23 / 46
第23話 加速する事態
しおりを挟む
数年前までは寂れていた記憶があった町は、今は潤っているように見えた。
海水と淡水の交じるこの辺り一帯の川は魚が豊富だったが、複雑な地形で小型の舟しか出す事が出来ず、網を投げても岩場に引っ掛けて網を駄目にしてしまう事が多いと聞いた事があった。
「どうする? このまま町に入るか?」
今までいくつかの町と川を辿って調べてきたが、町の人々はどこも協力的とは言い難かった。時には今更災害の事を思い出させるなと怒られる事さえあった。
「川を調査してから町に入るか。前みたいに目を付けられたら川の調査にも支障が出るだろうしな」
「あぁもう! 絶対に何か隠しているんだけどな!」
グリは町の人々に絡まれた時は怒りのあまり手を出しそうになって以来、町人に声を掛けるのが億劫になっているようだった。
「今回はくれぐれも暴走するなよ」
「分かってるって。でも今更川を見回った所で何か出てくんのかな」
確かに日々、雨も降れば風も吹き嵐もきている。川周辺の様子が変わっていない訳がない。
「ここらは確かドウラ子爵の領地だよな」
「ベルガー辺境伯のご親類に当たるお方らしい」
「協力はしてもらえないのかな?」
「……今は誰が敵か味方か分からないからな」
グリの雰囲気が暗くなっていく。
「先に行くぞ! 海へは俺が一番乗りだ!」
カールは馬の足を速め、二人で競うように川沿いに進んでいく。そして見えてきた景色に息を呑んだ。
川幅が一気に広くなりその先には広大な海が広がっていた。川と海の境界には僅かに色の明暗がある。同じ水なのに色が違うというのも妙だが、それよりも目を奪われたのは果てしない地平線だった。
「海、初めて見たかも」
「俺もだよ」
「……あの水害から本当は川を見るのが嫌だったんだ。海に行くなんてなんてとんでもないって思ってた」
グリは平民の出だった為、あの全てを押し流す黒い水を目の当たりにした領民の一人で、その時はまだ十四歳の少年だった。
「お前はよくやっているよ。こうして皆の為に旅に出て本当に偉いな」
頭をポンと叩くと強引に払われてしまう。
「子供扱いすんなよ」
「すまんすまん。お前はもう立派な男だ」
「な、急に何なんだよ!」
カールもグリの隣りに立ったが、敢えて顔は見ないようにした。
「あの恐ろしかった水と同じ物だなんてなんか不思議だよな」
「俺許せないよ。あの水害は人のせいだったって絶対に暴いてやる!」
「モンフォール領の人間は絶対にこのままじゃ終わらないって証明しよう!」
その時、一艘の立派な船が入り江に入って来たのが見えた。大きな船とこの入り江の相性は悪かったはず。それに船は高級品でドウラ子爵が保有出来るなどありえない。だからこそ、大型の船を何艘も失ったベルトラン侯爵家は没落しかけたのだ。
「ドウラ子爵って金持ちなの?」
「どうもきな臭いな。お前はここで待っていろ」
「あ、待てよ! カール!」
しかしカールは馬を降りて、船が停泊した場所まで進んで行ってしまった。
「ちょっといいですか?」
漁師達は突然現れた見知らぬ男に警戒心を顕にしながら、ゾロゾロと降りてきた。
「兄ちゃん何の用だ? 俺達は航海で疲れてんだから手短にな」
日に焼けた太い腕をした中年の男は仲間に目配せをするとカールの周囲を取り囲んできた。
「仕事が欲しいんですがここで雇ってもらえませんか?」
返事はない。その代わり上から下まで舐めるように視線が動いた。
「モンフォールから来たんですけど、仕事が見つからなくって困っているんです。それにしても立派な船ですね! いやぁ凄いなぁ!」
カールは目をキラキラさせて船を見つめた。すると突然大きな笑い声が上がった。
「そうだろ! この船はなぁ、領主様が俺達に下さった大切な商売道具なのさ!」
中年の男は船を褒められた瞬間、日に焼けた赤ら顔で豪快に笑った。
「領主様ってドウラ子爵ですか?」
「あぁ? 今の領主様はフェンゼン大公だぞ。仕事は終わりだから飯を食わせてやるよ。そんなに細っこい体しやがって漁師になんてなれるもんか!」
肩を組まれバシバシとそのまま連れて行かれる。汗と海の匂いが染み付いた男に連れられるまま、カールは先程通り過ぎた町へと向かって行った。
船長だというこの男は面倒見のいい男だった。
連れて行かれたのは漁師達で賑わう小さな酒場。昼を過ぎたばかりの酒場ではすぐに宴会が始まり、ひとしきり船を褒めた所で酔いが回ってきた船長を見ながらまた先程の話に会話を戻した。
「でもこの地がフェンゼン大公の領地になっていたなんて、全然知りませんでした」
「ドウラ子爵は良いお方だったが商売はからきしだったからな」
「でももし俺なら、領主様が変わるなんて不安でしかないですよ」
「でもフェンゼン大公は高貴なご身分でありながら、下々の事をよく考えて下さっているんだ」
こんな風に支持するのはおそらく船を貰った事が大きいのかもしれない。
「入り江にもスイスイ入れちゃうなんて、やっぱり船長の腕のおかげですか?」
「ハハッ、それもあるがあの船が凄いのさ。こんな耐久がある優れ物なんてベルトラン侯爵家の船以来……って、あれ酔ってきたか」
「さすがはフェンゼン大公ですね!」
「それが、なんでもグロースアーマイゼ国の造船所で作ったって噂だぞ」
「グロースアーマイゼ国!?」
「まぁまぁ! 若いもんが驚くのも無理はないがな、国交を断絶していた訳じゃないから、海沿いの町は昔から交流があってそれなりに良い関係は築いていたんだ」
すると料理を運んできた女主人が呆れたように大皿を机の上に置いた。
「また船の自慢話かい? この人は船を褒められると調子に乗るからね」
「でもあまりその話が広まっていないのが不思議ですね」
すると女主人は困ったように笑った。
「だってそれは船長……あら、寝てるよ。まああんたも明日から漁に出るなら祠に手でも合わせてから船に乗るんだね」
「祠、ですか?」
「川の近くにあってこの人らが大事にしているのさ」
机に突っ伏した船長は鼾をかき始めている。カールは他の漁師達とも酒を飲み交わしながら、そっと酒場を抜け出たのは空がとっぷり暗くなってからだった。
酒場を抜け出し人気のない真っ暗な川辺りに戻って来ていた。
「グリはどこ行ったんだ?」
ランプの灯りを頼りに川辺りを上がって行くと、いつしか海との境界まで来ていた。ぼんやりとしか見えない足元を用心深く進み、女主人の言っていた言葉を思い出していた。
「祠があるって言ってたな」
航海の無事を祈る為の祠。ただの祠に決まっている。でも無骨な男達が何かに祈るというのも違和感がある。神か精霊か、それとも自然そのものになのか。
――でも危険な海に出るんだから誰でも安全祈願ぐらいするか。
やがて石が積まれた祠がポツンとあった。祠があると教えられなければそこが祠だとは気が付かなかったかもしれない。
「無駄足か」
そこには酒瓶が転がっているだけ。若干の生臭い腐った臭いもするから、もしかしたらお供え物をしているのかもしれない。でもここでは獣や鳥が奪われていてもおかしくはないだろう。戻ろうとした時だった。後ろに気配を感じ、振り返った時には数人の男達に囲まれていた。
「こんな所で何をしている」
振り上げられたランプに照らされ顔を背けると、砂利を踏む音が近付いてくる。
「怪しいもんじゃありませんよ。漁師です」
「こんな時間から漁か? 仲間は?」
「雇って貰ったばかりなので安全祈願に来たんです。さっき酒場のおばちゃんに教えてもらったもんで」
砂利を踏む足音が止まる。するとすっとランプの灯りも下がった。
「あまりウロウロせずに町に戻るんだな。この辺りにも稀だが肉食の獣が出るぞ」
「もう戻りますよ」
監視するように見てくる巡回兵らしく者達を横目で見ながら、カールは足早に過ぎようとした時だった。
「止まれ。お前どこかで見た事があるな」
そろりと抜かれた金属音と、肩に置かれた物をちらりを見た。
「どこにでもいるような顔ですからね」
「違う、その声にその顔……他の町でも川について調べていたな!」
――チッ、あの時顔を見られていたのか。
カールは剣を振り下ろされる前に思い切り後ろに下がって男ごと倒れた。衝撃で祠にぶつかり祠ごと崩れてしまう。素早く起き上がると、男から剣を奪った。その時同時に小石も手の中に入ってくる。手の中で痛みはあったが二人の男が同時に襲われ、異物を取る事も出来ずに一人を斬り付けた。一人目はそのまた横に倒れたが、もう一人が投げたナイフが肩に刺さってしまう。その瞬間後ろから羽交い締めにされ、カールは身動きが取れないまま押さえつけられてしまった。
「正直に吐け! 誰の命令で何を探っているんだ!」
ギリギリと締め上げられれば声を出す事も出来ない。意識が遠退きかけた時、馬の足音で我に返った。二頭の馬が男達を蹴散らし、一人は夜の川に、もう一人は倒れている。後ろから抑えてきていた男に頭突きをすると、カールは手の伸ばした。
「グリ! 手綱を寄越せ!」
器用に二頭を操っていたグリは声の方向に一頭を向かわせた。
「うえぇ、痛そう」
肩の応急手当をした後、ベルガーの町で医者の手当てを受け終えたカールは、その間に食料を買い込んできたグリの額をコツンと叩いた。
「見た目程酷くはならないから大丈夫だ」
「油断するから斬られたりするんだよ」
するとグリは買い物袋の中から焼き立ての肉の串を押し付けてきた。香ばしい匂いにつられて受け取ると、どかりとベッドに腰掛けた。
「危なくエルザさんにどやされるところだった。エルザさんと約束したんだ、無鉄砲なあんたを守るってさ」
「エルザと? いつ?」
「エルザさんがモンフォール領を出るずっと前だよ」
「それってお前がまだガキの頃の話か?」
「誰がガキだ! やっぱもう教えてやんねぇ!」
カールは斬られた肩を抑えながらグリの近くに寄った。
「孤児院に通っていた時にでも話したんだろ」
「分かってんなら聞くな」
「さすがにそんな話してたのは知らなかったさ」
「エルザさんは孤児院を出てモンフォールのお屋敷で働くようになっても、たまに来てくれてたんだ。旦那様と一緒の時もあったけど、あんたが一緒に来た時もあったな」
するとグリは短い髪をガシガシと掻いた。照れ隠しだと分かるその動きにカールは小さく微笑んだ。
「エルザさんがあんたと来た時は嬉しそうだったからな。ってキモいな、笑うなよ!」
カールは無意識に緩んでいた頬を引き締めた。
「その時、エルザさんが笑顔でいる為にはあんたが元気じゃないとって思ったんだ。俺がカールと一緒に旦那様の為に働くって言ったら喜んでいたよ」
するとカールは気が付いたように目を見開いた。
「お前まさかエルザの事をす、す、す……」
「やめろ! あんたと恋バナする気なんてないからな!」
「俺だってそんな話する気はない! それにお前はどうせ恋バナのネタになる相手もいないだろ!」
「言ったな! そんなんじゃ王都に行ったエルザさんに愛想尽かされるんだからな! というか尽かされろ!」
「なッ、別に俺とエルザはそんな関係じゃない!」
するとグリは残念なものでも見るように目を細めた。
「クロード! クロードはいないか?」
騎士団寄宿舎でアルベルトは声を張り上げていた。遠くからバタバタという足音と共に飛び出して来たのは、ベルガー領で捕虜にした青年の内の一人だった。最初は解放してまた敵になるのを防ぐ目的だったが、何の縁か二人はこの国に留まる事を望んだ。元々傭兵だったらしく国という概念が薄かったのかもしれない。しかし終戦間近でもう一人のオヴァルが戦死した。だからこそクロードに対して自責の念があり、今でももうして面倒を見ていた。
「どうされました? こんな朝早くに」
眠い目を擦りながら無意識に肩を擦っている。朝は冷え込むから古傷が痛むらしい。
「今日は息子とその母親が来るから俺の所まで案内を頼みたい」
「承知しました。息子さんと、えっと確かカトリーヌ様でしたよね?」
「……何故名前を知っているんだ」
「そりゃ有名なお方ですから。それじゃあなんとお呼びすれば……元奥様ですか?」
アルベルトのこめかみにピキンと筋が走る。クロードは慌てて背筋を伸ばした。
「奥様! 奥様とお呼びしても宜しいですか?」
「構わない」
満更でもない顔でそう言うと踵を返していく。クロードはポリポリと首を搔きながら、今度こそ大きな欠伸をした。
海水と淡水の交じるこの辺り一帯の川は魚が豊富だったが、複雑な地形で小型の舟しか出す事が出来ず、網を投げても岩場に引っ掛けて網を駄目にしてしまう事が多いと聞いた事があった。
「どうする? このまま町に入るか?」
今までいくつかの町と川を辿って調べてきたが、町の人々はどこも協力的とは言い難かった。時には今更災害の事を思い出させるなと怒られる事さえあった。
「川を調査してから町に入るか。前みたいに目を付けられたら川の調査にも支障が出るだろうしな」
「あぁもう! 絶対に何か隠しているんだけどな!」
グリは町の人々に絡まれた時は怒りのあまり手を出しそうになって以来、町人に声を掛けるのが億劫になっているようだった。
「今回はくれぐれも暴走するなよ」
「分かってるって。でも今更川を見回った所で何か出てくんのかな」
確かに日々、雨も降れば風も吹き嵐もきている。川周辺の様子が変わっていない訳がない。
「ここらは確かドウラ子爵の領地だよな」
「ベルガー辺境伯のご親類に当たるお方らしい」
「協力はしてもらえないのかな?」
「……今は誰が敵か味方か分からないからな」
グリの雰囲気が暗くなっていく。
「先に行くぞ! 海へは俺が一番乗りだ!」
カールは馬の足を速め、二人で競うように川沿いに進んでいく。そして見えてきた景色に息を呑んだ。
川幅が一気に広くなりその先には広大な海が広がっていた。川と海の境界には僅かに色の明暗がある。同じ水なのに色が違うというのも妙だが、それよりも目を奪われたのは果てしない地平線だった。
「海、初めて見たかも」
「俺もだよ」
「……あの水害から本当は川を見るのが嫌だったんだ。海に行くなんてなんてとんでもないって思ってた」
グリは平民の出だった為、あの全てを押し流す黒い水を目の当たりにした領民の一人で、その時はまだ十四歳の少年だった。
「お前はよくやっているよ。こうして皆の為に旅に出て本当に偉いな」
頭をポンと叩くと強引に払われてしまう。
「子供扱いすんなよ」
「すまんすまん。お前はもう立派な男だ」
「な、急に何なんだよ!」
カールもグリの隣りに立ったが、敢えて顔は見ないようにした。
「あの恐ろしかった水と同じ物だなんてなんか不思議だよな」
「俺許せないよ。あの水害は人のせいだったって絶対に暴いてやる!」
「モンフォール領の人間は絶対にこのままじゃ終わらないって証明しよう!」
その時、一艘の立派な船が入り江に入って来たのが見えた。大きな船とこの入り江の相性は悪かったはず。それに船は高級品でドウラ子爵が保有出来るなどありえない。だからこそ、大型の船を何艘も失ったベルトラン侯爵家は没落しかけたのだ。
「ドウラ子爵って金持ちなの?」
「どうもきな臭いな。お前はここで待っていろ」
「あ、待てよ! カール!」
しかしカールは馬を降りて、船が停泊した場所まで進んで行ってしまった。
「ちょっといいですか?」
漁師達は突然現れた見知らぬ男に警戒心を顕にしながら、ゾロゾロと降りてきた。
「兄ちゃん何の用だ? 俺達は航海で疲れてんだから手短にな」
日に焼けた太い腕をした中年の男は仲間に目配せをするとカールの周囲を取り囲んできた。
「仕事が欲しいんですがここで雇ってもらえませんか?」
返事はない。その代わり上から下まで舐めるように視線が動いた。
「モンフォールから来たんですけど、仕事が見つからなくって困っているんです。それにしても立派な船ですね! いやぁ凄いなぁ!」
カールは目をキラキラさせて船を見つめた。すると突然大きな笑い声が上がった。
「そうだろ! この船はなぁ、領主様が俺達に下さった大切な商売道具なのさ!」
中年の男は船を褒められた瞬間、日に焼けた赤ら顔で豪快に笑った。
「領主様ってドウラ子爵ですか?」
「あぁ? 今の領主様はフェンゼン大公だぞ。仕事は終わりだから飯を食わせてやるよ。そんなに細っこい体しやがって漁師になんてなれるもんか!」
肩を組まれバシバシとそのまま連れて行かれる。汗と海の匂いが染み付いた男に連れられるまま、カールは先程通り過ぎた町へと向かって行った。
船長だというこの男は面倒見のいい男だった。
連れて行かれたのは漁師達で賑わう小さな酒場。昼を過ぎたばかりの酒場ではすぐに宴会が始まり、ひとしきり船を褒めた所で酔いが回ってきた船長を見ながらまた先程の話に会話を戻した。
「でもこの地がフェンゼン大公の領地になっていたなんて、全然知りませんでした」
「ドウラ子爵は良いお方だったが商売はからきしだったからな」
「でももし俺なら、領主様が変わるなんて不安でしかないですよ」
「でもフェンゼン大公は高貴なご身分でありながら、下々の事をよく考えて下さっているんだ」
こんな風に支持するのはおそらく船を貰った事が大きいのかもしれない。
「入り江にもスイスイ入れちゃうなんて、やっぱり船長の腕のおかげですか?」
「ハハッ、それもあるがあの船が凄いのさ。こんな耐久がある優れ物なんてベルトラン侯爵家の船以来……って、あれ酔ってきたか」
「さすがはフェンゼン大公ですね!」
「それが、なんでもグロースアーマイゼ国の造船所で作ったって噂だぞ」
「グロースアーマイゼ国!?」
「まぁまぁ! 若いもんが驚くのも無理はないがな、国交を断絶していた訳じゃないから、海沿いの町は昔から交流があってそれなりに良い関係は築いていたんだ」
すると料理を運んできた女主人が呆れたように大皿を机の上に置いた。
「また船の自慢話かい? この人は船を褒められると調子に乗るからね」
「でもあまりその話が広まっていないのが不思議ですね」
すると女主人は困ったように笑った。
「だってそれは船長……あら、寝てるよ。まああんたも明日から漁に出るなら祠に手でも合わせてから船に乗るんだね」
「祠、ですか?」
「川の近くにあってこの人らが大事にしているのさ」
机に突っ伏した船長は鼾をかき始めている。カールは他の漁師達とも酒を飲み交わしながら、そっと酒場を抜け出たのは空がとっぷり暗くなってからだった。
酒場を抜け出し人気のない真っ暗な川辺りに戻って来ていた。
「グリはどこ行ったんだ?」
ランプの灯りを頼りに川辺りを上がって行くと、いつしか海との境界まで来ていた。ぼんやりとしか見えない足元を用心深く進み、女主人の言っていた言葉を思い出していた。
「祠があるって言ってたな」
航海の無事を祈る為の祠。ただの祠に決まっている。でも無骨な男達が何かに祈るというのも違和感がある。神か精霊か、それとも自然そのものになのか。
――でも危険な海に出るんだから誰でも安全祈願ぐらいするか。
やがて石が積まれた祠がポツンとあった。祠があると教えられなければそこが祠だとは気が付かなかったかもしれない。
「無駄足か」
そこには酒瓶が転がっているだけ。若干の生臭い腐った臭いもするから、もしかしたらお供え物をしているのかもしれない。でもここでは獣や鳥が奪われていてもおかしくはないだろう。戻ろうとした時だった。後ろに気配を感じ、振り返った時には数人の男達に囲まれていた。
「こんな所で何をしている」
振り上げられたランプに照らされ顔を背けると、砂利を踏む音が近付いてくる。
「怪しいもんじゃありませんよ。漁師です」
「こんな時間から漁か? 仲間は?」
「雇って貰ったばかりなので安全祈願に来たんです。さっき酒場のおばちゃんに教えてもらったもんで」
砂利を踏む足音が止まる。するとすっとランプの灯りも下がった。
「あまりウロウロせずに町に戻るんだな。この辺りにも稀だが肉食の獣が出るぞ」
「もう戻りますよ」
監視するように見てくる巡回兵らしく者達を横目で見ながら、カールは足早に過ぎようとした時だった。
「止まれ。お前どこかで見た事があるな」
そろりと抜かれた金属音と、肩に置かれた物をちらりを見た。
「どこにでもいるような顔ですからね」
「違う、その声にその顔……他の町でも川について調べていたな!」
――チッ、あの時顔を見られていたのか。
カールは剣を振り下ろされる前に思い切り後ろに下がって男ごと倒れた。衝撃で祠にぶつかり祠ごと崩れてしまう。素早く起き上がると、男から剣を奪った。その時同時に小石も手の中に入ってくる。手の中で痛みはあったが二人の男が同時に襲われ、異物を取る事も出来ずに一人を斬り付けた。一人目はそのまた横に倒れたが、もう一人が投げたナイフが肩に刺さってしまう。その瞬間後ろから羽交い締めにされ、カールは身動きが取れないまま押さえつけられてしまった。
「正直に吐け! 誰の命令で何を探っているんだ!」
ギリギリと締め上げられれば声を出す事も出来ない。意識が遠退きかけた時、馬の足音で我に返った。二頭の馬が男達を蹴散らし、一人は夜の川に、もう一人は倒れている。後ろから抑えてきていた男に頭突きをすると、カールは手の伸ばした。
「グリ! 手綱を寄越せ!」
器用に二頭を操っていたグリは声の方向に一頭を向かわせた。
「うえぇ、痛そう」
肩の応急手当をした後、ベルガーの町で医者の手当てを受け終えたカールは、その間に食料を買い込んできたグリの額をコツンと叩いた。
「見た目程酷くはならないから大丈夫だ」
「油断するから斬られたりするんだよ」
するとグリは買い物袋の中から焼き立ての肉の串を押し付けてきた。香ばしい匂いにつられて受け取ると、どかりとベッドに腰掛けた。
「危なくエルザさんにどやされるところだった。エルザさんと約束したんだ、無鉄砲なあんたを守るってさ」
「エルザと? いつ?」
「エルザさんがモンフォール領を出るずっと前だよ」
「それってお前がまだガキの頃の話か?」
「誰がガキだ! やっぱもう教えてやんねぇ!」
カールは斬られた肩を抑えながらグリの近くに寄った。
「孤児院に通っていた時にでも話したんだろ」
「分かってんなら聞くな」
「さすがにそんな話してたのは知らなかったさ」
「エルザさんは孤児院を出てモンフォールのお屋敷で働くようになっても、たまに来てくれてたんだ。旦那様と一緒の時もあったけど、あんたが一緒に来た時もあったな」
するとグリは短い髪をガシガシと掻いた。照れ隠しだと分かるその動きにカールは小さく微笑んだ。
「エルザさんがあんたと来た時は嬉しそうだったからな。ってキモいな、笑うなよ!」
カールは無意識に緩んでいた頬を引き締めた。
「その時、エルザさんが笑顔でいる為にはあんたが元気じゃないとって思ったんだ。俺がカールと一緒に旦那様の為に働くって言ったら喜んでいたよ」
するとカールは気が付いたように目を見開いた。
「お前まさかエルザの事をす、す、す……」
「やめろ! あんたと恋バナする気なんてないからな!」
「俺だってそんな話する気はない! それにお前はどうせ恋バナのネタになる相手もいないだろ!」
「言ったな! そんなんじゃ王都に行ったエルザさんに愛想尽かされるんだからな! というか尽かされろ!」
「なッ、別に俺とエルザはそんな関係じゃない!」
するとグリは残念なものでも見るように目を細めた。
「クロード! クロードはいないか?」
騎士団寄宿舎でアルベルトは声を張り上げていた。遠くからバタバタという足音と共に飛び出して来たのは、ベルガー領で捕虜にした青年の内の一人だった。最初は解放してまた敵になるのを防ぐ目的だったが、何の縁か二人はこの国に留まる事を望んだ。元々傭兵だったらしく国という概念が薄かったのかもしれない。しかし終戦間近でもう一人のオヴァルが戦死した。だからこそクロードに対して自責の念があり、今でももうして面倒を見ていた。
「どうされました? こんな朝早くに」
眠い目を擦りながら無意識に肩を擦っている。朝は冷え込むから古傷が痛むらしい。
「今日は息子とその母親が来るから俺の所まで案内を頼みたい」
「承知しました。息子さんと、えっと確かカトリーヌ様でしたよね?」
「……何故名前を知っているんだ」
「そりゃ有名なお方ですから。それじゃあなんとお呼びすれば……元奥様ですか?」
アルベルトのこめかみにピキンと筋が走る。クロードは慌てて背筋を伸ばした。
「奥様! 奥様とお呼びしても宜しいですか?」
「構わない」
満更でもない顔でそう言うと踵を返していく。クロードはポリポリと首を搔きながら、今度こそ大きな欠伸をした。
494
お気に入りに追加
2,263
あなたにおすすめの小説
【完結】捨てられた双子のセカンドライフ
mazecco
ファンタジー
【第14回ファンタジー小説大賞 奨励賞受賞作】
王家の血を引きながらも、不吉の象徴とされる双子に生まれてしまったアーサーとモニカ。
父王から疎まれ、幼くして森に捨てられた二人だったが、身体能力が高いアーサーと魔法に適性のあるモニカは、力を合わせて厳しい環境を生き延びる。
やがて成長した二人は森を出て街で生活することを決意。
これはしあわせな第二の人生を送りたいと夢見た双子の物語。
冒険あり商売あり。
さまざまなことに挑戦しながら双子が日常生活?を楽しみます。
(話の流れは基本まったりしてますが、内容がハードな時もあります)
あなたの愛が正しいわ
来須みかん
恋愛
旧題:あなたの愛が正しいわ~夫が私の悪口を言っていたので理想の妻になってあげたのに、どうしてそんな顔をするの?~
夫と一緒に訪れた夜会で、夫が男友達に私の悪口を言っているのを聞いてしまった。そのことをきっかけに、私は夫の理想の妻になることを決める。それまで夫を心の底から愛して尽くしていたけど、それがうっとうしかったそうだ。夫に付きまとうのをやめた私は、生まれ変わったように清々しい気分になっていた。
一方、夫は妻の変化に戸惑い、誤解があったことに気がつき、自分の今までの酷い態度を謝ったが、妻は美しい笑みを浮かべてこういった。
「いいえ、間違っていたのは私のほう。あなたの愛が正しいわ」

初めから離婚ありきの結婚ですよ
ひとみん
恋愛
シュルファ国の王女でもあった、私ベアトリス・シュルファが、ほぼ脅迫同然でアルンゼン国王に嫁いできたのが、半年前。
嫁いできたは良いが、宰相を筆頭に嫌がらせされるものの、やられっぱなしではないのが、私。
ようやく入手した離縁届を手に、反撃を開始するわよ!
ご都合主義のザル設定ですが、どうぞ寛大なお心でお読み下さいマセ。

職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい
LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。
相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。
何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。
相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。
契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?

初耳なのですが…、本当ですか?
あおくん
恋愛
侯爵令嬢の次女として、父親の仕事を手伝ったり、邸の管理をしたりと忙しくしているアニーに公爵家から婚約の申し込みが来た!
でも実際に公爵家に訪れると、異世界から来たという少女が婚約者の隣に立っていて…。

妾に恋をした
はなまる
恋愛
ミーシャは22歳の子爵令嬢。でも結婚歴がある。夫との結婚生活は半年。おまけに相手は子持ちの再婚。 そして前妻を愛するあまり不能だった。実家に出戻って来たミーシャは再婚も考えたが何しろ子爵領は超貧乏、それに弟と妹の学費もかさむ。ある日妾の応募を目にしてこれだと思ってしまう。
早速面接に行って経験者だと思われて採用決定。
実際は純潔の乙女なのだがそこは何とかなるだろうと。
だが実際のお相手ネイトは妻とうまくいっておらずその日のうちに純潔を散らされる。ネイトはそれを知って狼狽える。そしてミーシャに好意を寄せてしまい話はおかしな方向に動き始める。
ミーシャは無事ミッションを成せるのか?
それとも玉砕されて追い出されるのか?
ネイトの恋心はどうなってしまうのか?
カオスなガストン侯爵家は一体どうなるのか?

婚約破棄をされた悪役令嬢は、すべてを見捨てることにした
アルト
ファンタジー
今から七年前。
婚約者である王太子の都合により、ありもしない罪を着せられ、国外追放に処された一人の令嬢がいた。偽りの悪業の経歴を押し付けられ、人里に彼女の居場所はどこにもなかった。
そして彼女は、『魔の森』と呼ばれる魔窟へと足を踏み入れる。
そして現在。
『魔の森』に住まうとある女性を訪ねてとある集団が彼女の勧誘にと向かっていた。
彼らの正体は女神からの神託を受け、結成された魔王討伐パーティー。神託により指名された最後の一人の勧誘にと足を運んでいたのだが——。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる