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第6話 過去の因縁
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ベルトラン家の屋敷は静かなもので、ほとんど表情の変わらないやつれた母親はいつも物思いに耽っているように窓の外を見ていた。
決して自分には向けられない視線。そばにいるのにアルベルトにとっては帰らない父親と同じだった。母親はある時ぱたりと倒れ、数日後には帰らぬ人となった。不思議と悲しくはなかった。世話係からあの人が“母親”だと言われてはいたが、その人に“母親”をしてもらった事はなかったからだ。
父親は元々恋人だった子爵家の恋人と引き離され、身分の釣り合う侯爵家の母親と結婚したと知ったのは亡くなって数日後の事だった。良からぬ噂話を子供の耳に入れた侍女達は祖父によって解雇された。
幸か不幸か父親と愛人との間にはついぞ子供は出来なかった為、アルベルトはベルトラン侯爵家唯一の後継者として幼い頃から人一倍目を掛けられてきた。父親以外に。
「そろそろ面会にいらして下さい」
ルドルフは夕食を取り終えたアルベルトの機嫌を見計らって声を掛けた。しかし途端に屋敷内の空気が張り詰める。侍女達は空いた皿もそのままに気配を消して退室していった。
「そんなに悪いのか?」
「父からそろそろお会いしていた方がいいと言われました。明日ならば旦那様は出張で戻られませんし、すでに大旦那様へのお話も通しております」
「じいさんも今更俺の顔なんて見ても嬉しくないだろ」
「私はアルベルト様の為に申しているのです」
少しの沈黙の後、諦めたように承諾した。
王都から少し馬車を走らせた高台にベルトラン前当主が療養する屋敷がある。元々は病気がちな母親が療養する為に建てられた物だったが、母がここに足を踏み入れる事はなかった。
――コンコンコンッ。
返事の代わりに扉が開く。灰色の髪をオールバッグにした従者はアルベルトの顔を見るなり神経質そうな表情を緩めた。
「お待ちしておりました」
「コンラット、久しぶりだな」
コンラットはアルベルトが気安く話す数少ない使用人の内の一人だったが、しばらく見ない間に随分と老け込んだように見える。無精髭が生えているのが珍しく見ていると、居心地悪そうに顎に触れた。
「申し訳ございません、整えて参ります」
「俺達しかいないんだから気にするな。それよりももしかして何かあったのか?」
「実は昨晩は少し苦しまれており、眠りについたのが朝方だったのです」
「出直して来た方がいいか?」
「アルベルト様にお会い出来るのを楽しみにされていたので、どうぞこのままお会いになって下さい」
室内は病人がいる独特の臭いがした。コンラットや侍女がいかに気を使っていようと、どうしても使っている薬やこまめに入れない風呂、そして滲み出る体臭という物がある。少しだけ開けられた窓から柔らかい風が入って、レースのカーテンが微かに舞い上がっていた。
「お祖父様お久し振りです」
落ち窪んだ眼窩に青白い肌。以前は誰よりも大きく見えた祖父が今はこうも小さかったかとしみじみ思えてしまう。
「……愚息がようやく来たか」
声は掠れており、目は虚ろ。間違えても仕方がないとは思いながらもいい気はしない。
「この御方はアルベルト様ですよ」
しかしコンラットの言葉にも返事はなかった。
「まだ怒っているのか。何が気に入らんのだ。身分の釣り合う娘を妻に選んでやったというのに」
アルベルトは拳をグッと握り締めた。息子の恋仲を裂き、無理やり自分の決めた相手と結婚させた人。そのせいで母親は心を病み亡くなった。ずっと関心はなかったが元凶の祖父を見下ろしていると、ふと一つだけ聞きたい事が浮かんでいた。
「お祖父様の考える結婚とはなんですか?」
愛に生きた父と家門を優先した祖父。きっと自分は祖父と同じように家門への利益を優先する人間なのだろう。それは構わなかったが、そう生きた人が最後に何を思うのか少しだけ興味があった。
「先祖代々の家を守る事以外に何があるのだ」
アルベルトは祖父に背を向けた。その時、ジャケットの裾を弱々しい力で掴んでくる手に足が止まった。祖父は特別厳しかった訳ではない。それでもいつの間にか自分の中で恐ろしい祖父像を作り上げ敬遠していた。
――こんなに小さい方だったか。
掴まれている裾を引くを手はいとも簡単に離れた。
「少しお話したい事がございます」
「それよりも休んだ方がいいぞ。酷い顔色だ」
「ですが次にお会いする日が最悪の日でないとは限りませんから」
そこまで言われてしまえば断る理由はない。コンラットと共に隣りの部屋へと入って行った。
「大旦那様はもうあまり長くはないでしょう」
アルベルトとルドルフは驚きのあまり顔を見合わせた。
「主治医からもって数日程というお話です。ですから誤解したまま別れを迎えてほしくないのです。これは私の我儘です」
「親子揃って勝手だな。お前の気が済むなら話せ。でも俺の考えが変わる訳じゃないからな」
「ありがとうございます。大旦那様がご当主になられてすぐ、ベルトラン侯爵家は没落の危機に瀕したのはご存知ですね?」
「お祖父様が事業を失敗したせいだろう?」
するとコンラットは苦い表情を浮かべて首を振った。
「貿易業を盛んにしてこられたベルトラン侯爵家でしたが、物資を輸送中の船が相次いで三隻消息を絶ったのです。他国から買い付けた大量の積荷と三隻もの船を失った痛手は大きかったですが、それよりも紛失したその積荷がまずかったのです。積荷は西の国から取り寄せた大量の武器でした」
「武器なんて内乱や戦争の火種になるだけだけだからな。それにしても西の国との貿易だなんて随分昔の話のようだ」
コンラットは当時を思い出しているのか険しい表情になっていた。
「船と乗組員、積荷の捜索に追われている中で事態は最悪の方向へと進みました。当時外務長官の任に就いていた大旦那様が西の国と結託し大量の食料を横流しした見返りとして、秘密裏に武器を受け取っているとある貴族に告発されたのです」
「西の国は土地こそ広いが砂漠が多いからな。食料の生産は難しいだろう。その状況を逆手に取られたという訳か」
「その時に声を上げてくださったのがモンフォール前伯爵だったのです」
昔、あまり顔を合わせない父親がモンフォール伯爵家の事を“田舎貴族が”と悪態をついていたのを耳にした事があった。
「モンフォール伯爵はご自身の領で管理するベルトラン侯爵家の船に載せて輸出をした取引の詳細を載せた帳簿を一年分提出したのです。穀物に豆、野菜や果物、肉や酒などの食品を、どのくらい他国や商会、商店に卸したのかまで明瞭に記載されていました。更に必要であれば過去の資料も提出すると仰ったのです。するとやがて他領もそれに習い資料をするようになりました。その内容はベルトラン侯爵家が積荷をどうこうしようにも付け入る隙などない程でした」
当時の父親はまだ若く、ずっと領地に引き籠もり農業ばかりしている田舎貴族に救われたというのは、王都の中心に住むまだ若い侯爵家の令息には屈辱的だったに違いない。
逆風が吹いているという危機的状況もあって、おそらく爵位の低い恋人とは別れさせられ、後ろ盾のある侯爵家の母親と結婚させられたのだろう。
「そう言えば少し前に、旦那様があの御方とご一緒にいらっしゃいました」
「ここに愛人を連れてきたのか!?」
「あの御方が望まれたようですがすぐに出て行かれたので、何をお話になられたのかは分かりません」
「一体何の用があって来たんだ全く」
その時、誰かが廊下を足早に過ぎる音と、隣の部屋の扉が開く音と侍女の叫び声がほぼ同時にした。
三人が隣の部屋に飛び込んだ時には侍女は腕から血を流し、女がベッドの上で馬乗りになっていた。その手には短刀が握られている。こちらを振り見た女は強い視線でアルベルトを睨み付けると短刀を振り下ろした。アルベルトの振り上げた足が女の肩にぶつかり、吹き飛ばされるように女はベッドの向こう側に倒れていった。
「大旦那様ご無事ですか!」
荒い呼吸をしている祖父の体をコンラットが支えている間に、アルベルトは女の腕を後ろに掴み上げた。悲鳴と共に怒りに満ちた顔が向く。それは子供の時以来に見る父親の愛人だった。容姿はあまり変わっていないように見えるが、神を振り乱す姿はやはり年を取っていた。
「連行するから馬車の用意をしろ」
「離せ! 殺してやる! その男を殺してやるんだから!」
暴れてもアルベルトの拘束から逃れられる訳もなく、腕には拘束の縄が掛けられた。
「私の子を返せッ! 返せ返せ返せ! お前だけはこの手で息の根を止めてやるんだから! 私の子を返せ――!」
アルベルトは驚いたまま祖父を見た。
「何を驚いている。当たり前の処置だろう? あの当時は西の国から子が出来にくくなるという秘薬が手に入ってな。そのお陰でお前は侯爵家唯一の後継者でいられるのだから私に感謝してほしいくらいだ」
今は意識がはっきりしているらしく、落ち窪んだ眼窩は死の気配を纏いながらも威圧感に満ちていた。
「何故そのような事を」
「お前の母親の実家からいくら金を貰ったと思っているのだ。それで他所に子供など出来てみろ。ベルトラン侯爵家も今のような規模ではなかったろうて。全ては家門の為にやった事よ」
アルベルトは握っていた縄をきつく握り締めていた。女は泣き叫び、呪いの言葉を吐いている。それでも連行していく頃には暴れるような事は一切なかった。
「本日はお疲れ様でございました」
深夜にようやく屋敷に帰ってきたアルベルトは、薄明かりの中でグラスに酒を注ぎ入れた。一気に飲み干すと喉が一気に熱くなる。それでももう一杯注ぐと再び飲み干した。
「旦那様は冷静でしたね」
父親が馬車を飛ばして出張先から帰って来たのは少し前の事だった。屋敷の牢に捕らわれていた愛人を連れ出すと、別邸へとあっという間に連れ帰ってしまったのだった。
「どのみちあの女をずっと捕らえておけるとも、ましてや裁判に掛けられるとも思っていなかった。怪我をした侍女にも多額の賠償をして口を噤ませる気だろう」
「アルベルト様も冷静ですね。私は少しだけ驚いております。きっとお子が出来ないようにする為に、私の父も関わっていたでしょうから」
「コンラットは祖父の為なら協力しただろうな。俺のそばにいるお前のように」
薄い唇を噤むと、ルドルフは小さく言った。
「アルベルト様は私にそんな事をさせないで下さいね」
「俺が愛人を作ると思うか?」
「そう言えばモンフォール家のカトリーヌお嬢様をご覧になられましたか? デビュタントの会場には行かれたのですよね?」
その時、アルベルトの頬に緊張が走った。
「遠目からは見た」
「いかがでしたか? お気に召されましたか?」
「遠目からだと言っただろ。最も、向こうはもっと大物を狙っているようだったがな」
「フィリップ殿下の事ですね。私もその場面は見ていないのですが、話によると随分面白い事があったと噂になっているようですね」
ルドルフはアルベルトの反応を楽しむように小さく笑った。
「あのお方が誰かとダンスを踊る珍しい光景をぜひともこの目で拝見したかったです」
「このままだと王家から縁談の話がいくかもしれないな。父上の悔しがる顔の方が見ものだぞ」
「アルベルト様は本当にそれで宜しいのですか?」
「お前まさか俺がこの結婚を望んでいるなんて思っていないだろうな?」
「思っていませんが、ベルトラン侯爵家のいざこざはモンフォール伯爵家のご令嬢には全く関係のない話だと思っただけです」
アルベルトは気まずそうに残りの酒を飲み干すと小さく呟いた。
「自ら誘ったんだ。王家から縁談が舞い込めば喜んでそっちにいくさ。向こうが他の相手を選べば喜んで婚約は解消してやる」
「私が何を言ってもきっとお考えは変わらないのでしょう。これからご自身の目でご判断下さいませ」
「式まで会う気はないぞ」
「贈り物は定期的にしてくださいね」
「それもお前に任せる。モンフォール伯家の娘は跡継ぎを産んだら離縁してやるさ。その後で遊ぶなり再婚するなり好きにすればいい」
「全く、お優しいのかお厳しいのか。もっと分かりやすい性格だと助かるんですがね」
「……モンフォールの土地はもう本当に駄目なのか?」
「まだ全ての調査は終わっておりませんが海の水も含まれている為、おそらくは何年も使い物にはならないでしょう」
「それだけは不憫だな」
決して自分には向けられない視線。そばにいるのにアルベルトにとっては帰らない父親と同じだった。母親はある時ぱたりと倒れ、数日後には帰らぬ人となった。不思議と悲しくはなかった。世話係からあの人が“母親”だと言われてはいたが、その人に“母親”をしてもらった事はなかったからだ。
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「そんなに悪いのか?」
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「私はアルベルト様の為に申しているのです」
少しの沈黙の後、諦めたように承諾した。
王都から少し馬車を走らせた高台にベルトラン前当主が療養する屋敷がある。元々は病気がちな母親が療養する為に建てられた物だったが、母がここに足を踏み入れる事はなかった。
――コンコンコンッ。
返事の代わりに扉が開く。灰色の髪をオールバッグにした従者はアルベルトの顔を見るなり神経質そうな表情を緩めた。
「お待ちしておりました」
「コンラット、久しぶりだな」
コンラットはアルベルトが気安く話す数少ない使用人の内の一人だったが、しばらく見ない間に随分と老け込んだように見える。無精髭が生えているのが珍しく見ていると、居心地悪そうに顎に触れた。
「申し訳ございません、整えて参ります」
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「出直して来た方がいいか?」
「アルベルト様にお会い出来るのを楽しみにされていたので、どうぞこのままお会いになって下さい」
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「お祖父様お久し振りです」
落ち窪んだ眼窩に青白い肌。以前は誰よりも大きく見えた祖父が今はこうも小さかったかとしみじみ思えてしまう。
「……愚息がようやく来たか」
声は掠れており、目は虚ろ。間違えても仕方がないとは思いながらもいい気はしない。
「この御方はアルベルト様ですよ」
しかしコンラットの言葉にも返事はなかった。
「まだ怒っているのか。何が気に入らんのだ。身分の釣り合う娘を妻に選んでやったというのに」
アルベルトは拳をグッと握り締めた。息子の恋仲を裂き、無理やり自分の決めた相手と結婚させた人。そのせいで母親は心を病み亡くなった。ずっと関心はなかったが元凶の祖父を見下ろしていると、ふと一つだけ聞きたい事が浮かんでいた。
「お祖父様の考える結婚とはなんですか?」
愛に生きた父と家門を優先した祖父。きっと自分は祖父と同じように家門への利益を優先する人間なのだろう。それは構わなかったが、そう生きた人が最後に何を思うのか少しだけ興味があった。
「先祖代々の家を守る事以外に何があるのだ」
アルベルトは祖父に背を向けた。その時、ジャケットの裾を弱々しい力で掴んでくる手に足が止まった。祖父は特別厳しかった訳ではない。それでもいつの間にか自分の中で恐ろしい祖父像を作り上げ敬遠していた。
――こんなに小さい方だったか。
掴まれている裾を引くを手はいとも簡単に離れた。
「少しお話したい事がございます」
「それよりも休んだ方がいいぞ。酷い顔色だ」
「ですが次にお会いする日が最悪の日でないとは限りませんから」
そこまで言われてしまえば断る理由はない。コンラットと共に隣りの部屋へと入って行った。
「大旦那様はもうあまり長くはないでしょう」
アルベルトとルドルフは驚きのあまり顔を見合わせた。
「主治医からもって数日程というお話です。ですから誤解したまま別れを迎えてほしくないのです。これは私の我儘です」
「親子揃って勝手だな。お前の気が済むなら話せ。でも俺の考えが変わる訳じゃないからな」
「ありがとうございます。大旦那様がご当主になられてすぐ、ベルトラン侯爵家は没落の危機に瀕したのはご存知ですね?」
「お祖父様が事業を失敗したせいだろう?」
するとコンラットは苦い表情を浮かべて首を振った。
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「武器なんて内乱や戦争の火種になるだけだけだからな。それにしても西の国との貿易だなんて随分昔の話のようだ」
コンラットは当時を思い出しているのか険しい表情になっていた。
「船と乗組員、積荷の捜索に追われている中で事態は最悪の方向へと進みました。当時外務長官の任に就いていた大旦那様が西の国と結託し大量の食料を横流しした見返りとして、秘密裏に武器を受け取っているとある貴族に告発されたのです」
「西の国は土地こそ広いが砂漠が多いからな。食料の生産は難しいだろう。その状況を逆手に取られたという訳か」
「その時に声を上げてくださったのがモンフォール前伯爵だったのです」
昔、あまり顔を合わせない父親がモンフォール伯爵家の事を“田舎貴族が”と悪態をついていたのを耳にした事があった。
「モンフォール伯爵はご自身の領で管理するベルトラン侯爵家の船に載せて輸出をした取引の詳細を載せた帳簿を一年分提出したのです。穀物に豆、野菜や果物、肉や酒などの食品を、どのくらい他国や商会、商店に卸したのかまで明瞭に記載されていました。更に必要であれば過去の資料も提出すると仰ったのです。するとやがて他領もそれに習い資料をするようになりました。その内容はベルトラン侯爵家が積荷をどうこうしようにも付け入る隙などない程でした」
当時の父親はまだ若く、ずっと領地に引き籠もり農業ばかりしている田舎貴族に救われたというのは、王都の中心に住むまだ若い侯爵家の令息には屈辱的だったに違いない。
逆風が吹いているという危機的状況もあって、おそらく爵位の低い恋人とは別れさせられ、後ろ盾のある侯爵家の母親と結婚させられたのだろう。
「そう言えば少し前に、旦那様があの御方とご一緒にいらっしゃいました」
「ここに愛人を連れてきたのか!?」
「あの御方が望まれたようですがすぐに出て行かれたので、何をお話になられたのかは分かりません」
「一体何の用があって来たんだ全く」
その時、誰かが廊下を足早に過ぎる音と、隣の部屋の扉が開く音と侍女の叫び声がほぼ同時にした。
三人が隣の部屋に飛び込んだ時には侍女は腕から血を流し、女がベッドの上で馬乗りになっていた。その手には短刀が握られている。こちらを振り見た女は強い視線でアルベルトを睨み付けると短刀を振り下ろした。アルベルトの振り上げた足が女の肩にぶつかり、吹き飛ばされるように女はベッドの向こう側に倒れていった。
「大旦那様ご無事ですか!」
荒い呼吸をしている祖父の体をコンラットが支えている間に、アルベルトは女の腕を後ろに掴み上げた。悲鳴と共に怒りに満ちた顔が向く。それは子供の時以来に見る父親の愛人だった。容姿はあまり変わっていないように見えるが、神を振り乱す姿はやはり年を取っていた。
「連行するから馬車の用意をしろ」
「離せ! 殺してやる! その男を殺してやるんだから!」
暴れてもアルベルトの拘束から逃れられる訳もなく、腕には拘束の縄が掛けられた。
「私の子を返せッ! 返せ返せ返せ! お前だけはこの手で息の根を止めてやるんだから! 私の子を返せ――!」
アルベルトは驚いたまま祖父を見た。
「何を驚いている。当たり前の処置だろう? あの当時は西の国から子が出来にくくなるという秘薬が手に入ってな。そのお陰でお前は侯爵家唯一の後継者でいられるのだから私に感謝してほしいくらいだ」
今は意識がはっきりしているらしく、落ち窪んだ眼窩は死の気配を纏いながらも威圧感に満ちていた。
「何故そのような事を」
「お前の母親の実家からいくら金を貰ったと思っているのだ。それで他所に子供など出来てみろ。ベルトラン侯爵家も今のような規模ではなかったろうて。全ては家門の為にやった事よ」
アルベルトは握っていた縄をきつく握り締めていた。女は泣き叫び、呪いの言葉を吐いている。それでも連行していく頃には暴れるような事は一切なかった。
「本日はお疲れ様でございました」
深夜にようやく屋敷に帰ってきたアルベルトは、薄明かりの中でグラスに酒を注ぎ入れた。一気に飲み干すと喉が一気に熱くなる。それでももう一杯注ぐと再び飲み干した。
「旦那様は冷静でしたね」
父親が馬車を飛ばして出張先から帰って来たのは少し前の事だった。屋敷の牢に捕らわれていた愛人を連れ出すと、別邸へとあっという間に連れ帰ってしまったのだった。
「どのみちあの女をずっと捕らえておけるとも、ましてや裁判に掛けられるとも思っていなかった。怪我をした侍女にも多額の賠償をして口を噤ませる気だろう」
「アルベルト様も冷静ですね。私は少しだけ驚いております。きっとお子が出来ないようにする為に、私の父も関わっていたでしょうから」
「コンラットは祖父の為なら協力しただろうな。俺のそばにいるお前のように」
薄い唇を噤むと、ルドルフは小さく言った。
「アルベルト様は私にそんな事をさせないで下さいね」
「俺が愛人を作ると思うか?」
「そう言えばモンフォール家のカトリーヌお嬢様をご覧になられましたか? デビュタントの会場には行かれたのですよね?」
その時、アルベルトの頬に緊張が走った。
「遠目からは見た」
「いかがでしたか? お気に召されましたか?」
「遠目からだと言っただろ。最も、向こうはもっと大物を狙っているようだったがな」
「フィリップ殿下の事ですね。私もその場面は見ていないのですが、話によると随分面白い事があったと噂になっているようですね」
ルドルフはアルベルトの反応を楽しむように小さく笑った。
「あのお方が誰かとダンスを踊る珍しい光景をぜひともこの目で拝見したかったです」
「このままだと王家から縁談の話がいくかもしれないな。父上の悔しがる顔の方が見ものだぞ」
「アルベルト様は本当にそれで宜しいのですか?」
「お前まさか俺がこの結婚を望んでいるなんて思っていないだろうな?」
「思っていませんが、ベルトラン侯爵家のいざこざはモンフォール伯爵家のご令嬢には全く関係のない話だと思っただけです」
アルベルトは気まずそうに残りの酒を飲み干すと小さく呟いた。
「自ら誘ったんだ。王家から縁談が舞い込めば喜んでそっちにいくさ。向こうが他の相手を選べば喜んで婚約は解消してやる」
「私が何を言ってもきっとお考えは変わらないのでしょう。これからご自身の目でご判断下さいませ」
「式まで会う気はないぞ」
「贈り物は定期的にしてくださいね」
「それもお前に任せる。モンフォール伯家の娘は跡継ぎを産んだら離縁してやるさ。その後で遊ぶなり再婚するなり好きにすればいい」
「全く、お優しいのかお厳しいのか。もっと分かりやすい性格だと助かるんですがね」
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