしら」

 持っている手が震えてくる。カトリーヌは堪らずに絵姿を机の上に置いた。

「詳細はベルトラン侯爵に話を聞いてみようと思う。我々よりもシャー・ビヤーバーンの一族についてお詳しいだろうから」
「ベルトラン侯爵が?」
「昔ベルトラン家が貿易をしていたという西の国こそがこのシャー・ビヤーバーンの一族なんだ」

 ベルトラン侯爵家が、フェンゼン大公によって船を奪われるまで貿易をしてきた国。武器の密輸と食料の横流しをしたと疑われた相手を、まさかこうして目にする日が来るとは思いもしなかった。

「まずはカトリーヌに話してからと思ってわざわざ来て貰ったんだよ。ここの変化も見せたかったしね。明日はフェリックスも一緒に街の中を案内しよう。きっと驚くぞ」
「でもお父様、この事が公になれば私達はどうなるのかしら」

 すると父親は姿絵を裏返した。

「陛下は我々がグロースアーマイゼ国の王家の血を引いているかもしれないという事は非公開にすると仰っていたよ。ただ指輪を取り戻した今、グロースアーマイゼ国が何かを仕掛けてくるかもしれないね。ただこれは全て杞憂だ」
「そうよね、私達には関係ない事だわ。だってずっと昔の話だもの」

 カトリーヌは裏返しになった姿絵をじっと見つめていた。
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